第32話

 目を覚ますと夜は明けていた。

 いい匂いがキッチンの方からしてくる。

 水の流れる音。

 歩いている気配。

 誰か自分ではないひとの足音を聞くのはどれくらいぶりだろう…

 緩やかな朝の覚醒の中で匡孝は笑っていた。



 夢を見ていた。

 春の夢、いつの春か、分かる。

 もう散ってしまった花の名残が、緑の葉の間から思い出したように落ちてくる。

 ひらひらと舞う。

 声がして、振り返る。

 いつの春も同じように。


「…ほら、起きろよ。朝だぞ…?」

 冷たい手のひらがそっと瞼に押し当てられた。

 ああ、また眠っていたのだと匡孝は思った。

 匡孝は目を開けた。

 穏やかな笑みを浮かべて市倉が見下ろしていた。

 いてくれてありがとう、と匡孝は笑った。


***


 母との話を聞いた祖母は泣いていた。

 悲しいというよりも、それはどちらかと言えば怒りのようで、自分の娘に呆れ果てているというのが正直なところのようだった。

 そして匡孝も随分と怒られた。

「あんたは!どうしてそんな大事な事をひとりで決めてしまうの…!」

 久しぶりに行った祖母の家で、匡孝は本当に久方ぶりに祖母に頭ごなしに怒鳴りつけられた。こんなふうに怒られたのはもう随分前、母が帰って来なくなり、匡孝がひとりで家の中の事をやっていたあの頃──それはちょうど佐凪が初潮を迎えた時で、どうにもならなくなった匡孝が慌てふためくその状態を、佐凪自身がようやく祖母に知らせた──あの時に鬼のような形相で烈火の如く叱責されたのだった。

 どうしてもっと早くに、言ってくれなかったのかと。

「ごめん、祖母ちゃん…でも俺が自分で決めた事だから」

 許して下さい、と言うと、今度は頭を叩かれた。

「バカっ!本当にあんたって子は…っ」

 許すも許さないもない、そんなことではないと涙声で言われ、匡孝ははっとして祖母の顔を見た。

「あんたがしたい事を私が反対するわけないでしょう!なんでも言えって言ったのに、あんたは!そうやって何もかも抱え込むからっ」

 祖母の隣で佐凪が笑った。

「さあちゃんっ、笑うなんてっ」

「おばーちゃん、言っても無駄だもん、お兄ちゃんだよ?」

 頑固で融通利かないの分かってるでしょ、とけらけらと言った。

「いーっつもこうだよ?いい加減にして欲しいよ、ちょっと年上だからって頑張りすぎるのもどうかと思うよねー」

 ねえ、と拓巳を振り返る。

「姉ちゃん…」

「そこでうんとかはいとか言いなさいよ!」

 ばしい、と佐凪が拓巳の頭を引っぱたいたので、慌てて匡孝は間に入った。いてえ、と拓巳がこたつの横にうずくまる。

「こら佐凪っやめろっ」

「なにそんなでかいの庇ってんのよ、言っとくけど、今じゃお兄ちゃんよりでかいんだからね!」

 うぐ、と匡孝は声を詰まらせた。久しぶりに会った拓巳は確かにびっくりするほど背が伸びていて、出迎えに来てくれていた駅の改札で匡孝の度肝を抜いたのだった。隣に佐凪がいなければ気がつかなかったかもしれない…などとは口が裂けても言えない。

 聞けば、祖母のもとに引き取られてから、地区のバスケットのクラブチームに入ったのだとか。何にせよ元気なのは嬉しいことだった。

 よしよし、と昔の癖で拓巳の頭を撫でていると、それよりも、と佐凪が言った。

 匡孝が目を向けると、何やら意味ありげな視線で佐凪がにやりと笑った。

「お兄ちゃん、…出来たね?恋人」

 ぎょっと目を丸くした匡孝に、佐凪は満面の笑みでじりっとにじり寄って来た。


 祖母が腕を振るって作った夕食と、一日遅れの豪華なクリスマスケーキ(こちらは市販品)を食べた後、泊まっていけと言う3人を明日はバイトだからとどうにか納得させて、匡孝は祖母の家を出た。嘘をつくことにちくりと胸が痛んだが、これ以上長居すると佐凪に何を言われるか分かったものではない。みんなの顔も見れたし、とりあえずの報告も出来たのだから早々に退散するに限る。

