第12話

 朝、案の定激怒した妹──佐凪から匡孝に電話がかかってきた。

 覚悟はしていたが、それは壮絶だった。

「ちょっと!どういうつもりよ⁉︎こっち来ないって、なんなのよ!」

「あーええと…」

 ふざけんな!と喚き散らす声が耳の奥でキーンと響く。キッチンのテーブルでパンを齧っていた匡孝は深くため息をついた。

「さーな、ちょっと落ち着こうよ…」

「冗談でしょ、なんのつもり」

 電話の奥では祖母が妹を嗜める声がしていた。

「なんのつもりって…あのさ、バイトなんだ、代わりはいないとこだから」

 今日は休みとはとても言えまい。

「な?ごめんな?1月の拓巳の誕生日には行くからさ」

「ちょっと⁉︎その前に大晦日もお正月も冬休みもあるじゃないの!それも全部ひとりでいるって言うの⁉︎」

 ばん、と佐凪が何かを叩く音がした。

 まあ多分…テーブルだろう。慌てる祖母の声が聞こえてくる。弟の声もさらにそれに混じり、匡孝はふたりに心の中で手を合わせた。

 ──うわ、ごめん…ごめんね。祖母ちゃん、拓巳。

「いや、違う違う、そうじゃなくて、あのさ」

「お兄ちゃん」

 拗ねた声で佐凪は匡孝を遮った。

「私、お祝いしたかったのに」

 流しに使った皿を運ぶ匡孝の手が止まる。

「ごめんな?」

 宥めるように言うと佐凪は黙り込んでしまった。そのまま待っているとぽつりと佐凪が呟く。

「…お正月は、こっちに来てよ?」

「うん」

 少し浮上した佐凪の声に匡孝はほっとする。

「拓巳の誕生日は絶対だからね?ほんとは大晦日もだからね?これでも、これでも我慢してるんだからね?」

 分かってるの、と涙声になってもなお気丈に言い募る妹が可愛くて──仕方なくて、所詮は弟妹に甘すぎる自分を匡孝は嫌と言うほど分かっていたので、苦笑を悟られないように佐凪に匡孝は約束した。

「…うん、分かってる、必ず。佐凪、ありがとう」

 時計を見ればもう、家を出る時刻が迫っていた。

 

 ***


 授業の中休みに窓際の自分の席で紙パックのジュースを飲んでいると、姫野が匡孝の教室にやって来た。姫野のクラスは2-A、隣だ。

「ちーかー」

 匡孝の飲んでいるものに手を伸ばして横から攫っていく。

「あー!おまえなあっ」

 いーじゃん、と姫野はジュースに刺さったストローに口をつける。

「あー喉渇いてたー」

「ばか、自分で買えよっ」

「ハル、おまえ匡孝の事構いすぎだな」

 一緒にいた匡孝のクラスの吉井にからかわれる。姫野の名前は春人はると、ちなみに吉井の名前は夏生なつきだった。吉井とはこの高校に入ってから仲良くなって、2年間匡孝とクラスも同じだ。姫野とも仲が良い。

「なにそれ、いーじゃん」

 そんなの当然だろうと姫野は相手にしない。それよりも、と匡孝に向き直る。

「ちかさあ今日バイト?」

「あー…うんそう」

 一瞬言いあぐねた匡孝の目を姫野は見つめた。

「…なに?」

 姫野はふん、と鼻で笑った。「ウソだね」

「な…」

「ちかはウソつけないもん」

 ぷっ、と吉井が吹き出した。

「あー確かに」

「な、今の見たろ?」

「匡孝全然ダメだなあ」

 ふたりに笑われて匡孝はムッとして、姫野の手から奪われたままだったジュースを取り返した。

「なんだよっもう!」

 そっぽを向いてジュースを飲もうとしたが、もう空になっている。吸い上げるとゾゾ、と情けない音がした。あーごめんごめん、と姫野が笑いながら謝ってくる。

「今日さあ、ちか誕生日じゃん。なんか甘いもん食いに行こうよ、俺奢るしさー」

「えっ匡孝今日なの?知らなかった!オレも行ってい?」

 前のめりになった吉井を姫野が制す。

「おまえはダーメ!ちかの分しか持ってねえ」

「はあ?いやオレのはオレが出すし!」

「いやさあ…」あの、と匡孝は無理矢理ふたりの会話に割って入ろうとするが、姫野も吉井も全く聞いてはいなかった。当事者なのに完全においてけぼりを食っている。

「とにかく今日は俺とちかだけ!夏生はまた日を改めんの!分かった?」

「はあ?おっまえねえ…」

 その声に次の始業を告げるチャイムが鳴る。それを合図に教室内はバタバタと皆席に戻りだし、別のクラスの連中も自分の教室へと戻っていく。ひーめどけよーと、姫野が座っていた席の同級生が戻って来て、姫野を椅子から立たせた。

「とにかく、そーいうことで!ちか逃げんなよ!」言い捨てて姫野は慌ただしく教室を出て行った。

「なんなのよアイツは…」

 姫野への不満を呟きながら、吉井も自分の席へと戻ろうと立ち上がる。

「匡孝おまえ大丈夫?」そしてふと思いついたように匡孝の顔を覗き込む。

「なんか用事あるんじゃないのか?」言われて、匡孝の脳裏に市倉の顔がちらついた。今日はまだ会えておらず、放課後を匡孝は待ちわびていた。なんの約束も交わせずに会えるのはその時だけだ。吉井は匡孝が放課後市倉に補習を受けているのを知っていたので、言外にその事を言っているのだ。

