第29話

「…店長?」

 呟いた匡孝に大沢は頷いた。

 どうしてこんなところにこの人がいるのだろう?

 出掛けたのでは…なかったのか?

 ここで何を…

 大沢は外したマフラーを抱くように胸に抱えていた。

「君に辞められたら、浜村も困るだろうな」

 そう言って女をまっすぐに見た。

 一瞬怯んだように彼女が息を呑む気配がした。

「あんた誰…?」

「潰そうとしてる店の者の顔くらい覚えておいたらどうだ」

 枯れた草を踏み、大沢は距離を詰めてきた。

「どうでもいいわよ」

「そうだろう」言いながら匡孝に片手を差し出して、立つように促した。匡孝はその手を取ってゆっくりと立ち上がった。

 大沢を見たが、大沢の目は女に向けられていた。

「で、うちの従業員に何の用かな」

「あんたに関係ないでしょ!」

「あるよ。大事な預かりものだから、話は僕が聞く。それで何だって?わたし達の言う事を聞けとか言っていたな?それは脅しか?」

「そんな事言ってない!」

「僕にはそう聞こえたが?」

 ハ、と女は嘲笑した。

「あんたの聞き間違いじゃないの⁉」

 挑むように食ってかかる女を大沢はじっと見つめた。

「そうか?」

 大沢は匡孝の前に出た。マフラーを胸に抱えたまま、ポケットの中を探る。

「君も言っていたが、今はとても便利だよ。携帯ひとつあれば、何だって出来る、──だったか?」

 そう言って何かを押すと、大沢の携帯から声が流れ出た。

『…あの店、変な噂流してもいいんだ…あそこ潰しちゃうのはおしいけどさあ、でもそんなのも今は簡単に出来ちゃうんだよねえ…口コミとか?一発でアウトじゃない…』

 女の顔が凍り付いた。

 けたたましい笑い声が続く。

『ハハハハハ、あんたバカじゃないの……あんたが店を辞めようがどうだっていいよ!いようがいまいが、あんたがわたし達の言う通りにしなきゃ潰すだけってことじゃん!分かんないの…』

 自分の声を聞いて、女の唇が震えた。

「確かに便利だ。感度が良いな、脅迫の証拠がキレイに録れている」

 それと分かる嫌味に女の顔が歪んだ。

 まだ流れている声を、大沢はうるさそうに止めた。するりと、それをポケットにしまう。

 顔を上げて女を見た。

「どうする?警察に行くか」

 女は声を失くして立ち尽くしていた。

 大沢が一歩近づくと、睨み、何かを言いかけて口が開いたが、唸るような声しか出せないようだった。

 結局、女は口を閉じた。

「行きたくないのならこれ以上つきまとうのはやめることだ。その携帯の写真も全て今ここで消去してもらう」

 さあ、と大沢が手を差し出す。

 女の目が大沢の顔を探るように見た。

 そして、彼女は驚くほどあっさりとその手に自分の携帯を解除して──乗せた。

 匡孝は驚いた。

 大沢はそれを片手で操作して写真を削除し、女に突き返した。

「二度と姿を見せるな。今度来たらこれを警察に渡す」

 女は忌々しそうに大沢を見て、そして匡孝を睨みつけた。

「あんたみたいな甘ったれたやつ、ちょっとぐらい苦しめばよかったのに…!」

「……」

 匡孝は女を見た。

 まるで知らない人だ。けれど彼女は自分を──一方的に──少なからず憎んでいる。それはどんな感情だ?

 この人に自分はどう見えているのだろう。

 自分を不幸だとは思わないが、幸せそうに見えていたのだろうか。

 答えない匡孝に女は鼻で笑った。

「まあ、あのセンセイをホントに苦しめたいのはわたしじゃなくてあっちだけど…ホントに殺しちゃうかもね」

 え?と匡孝は呟いた。

「りいが、先生を…?」

「りい?ああ…」

 その名前を口にした匡孝を女は面白いものでも見たような顔をして眉を上げた。その表情に匡孝は違和感を覚える。

「知ってたんだ、へえ?」

「りいが、何するって言うんだ!」

「知らないわよ」

「友達なんだろ⁉知らないって…!」

「やめてよ、友達?バカみたい。言ってみただけだし」

 どうでもいい、と女は吐き捨てた。

「あの女おかしいよ」

 まるで知らない他人のように女は切り捨てた。

 匡孝は目を見開いた。信じられない。

「どう…、なんで…っ」さっきまであんなに言っていたのに。

「もう遅いかもね」

 にやりと笑う女に大沢は失せろ、と言った。

「とっとと消えろ」

 ちらりと鋭い一瞥を寄越して、女はさっと身を翻した。

 闇の中を走り、あっという間に消えた。

 


