横顔の月

澄田こころ(伊勢村朱音)

第1話

 彼女の姿が初めて僕の視界に飛び込んできたあの時、たしかにピアノの音色が美しい旋律を奏で始めたんだ。


 それまで、僕の日常はピアノを軸とし回り続けていた。弾き続けなければ、遠心力はよわまり、たちまちふらふらと左右にふらつきことりと静かに倒れ込む。


 駒を回し続ける原動力は、名門芸術大学の合格切符への執着心。

 その切符をとうとう手に入れ、呆然としていた五月。白い学舎に囲まれた中庭で、新緑の光の中歩いていた彼女を、僕はみつけた。


 夜の湖面を思わせる黒く長い髪は、三連符のリズムでゆれていた。静謐な空気が漂う凛としたたたずまい。女神のような容貌。白く細い指先は甘い旋律を奏でるよう。


 それからというもの、僕の世界は色をうしなった。彼女の姿だけがその暗闇の中、青白くはかなげに浮かび上がる。月光のように。


 高速でかけあがるアルペジオは頂点で、はじけ飛ぶ。繰り返す第一主題。何度も打ち鳴らす高音部分の和音を、全体重をかけスフォルツァンドで気持ちをのせ僕は弾いていた。


 穴だらけの防音壁に囲まれたレッスン室に、充満するピアノの大音量。それを一掃するかのように、肉厚の掌が容赦なく、かしわ手を打った。


「もーそういうの勘弁してよ」


 旋律を刻むことをゆるされなかった僕の指は、鍵盤に張り付いてとまる。やるせなさに腕をだらりと下ろし、目を細め横に座る担当教師を見た。


「なんでですか? 僕この曲で、中学の時コンクールで優勝してるんですけど」


 しまったと思っても、もう遅かった。

 先生は、ただでさえふくよかな頬をよりふくらませ、口をへの字に結び大きく鼻をならした。


「だから、中坊の演奏だっていってんの。そんな感情だだもれの演奏さっさと卒業してよね。世界の中心で俺様って叫んでんの? 表現するっていうのは、自分の感情ではなく、曲を表現するって事。わかる?」


 ずり落ちた眼鏡のフレームを人差し指でおしあげ、沈黙をつらぬいた。

 僕が弾いていたのは、ソナタ「月光」三楽章。ベートーベンは、ピアノソナタを数多く作曲した。その中で「悲愴」「熱情」とこの「月光」を合わせ、三大ピアノソナタと言われる。


 一楽章は、ドラマや映画の深刻なシーンでよく使われるお馴染みの曲だ。続く二楽章は、リズミカルで軽快な変ニ長調の曲。


 最後の三楽章では、それまでの曲調ががらりと変わる。ベートーベンの内省がここで解放され、うちに秘めた激情がこらえきれずあふれだす。


 三オクターブの音域を激しく上下するアルペジオ。迷いなど打ち消すように高速で連打される和音。


 大好きで、僕が得意としていた曲だった。この芸大の音楽学部に入学するまでは。


 重苦しい空気をはらうように、深いため息をついた先生は、ハンカチを額にあて汗をぬぐう。


奏水かなみずくんさあ、この大学に入ってから全然成長がみられないよね。もう二回生なんだから、ちょっとはレッスンの成果出して……」


 そんな事一番わかっているのは僕だ。三歳からピアノを習い始め、小学校に上がる頃には神童と噂された。中学では、全国コンクールにも優勝した。


 あんなにあこがれていた大学だった。なのに……


 まだ続く先生のお小言を聞き流し、僕はピアノの蓋の裏面に刻印されている楽器会社のロゴを見つめていた。ロゴはかつて誇らしげに金色に輝いていたのだろうが、今はくすんだ鈍い光しかはなっていない。


 これを、もう一度輝かすのにはどうすればいい?

 金属磨きで、ゴジゴジこすってやろうか、いやそれとも激おち君か。そんなしょうもない事を考える方が、ピアノに向き合うよりはるかに今の僕にとって重要だった。


                 *


「きゃーとってとって! 私無理。」

「よっしゃー! スマッシュ!」


 騒々しい奇声を発しながら、男女のペアがコートに入りシャトルを追いかけていた。


 十月とはいえ体育館の中は、窓も扉も開け放たれているが蒸し暑い。コートを囲むように十数名の学生が、だらしなく体育館の壁によりかかっていた。けっして、バトミントンの試合を応援している訳ではない。それぞれが、雑談にいそしんでいる。


 この芸術大学は、音楽学部と美術学部にわかれているがクラブやサークル活動は合同だ。芸大のクラブ活動は、練習や制作に忙しい学生の気ばらし的な役割。練習は、どのクラブも毎日ない。


 楽器を学ぶものにとって、スポーツで指を痛めるのは、致命的な傷になる。僕も小さい頃から、スポーツという物を授業以外でした事がなかった。


 しかし、大学に入ってこのバトミントン部に、ある目的を持って入部した。

 騒々しいペアは男二人組に負け、コートから退場した。勝ったペアは残り、新たなペアがコートに入ってきた。僕は、さっきのプレイではずしていた眼鏡をかけなおした。


 ジャージを着ていても、その美しさが際立つ女神に視線が釘付けになった。今日は長い髪を一つに結んでいる。


 僕が入学そうそう、一目ぼれした是光これみつさん。彼女がこの部に入ったと知って、追いかけるように入部したのだ。


 これまでの人生において、ピアノしかしてこなかった僕。女性に積極的になれるわけもなく……週二回ある練習時、顔を合わせるだけで満足だった。


 美術学部の彼女は、その容貌から学内でも知らない人はいない有名人だ。男たちがほっておくはずもなく、同じ専攻の四回生、三船さんという人と付き合っているらしい。


 この油絵科専攻の三船さんも、有名な人だった。

 芸大には毎年何百人と学生が入学する。しかし、その中で将来、才能だけで食べていける人間は、十年に一人いるかいないかといわれている。その一人が三船さんだと今から噂されているのだ。