「じゃあまた。また来るから」

 今度は正月と、拓巳の誕生日に。

 匡孝は振り返って玄関の前に立つ佐凪と拓巳に言った。

「祖母ちゃんのこと、よろしくな」

「うん」

 拓巳は悲し気にこちらを見てくるのに、隣の佐凪はにやにやと笑いながら匡孝に手を振った。

「またねお兄ちゃん」満面の笑みで言う。「今度その連れて来てね」

「エッ⁉」

「なッ──!」

 なんだそれ──彼氏⁉

 こいついつから──

 声を失くした匡孝に、バイバーイと佐凪は明るく言って、匡孝と拓巳を完全に凍り付かせた。



 駅に着くと、車はもう駅のロータリーに停まっていた。

 銀色の年季の入ったスバル・ランカスター、この前、後ろのバンパーが少しへこんでいるのに気がついた匡孝が直さないのかと聞いたら、市倉自身そんな傷があるのをまるで知らなかった。

 物に執着しない市倉らしいと匡孝は笑った。

「ごめん先生、お待たせ」

 助手席のドアを開け中に滑り込む。車内は丁度いい温度に暖まっていた。

 読んでいた本から顔を上げて、市倉は匡孝を見た。

「早かったな。もういいのか?」

 まだよかったんだぞ、と時計を確認されて匡孝は苦笑した。

「ん、大丈夫。みんな元気だったし、明日バイトだって言っちゃったし…」

 今日は一日ずらした定休日だが、明日の水曜日は本来なら営業日だ。しかし今朝早くに大沢から連絡があり、明日も店は休みにすると告げられた。どうやら浜村が風邪で倒れたようだった。

『年に一回はこうなるんだよ、過労もあるんだろうけど。大したことはないから気にしなくていいよ。今日明日と君もゆっくりして?せっかくの冬休みだろう。また28日からお願いするよ』

 好きなこととはいえ、本人に働きづめの自覚がないから仕方がないねと大沢は電話の向こうで苦笑していた。

「じゃあ行こうか」

 エンジンがかかり、ゆっくりと車が動き出す。

 うん、と匡孝は頷いた。


 クリスマスが終っても、イルミネーションは年明けのカウントダウンのイベント用にそのままにされていて、平日にも関わらず以前訪れた海浜公園は多くの人で賑わっていた。冬休みに入ったばかりの学生たち──大学生や高校生──が友達とあるいは恋人と楽しそうに写真を撮ったり、笑い合い、ふざけあっている。家族連れ、夜のお出かけにはしゃいでる子供たち。公園の一角では小さなステージが設けられていて、地元のバンドが演奏をしているのを訪れた人々が足を止めて聴き入っている。

 あ、と匡孝は思った。

 これ、どこかで聞いたことがある、と匡孝が芝生の上でそちらを見ていると、隣に戻ってきた気配がして顔を向けた。

「ほら」目の前に願っていたものが差し出された。「バニラだったか?」

「うん」

「この寒いのにアイスとはね」

 嬉しそうに受け取る匡孝を見て、呆れたように市倉は言った。市倉の手にはコーヒーの紙カップが握られている。

 匡孝はアイスを舐めた。

 ぽっかりと胸の中に穴が開いている。喪失感がいつまでも消えない。

 泣きすぎたせいだと匡孝は思った。

 離れがたいこの寂しさ。本当は今も手をつないでいたい。

 あの家にひとりでいたくない。

 ただ帰りたくなかった。市倉もきっと、このことには気づいているだろう…

 昨夜、バイトの後にはどこへも行かず市倉の家で過ごした。映画を見ているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。また真夜中に目が覚めて、市倉が隣にいるのを確認して、再び眠った。

 今日の休みは祖母宅に行く予定だったので、昼前に市倉の家を出た。

 別れ際に泊まるのかと聞かれ、帰ってくると言った匡孝に駅まで迎えに行くと市倉は言った。帰りにどこかに行こうと誘われて、匡孝が行きたいと思ったのはこの海浜公園だった。