 闇の先には何もない。

 細い道があるだけだ。

 たった今彼女が言った言葉を反芻していると、大沢がぽつりと言った。

「ハヤシエナ」

「え?」

「彼女の名前だ、ハヤシエナ。さっき写真を消した時に見た」

「え⁉」

 いつの間に、と匡孝が驚いていると、大沢がくすっと笑った。

「腐っても経営者だから、こういう事の対処には慣れてるんだ」

 そう言って、いつもの困ったような微笑みで大沢は匡孝を振り向いた。

「…店長、あの、ありがとう」

 匡孝が言うと、大沢は頷いた。

「いいよ」

 りいの友人を追い払った時の鋭い気配は失せ、大沢は普段に戻っていた。匡孝のよく知った大沢だ。

「役に立ったな」

 自分の携帯をポケットの上から軽く叩いて見せた。胸にはマフラーを抱えたままで、ふとそれが何かを包んでいるように見えて、匡孝は聞いた。

「店長、それ…」

 何か小さなものを包んでいる。

 ああ、と大沢は言った。

「僕の猫だ。もう死んでるけれどね」

「え…?」

「ずっと探していたんだよ」

 そっとその背の形を大沢の手が撫ぜた。柔らかなタータンチェックのマフラーの中に小さく埋もれる愛猫の亡骸を、愛おしそうに大沢は見つめた。

「もう老衰でね、14年生きたんだ。元々はここの、土地を売ってくれた関口さんの家の猫だったんだが…ご夫婦が施設に入ることになってね、ちょうどこれも縁だと、僕が引き取ったんだよ。8年くらい一緒にいたかな」

「…そうなんだ」

 関口家は先ほど匡孝が最後に招待状を持ってきた家だ。匡孝はまだ暗いその家を見た。そこには今、息子夫婦が住んでいると聞いた覚えがあった。

「ずっと一緒にいたのにね…最後は会いたかったのかな。目を離した隙に出て行ってしまって」

 コンタットの小部屋で大沢はずっと猫と一緒にいたのだと、匡孝は初めて知った。知らなかったと呟くと、飲食店だから気をつけていたよ、と大沢は笑った。

「もう死んでいるだろうって分かってたんだけど、せめて亡骸だけでも見つけてやりたくて…探し回ってた」

「そっか…よかった」

「うん」

 おかえり、と大沢は言った。マフラーの膨らみを手のひらで辿る。

 俯いてずり落ちた眼鏡を匡孝はそっと外してやった。伏せた目の淵が光って見えた。きっと猫を探すために大沢は合わない眼鏡を掛けていたのだと、匡孝はそのとき気がついた。


***


 注文を取りに行くと、大体の客が一瞬奇妙な顔をして見上げてきた。そして、何とも言えない間が空く。

 それから皆同じことを口にするのだった。

「江藤くんは?」

 

「あーちょっと!浜村さん、これどうする?こんなんでいいのか?」

 パフェのクリームがべちょっと倒れた。

「いやそれ…待って吉井!こっち先に持ってってくれ!」

 コンタットの厨房は大騒動だった。

 ウインドブレーカーの上にエプロンを着けた吉井が皿を慌てて運ぶ。

「お待たせです、えーと、牡蠣のペペロンチーノ?」

 はは、と年配の男性客が笑いながら受け取ってくれる。

「江藤くんの代理なんだってね」

「はい、ええと、そうです」

「がんばってねえ、それにしても大きいわねえ」

 何かしているの?と上品な奥さんがおっとりと聞いてくる。

「あーバスケです」

「まあそうなの、どうりでねえ!」

 そうかそうか、と向かいの旦那さんと頷き合う。微笑ましい光景だ。だが微笑んでいる場合ではない。カウンターの上には運ばれるのを待っている皿が溜まっていた。

 ああ早く戻らないと、と心の中で焦りながら吉井は精一杯に笑ってみせた。


 匡孝がいないだけでこうも回らないなんて、と浜村は苦笑した。匡孝が来る前まで浜村は平日だろうと週末だろうと、ひとりでこの店を回してきたのだ。確かにひとりなのは久しぶりだが、ここまで苦労するとは正直思いもしなかったので、もう笑うしかなかった。