「あー…」

 匡孝はため息混じりに頷いた。「まあ、大丈夫じゃない?ナツこそなんかごめん」

 姫野の横暴を、今に始まった事ではないが──匡孝は謝っておく。すると吉井は一瞬目を丸くした。呆れたように肩を落とす。

「そこで謝っちゃうおまえが心配だよオレは…」

 困った奴、と吉井が匡孝の髪を掻き回していると、がらりと引き戸が開き、次の授業の教師が入ってきた。

「はー…」

 教科書を開きながら、今日会えなくなった市倉にひどく会いたいと匡孝は思った。



「ちか何食いたい?」

 帰り支度をしていると文字通り姫野は匡孝のもとに飛んできた。それぞれに部活やら帰宅するものやらでごった返す教室内で、匡孝はその勢いに半ば呆れ顔を向ける。

「春人…」なんでそんなに元気なんだ。

 俺は何でもいい、と返すと、ふーんと姫野は言った。

「そう言うと思った…じゃあさ、俺が知ってるとこでいいよな」そう言って携帯を取り出して何やら操作を始める。片手で器用な素早い動きに匡孝は感心してしまう。

「何してんの」

 んー、と姫野は携帯を見たまま言った。「予約、しとかないと、座れない」

「えっ、そんな店⁉︎」

 てっきりファストフードだとばかり思っていた匡孝はぎょっとする。

「春人、俺マックでいいからっ」

 肩を掴んで揺する匡孝には見向きもせずに、姫野は携帯の操作を終える。

「はい完了ー、もう変更出来ねーから」

「えーマジか…」

 困惑しきった匡孝の顔を見て、姫野は笑った。

「なんだよ、大丈夫だって。そんな高いとこじゃねーし」いいからいいから、と姫野は何でもないことのように言った。まだ荷物を纏めている匡孝の腕をぐい、と引っ張って、早くと促してくる。

「はーると、やめろ」

「おー匡孝またなー、ハル、匡孝をあんま困らすなよ」

 これから部活に向かう吉井がふたりのそばを通り過ぎざまに姫野に釘を刺した。姫野が自分本位に暴走しがちなのは、匡孝との共通認識だからだ。ゆるめに結んだ姫野のネクタイのノットに指を引っ掛け、半ば脅すようにその顔を自分に近づけて吉井は声を低くする。バスケ部の吉井の方が当然背が高い。

「分かったか?」

「あーハイハイ、リョーカイでーす」その手からネクタイを取り返して姫野はそう返した。なんら心の込もってないそれを聞いて何か言いたそうに吉井は匡孝を見た。が、それを遮るように姫野が間に割って入った。

「じゃーな、夏生」

「うわっ」

 行こうちか、と姫野は苛立ったように匡孝の腕を掴んで、引きずるようにして教室を後にした。



 姫野にされるがままに匡孝は廊下を歩いている。強引な姫野には慣れているので、匡孝はこういう時抵抗する事を諦めている。何を言ったって聞きはしないのを知っているのだ。

「春人そんな引っ張るなよ」

 職員室前に差し掛かった時、がらりと引き戸が開いて、市倉が廊下に現れた。

「あ、先生」

「おう」

 呼びかけると市倉はこちらに気づいた。昨夜の事を思い出して、匡孝は体温が高くなった気がした。

 鼓動が速くなる。

 今日の市倉は濃い茶系のスーツにネクタイ、そしていつものニットのベストを着ていた。相変わらず、仕事の時は隙のない格好だ。

「なんだ、帰んのか?」

「あ…」

 匡孝は一瞬言い淀んだ。

 そう言った市倉の顔が、なんだか。

 …なんだか。

「あー、うん。今日は、はる…姫野が」

「ちかはもう俺と帰っから」

 匡孝を遮って姫野が市倉に言った。

 少し目を丸くした市倉がそうか、と返す。

「今日はちか誕生日だから俺とお祝いすんの、市倉せんせーとは補習しねえから」

「…誕生日?」

「春人っ」

 ぴくり、と市倉の眉が怪訝にしかめられた。あ、やばいと匡孝は思った。

 目を向けると市倉は匡孝をじっと見ていた。何を考えてるか大体分かってしまい、匡孝は慌てた。

「へえ、そうなのか」

「知らねえの?」

 ひどく小馬鹿にしたように姫野は鼻で笑った。じゃあな、と匡孝の腕を掴んで、引き剥がすように匡孝を歩かせた。

「ちか早く」

「先生、また、…またねっ」

 何かを言いたそうにじっと見つめてくる市倉に振り向いて、それだけを返すのが匡孝には精一杯だった。


 ***


 昨日のあれを誤解された気がした。

 匡孝は姫野の横を歩きながら、知られないように深くため息をついた。

 わざと持ってたように思われたかな…

 自意識過剰だろうと思うのに、その事で頭がいっぱいになり、姫野が話している内容が全く頭に入ってこない。今日初めて顔を見れたのに、あんなタイミングだなんて間が悪すぎる。駅前まで来て促されるままに改札を抜け、電車に乗り駅ふたつ向こうの地名がアナウンスされた時、姫野に呼びかけられて匡孝ははっとした。

「ちか、降りるって!」

 降り立ってようやく電車に乗っていたのだと思い当たった。いつもは降りない駅の見知らぬ景色だ。

「え…ここどこ」

「何ぼうっとしてんの、行くぞ」

 そうしてまた引きずられるようにして連れてこられたのは、なんだか見たこともないような小洒落た──よく言えば女子の好きそうなSNS映えのするような──甘ったるい匂いのするカフェだった。

 …女子?

「春人っ!」

 気がついたときにはもう遅い。

 にやりと笑った姫野が匡孝の腕を引いて店の入り口をくぐり、匡孝はその時になってようやく姫野の策略に嵌められたのだと思い知ったのだった。

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