 前回来たときは車の中から見るだけだったこの場所を、今度は歩いてみたかった。

 そして…

 熱いのか、市倉はコーヒーを吹いて冷ましてからゆっくりと啜った。

「冷えるぞ?」

 匡孝は手の中のアイスを眺めた。

「いいよ…いつも決めてたんだ」

 この曲、そう。

 知っている。でも思い出せない。

 何だったかな…

「…え?」

 匡孝は苦笑した。

 やっぱり思い出せない。

「うちさ…ほら、母親いなくてずっと弟と妹を俺がみてたんだけど、喧嘩とかあるだろ?まあ大抵下のふたりが始めるんだけど。でさ、泣くよね負けちゃうと。そしたらアイス買ってくるの、俺が」

 市倉がじっと匡孝を見ている。

「それを3人で食べて、喧嘩はおしまいにするんだ。アイスって早く食べないといけないし、溶けるから早く食べようって集中するから色んなこと忘れるのにちょうどいいんだよね…だからさ、うちでは何かあって誰かが泣いたり怒ってる時にはアイス食べるって決まってるんだ」

 変でしょ、と匡孝は笑った。

「…だから今日、食べようって思って…それで、こないだここに来た時にアイス食べてた人がいたの思い出したから──」

 そこまで言って顔を上げて、匡孝はどきっとした。市倉がなんだか──

 何か変な…顔をしている。

「え、何、どうしたの…」

 たくさんの人が賑やかに周りを歩いている。人の流れの中にふたりはいた。騒がしいはずなのにどうしてか自分たちの周囲だけがそこから切り取られているような、静かになったような気がして匡孝はたじろいだ。

 市倉はじっともの言いたげな目で匡孝を見ている。

「まだ辛いのか?…俺といても、まだ悲しいのか?」

 匡孝は慌てて首を振った。

「違う、ごめん、そうじゃないよ…そんなつもりじゃなくて…!」

 溶け出したアイスがコーンの淵から溢れて、匡孝の指を伝った。

「悪かった」

 市倉は言った。

「俺は、やっぱり…おまえをひとりで行かせるべきじゃなかった」

 市倉があれから、あの時匡孝と母の間に入らなかった事を後悔していると、匡孝は気づいていた。

 どうして止めなかったのかと、市倉は自分自身を責めている。

「そんなことない、俺は…ひとりで行かなきゃ行けなかったんだ。先生がいてくれたから」

 市倉はちゃんと見ていてくれた。

 止めずに見守っていてくれた。

 自分が母に膝を折るところを。

 手をついて頭を下げ、母の望み通りの言葉を口にした瞬間を。

 母と決別するために匡孝が言った言葉を。

 それだけで充分だった。

「…俺は、先生があの時見ていてくれてるって分かってたから、母さんに言えた。どんな形でも、言えたから。だから…あれでよかったんだ」

 そう言うと、匡孝は笑ってみせた。

 市倉は口元を引き締めて、何かを耐えるような顔をしている。そして、静かな声で、強く市倉は言った。

「俺があの時、どんな気持ちでいたと思う?」

 匡孝は息を呑んだ。

 どんな気持ちだろう。もし、自分が…

 彼だったら?

「俺は、あの時、おまえの母親を殴り飛ばしてやりたかった」

「え…」

「こんなに…こんなに俺が大事にしているものを踏みにじるあの女を、殺してやりたいと、そう思ってた」

「──」

「俺は、あんな思いをするのは二度とごめんだ」

 市倉の顔は苦痛に歪んでいた。

 それだけでもういいと思った。

 その言葉だけで。

 何もかもが消えていく。

「…うん」

 きっと自分もそうだ。この人を傷つけるものが目の前にいたら、何であれ同じように思うだろう。

 匡孝は微笑んだ。

 その時、わっと拍手が沸き起こった。

 気がつけば、周りには大勢の人が集まっていた。ステージを取り囲んで、みんな笑っている。あちこちから歓声があがる。

 一つの曲が終り、次の曲が始まった。そこにいる人たちが同じ方向を向き、ゆっくりとしたストローク、力強いリズムに思い思いに身を委ねていく。揺れる影、歌う声、重なるリズム、誰もが自分たちの世界にいる。