 厨房からホールを右往左往する吉井が見える。

「なんだあれは」

 いつの間に帰って来たのか、大沢がコート姿のまま浜村の横でホールの方を見ながら呟いた。

「おー、おかえり」

「あれは誰だ?なんでジャージにエプロンなんだ」

「臨時に雇ったクリーニング屋の息子」

「は?」

「江藤の友達、あいつ出て行ったまま帰って来なくて」

 ちょうど来たからさ、と浜村は言った。

 ふうん、と大沢は厨房を見回した。

 確かに──随分忙しかったようだ。

 でも浜村はひとりでも出来るはずなのに、と大沢は思ったが、口には出さなかった。

「江藤君ならさっき会った」

 え、と浜村が目を剥いて大沢を見た。

 なるほど、よほど心配していたようだ。

「あいつどうした⁉先生は⁉」

「先生?」

「一緒じゃなかったか?」

「え?一人だったけど…ああ、イチクラ先生のところに行ったよ。荷物を持って行ったから、今日はもう来ないだろうな」

「え⁉」

「…後で話すよ」

 肩を竦めて大沢は言った。浜村がふと、何かに気がついたようにじっと大沢を見た。

「…見つかったのか?」

「うん」

 と大沢は頷いた。

 そうか、と浜村は言った。滲むように微笑んだ。

「よかったな」

 眼鏡のない顔で大沢は笑った。ホールの方から浜村を呼ぶ吉井の声がして、大沢はちらりとそちらを見た。

 そして眉を顰めた。

「やっぱり江藤君がいいな」

 その言い草に吉井が可哀想になったが、まあ確かに、と浜村も苦笑した。


***

 

 送ったメッセージは送信先不明で返って来た。着信は拒否されている。エナは失敗したのだ。

 まあどうでもいい──その手際の良さには感心するが──どうせ、元々ネットで知り合った相手だ。切り捨てるのには都合がよかったので選んだだけの事だった。

 携帯からエナの情報をすべて消した。

 さよならオトモダチ。

 これでひとりきりだ。でも、はじめからそうだったはず。

 あとは自分のやるべきことをやるだけだ。自分を突き動かすものが何か、よく知っている。

 その建物を見上げた。

 古いアパートだ。金属の階段を上り、部屋の前に立った。

 少し乱暴にすると容易く鍵は壊れた。ノブを回してドアを開け中に滑り込んだ。

 闇の中、手の中で小さな火を灯した。

 何もない部屋だった。必要最小限のものばかり。殺風景なその小さな空間は彼自身のようだ。締め切った部屋は冷たく、彼の匂いがした。

 煙草の匂い。

 遠い記憶の匂い。

 誰も──知らない私の記憶。その隅に彼はいる。

 火を消して部屋の明かりをつけた。

 りいは待った。

 きっともうすぐ来るはずだ。あの高校生は手に入らなかったけれど、その名前を出せば彼の声色は分かりいやすいほどに変わっていた。エナからもらった動画も送っておいたのだから、効果は絶大だ。最後に彼女は役に立った──上手くいった。

 りいは笑った。

 それほどまでにが大事なのかと、ねじれた笑いが込み上げてくる。

 やがて──それは訪れる。

 金属の階段を足音が上がって来る。

 部屋の前で止まる。

 さあいよいよだ。


***


 夜の道を匡孝は走っていた。

 店まで大沢と戻り、荷物を取り出して走り出した。店の方が気になったが、早く行け、と大沢に促された。

『でも今日、予約とかも入ってて、俺…』

『浜村はひとりでも大丈夫だよ。たまにバイトもいたけど、ずっとそうだったから』

 今夜くらいどうにでもなるよ、と大沢は笑った。

『明日からまた頼むね』そう言って匡孝を見送ってくれた。


 エナの言葉が引っかかっていた。

『ホントに殺しちゃうかもね』

『もう遅いかも』

 遅い?

 何が?