 学内の有名人カップル。僕は嫉妬するどころか、羨望の眼差しを送るしかなかった。


「なんかさあ、三船さんの絵がいたずらされたんだって。教授たちが騒いでた」


 僕の横二メートル程おいて座っている、美術学部の女子二人組の会話が聞こえてきた。三船さんという言葉に反応し、即座に耳をそばだてる。


「知ってる知ってる! 県文化賞に出品する絵なのに、人物の部分だけ切り取られたんだって。キモイよね」


 僕が名前を思いだせない学生は、JKノリで軽くかえした。


「その絵のモデル是光さんらしいよ」

「え―マジで」


 マジか! JKノリと、心の中でハモってしまった。

 釣り目でネコを連想する容貌の学生は、僕の気を引くネタをぶっこんできた。そう言えばこの二人、ゴシップ好きで有名だ。クラブ内でも、二人の情報収集活動がウザがられていた。


「なんかエロくない? 彼女がモデルって」

「そうだよね。ひょっとして裸婦像だったりして?」

 体育館に甲高い笑い声が響きわたる。僕は掌にかいた汗をジャージにこすりつけた。


「ありえるーそんで、是光さんの事好きな奴が切り取ったとか?」


 誰だよそんなストーカーみたいな事するやつは!

 裸婦像だと決まった訳でもないのに、僕は心の中で犯人に悪態をついた。


 横に座るネコとJKは、まだそのネタでもりあがっている。被害にあった三船さんに、同情する気持ちなどこれっぽっちもないようだ。僕も同じ穴のムジナだけど。


 芸大なんて、みんな足のひっぱりあいだ。誰かの作品が傷つけられても、こうやっておもしろおかしくネタにされるだけ。人の不幸は蜜の味だ。


 音楽学部も大差ない。ライバルは一人でも少ない方がいい。みんな自分の才能を信じたフリをして前だけを向いている。


 けっして、下をむくな。下を向いたら気付いてしまう。自分が歩いている道は、暗闇の中渡された細い綱。自分の重みで大きくたわみ今にも切れそうな心もとない道であったと。気付けば最後、足がすくみもう一歩も足を踏み出す事はできない。


 僕はそれに、気付いてしまった。

 試合は終わった。

 勝ったか負けたかわからないが、彼女はコートから出て僕に近付いてきた……


 そう思ったのは大きな勘違いで、噂話をしていた女子達に手招きされたから、こちらに来ただけだった。


 僕とネコの間に、是光さんが座った。心臓がアレグロで鼓動する。さっきまで吸っていた汗臭い空気が浄化され、甘くなったような気がした。


「ねえ、三船さんの絵が切られたってほんと?」


 それとなく遠まわしに聞くという繊細な心遣いを一切持ちあわせておらず、単刀直入に聞きやがった。


「ほんとよ」

 横を向く訳にもいかないので彼女の顔色をうかがう事はできないが、しごく落ち着いた声でこの直球の質問に答えた。


 しかしその一言で、このおもしろネタを終わらせるほど、こいつらは甘くない。

 彼女として心配だろうとか、犯人がゆるせないとか、ネコとJKは心にもない事をキンキン声でまくしたてた。そして、最後に自分たちが一番聞ききたい、というか言いたい事を持ってきたのだ。


「絵のモデルって裸だったの?」


 キュッ! 

 床板とシューズのゴム底がこすれる耳障りな高音が、体育館に響く。三角座りをしている僕の足に力が入ったのだ。


「違うよ。ただの座像だったの」


 笑い混じりの明らかにからかいをふくむ質問に、一ミリの動揺も現れていない声で彼女は言った。


 彼女の動揺を期待していたネコとJKは、ひるんでいるようだ。しかし上ずった声でまだしつこく追及してくる。


「ええマジで~? 私達誰にも言わないから教えてよ」


 嘘つけ! 絶対いいふらすだろおまえら。

 三船さんの才能を妬んでの犯行より、是光さんの裸目当ての犯行の方が、嫉妬深い芸大生にとっておもしろい事この上ない。


 この女子三人の会話に、体育館中の耳が向けられている空気を僕は感じた。僕が是光さんなら、絶対冷静ではいられない。一秒でも早くこの空間から逃げ出したいはずだ。


「その絵みたけど、裸婦じゃなかった」


 僕は何時の間にか立ち上がり、ネコとJKの前に立ちうそをついていた。

 突然の乱入に、二人は口をあんぐりあけている。


 いつどこで見たのかなど、細かいことを質問されたら確実に嘘がばれる。それほど嘘はつきなれていない。でも、誰も何も言わなかった。


 二人はこのネタに興ざめしたのか、もう違う噂話を始めていた。

 バトミントン部全員が僕を見ている。なれないことをするもんじゃない。足早にその場から退場した。

 ヒロイン是光さんの手を強引に握り二人でその場を後にする、という妄想とともに……

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