 誰も──

「…もう、これは要らないだろ」

 市倉が、匡孝の手から溶けたアイスクリームを取り上げた。近くのゴミ箱に捨てに行く。匡孝はそれを目で追った。その背中に、今、手を伸ばしたいと思ってしまう。知られないように、ぎゅ、と両手を握りしめた。

 ちょっと離れただけで寂しいと思うなんて。

 どうかしてる…

 深く息を吐き出した。

 戻ってきた市倉に、ごめんと匡孝は謝った。

「せっかく買ってくれたのに、もったいなかったね」

 市倉は答えなかった。

 何か怒らせてしまったかと、顔を見上げた匡孝は口をつぐんだ。

 見つめ合ったまま沈黙が落ちる。

 市倉の瞳がふっと揺らいだ。

「匡孝」

 匡孝の心臓が跳ねた。

 そんなふうに呼ばれるのは初めてだった。

 匡孝。

 市倉が言った。

「頼むから…もう、あんなふうに泣くな」

 何かを求めて泣きじゃくる匡孝の顔が甦る。手が宙をさまよっていた。失ったものを取り戻すように縋りつく姿が離れない。その手を握りしめて、抱きしめて、ここにいると何度も繰り返した。

「俺は、おまえと一緒にいたい」

 もう二度とあんな思いはさせないと、あの時市倉は自分に誓っていた。

 もう二度と。

 それは祈りにも似て、その思いが胸を締めつける。

 匡孝の目をまっすぐに見た。

「俺といて、匡孝」

 匡孝は目を瞠る。

 市倉が穏やかな笑みを浮かべた。

「おまえはどうしたい?俺が、好きか?…いてくれるか?」

 嫌か?と言われて匡孝は首を振った。

 市倉はじっとこちらを見つめている。

 声が出ない。言いかけて開いた匡孝の唇が震えた。

「うん…」

 絞り出した声は掠れていた。

「俺も、一緒にいたい…好きなんだよ…っ」

 視界がゆらりと揺れる。

 とたんに目の前の市倉が歪んだ。

 見たいのに、見ていたいのに見えなくて、瞬くと余計に市倉が見えなくなる。

「…っ」

「駄目だ、また腫れるから」

 俯くとぱたぱたと雫が落ちた。目を擦ろうとしたその手を取り上げられて、追うように顔を上げた。目が合って、顔を手のひらで包み込まれて、指で目尻を拭われる。

 誰かに見られたらと思い匡孝は焦った。

「もお、やだって…!」

「誰も見てないよ」

 大丈夫だと言われて引き寄せられる。

 コートの中に抱き込まれた。

 確かに誰も、きっと見ていない。

 自分が思うほどには誰も、他人の事には無関心だ。

 皆踊っている。

 歌っている。

 大丈夫。

 市倉が言った。

「卒業したら一緒に暮らそう」

 コートの中は暖かく、煙草の匂いがした。

 返事をしようとしたけれど、声が出なくて、匡孝は何度も頷いた。

「帰ろうか」

 人の波の中を手をつないで歩く。

 手を引かれながら、その背中を見ていた。

 まっすぐに迷いなく歩いて行く。

 ふっとそこに、りいの姿が浮かんだ気がした。

 重なって消えていく。

 匡孝は祈った。これからも、この光景が続いていくように。

 これからも、この先も。

 つないだ手をぎゅ、と握ると強く握り返された。

 暖かな雨が胸の奥に降っている。

 歩くたびに、溢れ出した胸の穴から悲しみや寂しさがビー玉のようにぽろぽろとこぼれて落ちていった。波のように踊る人たちの足下に、まるで足跡のように転がっていく。

 たくさんの悲しみ、たくさんの寂しさがこぼれた。

 振り返ると、芝生の上に落ちた匡孝の透明なビー玉が、次々に誰かの足の下で弾けていった。

 歌う人たちの足の下で、あるいは踊る人の、たくさんの子供たちの、知らない人、笑い合う多くの人の足下で。

 ぱちん、と弾けていく。

 とたんにそれは夜の闇に溶けて、イルミネーションの淡い月のような光の中に昇り、霧となって消えていった。

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