 りいが──何をするっていうんだ。

 焦燥感に胸が押しつぶされる。

 繰り出す足が気持ちについて行かずひどく遅く感じる。もどかしい。

 上がる息、ただひたすらに走る。

 走りながら匡孝は携帯を取り出した。揺れる視界の中、震える手で市倉の携帯を呼び出した。

「先生…!」

 あの時一瞬でもエナの言葉に動かされた気持ちが腹立たしかった。

 ほんの少しでも──

 どうなるかなんてどうして考えてしまったんだろう。

 早く、早く、──会って。

 会いたい。

 会いたい。

 誰もあの人を持って行かないで。

 祈るように匡孝は願った。

 神様。

 コール音が鳴り続けていた。



 壊れたノブが回りドアが外側に開かれた。

 りいはゆっくりと顔を上げ──

「──莉子りこ!」

 愕然とした。

「待て、高見…!」

 制止する彼の背後にその姿を見た瞬間、りいは自分の悲鳴を聞いた気がした。

 お兄ちゃん、と──唇が、勝手に呟いた。



 コンビニの明かりが見え始めた時、匡孝は誰かに呼び止められた。

「ちょっと、ねえ、──待って!」

 前方から来る人影が十字路を入ろうとした匡孝に駆け寄って来た。「待って…!」

 匡孝は立ち止まった。耳に押し当てたままの携帯はいまだに繋がる気配がない。留守録にも繋がらないそれをそのままにして、匡孝は腕を下ろした。

「よかった、ねえ、あんたさ…」そう言って近づいてきたその若い男には見覚えがあった。

「あ、分かんないかな、俺あそこのコンビニの」

「あっ」

 よく見たその顔は十字路の先のコンビニの店員だった。いつか市倉と待ち合わせをしていた時、匡孝を気にしていたレジの大学生だ。バイト帰りなのか私服姿だった。

 よく顔を合わせているのに、制服を着ていないと分からないものだ。

 大学生はほっとしたように笑った。

「思い出した?よかったー。あのさ、あんたあのおっきい男の人の知り合いだよな?」

 それは市倉のことか。

「あ、うん、はい」

 やっぱり、と大学生は呟いた。

「あの人さっき、車コンビニの駐車場に停めてったんだけどさ、今日オーナー来てて、あんまり長いとナンバー控えられてレッカーされっかもしれないから。俺もう上がりだし、知らせてもらえるかな」

「え…」

「連絡出来るだろ?」

 匡孝は頷いた。

「あの人いい人そうだし。よく来てくれんの、家この辺だろ。なんかよく停めてくけど、駐車場ってさあ借りるとそんな高いのかなあ」

「うん、あの、さっきっていつ⁉」

 え、と大学生は匡孝の勢いに驚いたが、首を傾げて思い出してくれた。

「えーと、20分くらい前?」

「どこに行ったとか、見てない…⁉」

 せめて方角だけでも──

 匡孝の問いに大学生はあっさりと答えた。

「あ、こっちの方」十字路の奥を指さす。「ちょうど俺外掃除してたから」

 市倉の自宅だと匡孝は直感した。

「ありがとう!」

「なあ、言っといてな!」走り出した匡孝に面食らいながらも、大学生は手を振ってそう言った。

 うん、と匡孝も走りながら手を振り返した。鳴らしたままだった携帯を耳に当てる。音は続いていた。それを手早く切って、全力で走り出した。



 制止する市倉を振り切って、高見は妹へと近づいた。

「──莉子」

 彼女はその男を見た。

「なんでいるのよ」

 忌々しそうにりいは──花田莉子はそう吐き捨てた。

 市倉の部屋の中、窓の側に莉子は座っていた。

 部屋の中央には莉子の兄の高見が、その後ろの入口に市倉が立っている。

 狭い部屋の中、冷え切っているはずなのに、妙に息苦しいほど暑いと感じるのはなぜだろう。

「なんでこんなところに、──今頃現れるのよ⁉」

「莉子…」

 途方に暮れたように名前を呼ぶ兄に、莉子は言った。

「その名前は捨てたの。とっくの昔に。そうさせたのはエイくんだもの、…ね?」うっすらと微笑み市倉を見る。「そうだよね?」

 エイくん、と言うその目の奥は淀んだ光が宿っていた。

「江藤はどこだ」

「さあ?」

 その時、市倉の携帯が鳴りだした。ハッとして、市倉は携帯を取ろうとして、やめた。

 なぜか──それが、匡孝からだと分かっていた。

「取れば?あの子からかもよ?」

 市倉は首を振った。「今はいい」そう言って部屋を見回した。匡孝はいない。どこにも。

「いなくて残念だったね…会いたかったでしょう?」

「無事なんだな?」

 その言葉に莉子は笑った。どうかなあ、と歌うように呟く。

「なんでこんなことをっ…」

「黙っててよ」莉子は兄をはねつけた。「ずっといなかったくせに、!私に何が言えるのよ、今さら!」

 うろたえる兄に一瞥を向け、莉子は市倉を見た。

「…大事そうだね、あの子が。すごく心配して…そんなに気に入ってるの?」

 その言い方に市倉は違和感を覚えた。何も答えない市倉にふふ、と莉子は笑い声を上げた。

「人の人生めちゃくちゃにしておいて、それはないんじゃないの?好きだとか、本当、バカみたい」

 莉子の手の中で小さな火が灯った。ライター。

 高見と市倉が息を呑む。

 炎の揺らめきのようにゆらりと莉子は立ち上がった。

「あんたがお兄ちゃんを悪者にしてからすべてが変わった、私の人生、家族も、皆みんな!ばらばらになってなにもかも無くなった!なのになのになのに、なのに!」

「莉子…もうやめろ、やめてくれ…!」

「うるさい!」

 髪を振り乱して莉子は叫んだ。

 鳴り続けていた携帯の音がふっと止んだ。

「なにもかも台無しにした!なにもかもなにもかもっ…!あんたがすべてダメにしたのに、なんで…──」

 こちらを見ている市倉を莉子はまっすぐに見つめた。

 ああ、と莉子は思った。そうだ。

 初めて市倉はこちらを向いた。

 どうしてと思う。

 どうして──

 けれど、なにもかもが、もう遅い。

 転がり出した石は止まれない。加速をつけて回り続ける。

 莉子は笑った。

「なんで、あんなふうに笑ってるの?なんであんたが、あんなふうに笑えるのよ!」

「やめろ!」

 手の中から放たれた炎がカーテンの裾に触れる。

 ぱっ、と部屋が明るくなった。

「莉子‼」

「あんたひとりが幸せになるなんてありえない‼」

 兄と妹の悲鳴が重なる。

 すべては一瞬だった。

 共鳴したように火は大きく揺らめいて、燃え上がった。

「死んでよ!」

 莉子は叫んだ。

「死ねばいいんだ!あんたなんか、あんたなんか──、大ッ嫌い‼」

 わめきたてる莉子が手を振り回した。炎の横で髪が振り乱れる。火が、その髪の先に燃え移った。

「くそッ!」

 瞬間、市倉は自分のコートを脱いでいた。呆然と立ち尽くす高見を押しのける。「どけ!」

 コートで莉子の頭を抱え込む。市倉は燃える窓辺から莉子を強引に引き剥がし、錯乱して暴れる体を高見に押し付けて叫んだ。

「外へ出ろ!早く!」

えい…っ!」

「行け!」

 妹を抱え呆然と立ち尽くす高見を玄関へ押しやった。

 市倉は手近にあった服でカーテンを叩いて火を落とそうとした。このアパートは古い。天井まで燃え広がる前に今──どうにかしなければ。

 玄関を転がり出るふたりを確認してから、市倉は小さなキッチンに走った。シンクの蛇口を思い切り捻り、なんでもいいかとそこにあった鍋に水を入れて火の中に投げつけた。

 ──先生!

 匡孝?

 鍋の水が火に当たってジュッと蒸発した。部屋中に燻る煙が立ち込める。小さく縮んだ炎が濡れたカーテンの端で揺れてぶら下がっている。もう一度水をぶちまけると、市倉は煙に激しく咳き込みながら部屋を出た。

「先生!」

 玄関わきの壁に寄りかかっていると階段を駆け上がって来る足音がした。

 まっすぐに匡孝が飛び込んでくる。

 振り向いて市倉はその体を受け止めた。

「先生…っ」

「大丈夫」と市倉は言った。

「大丈夫だよ…」

 その体を抱きしめて、ようやく市倉は深く、深く息をついた。

「平気だから」

 よかった、と匡孝が呟いた。

 闇の中、人のさざめく声──

 遠くから何かのサイレンが聞こえていた。

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