Ⅰ.邂逅

1.勝負に勝っても試合は惨敗。

「うぷっ…………」


「大丈夫?吐いちゃえば楽になるから、ほら」


 久我くが真由美まゆみは出来る限り優しい声で話しかけ、なるべく刺激を与えすぎないように綾瀬あやせ観月みつきの背中をさする。その顔は全くの健康色で、ほてっていたり、逆に不自然なほどに白かったりということもない。そのまっすぐな視線は目の前にいる男綾瀬に向けられ、一切のブレがない。


 二人のいる公園内に設置されている時計の短針は既に「1」を指し示しているが、彼女がさっきまで残業をしていてこれから帰るところであると言われても恐らく疑う人はいないだろう。スーツは全く乱れず、ネクタイもまっすぐで、上に羽織っているコートはついこの間クリーニングから帰ってきたばかりという代物だ。当然汚れなど一つもない。この状態の彼女を見れば、大体は「仕事の出来そうな女の人」という印象を受けるに違いない。


 では、彼女に背中をさすられている男綾瀬はと言うと、


「うっ……おえぇぇぇぇ……」


 スーツの上着はボタンが一つ違いで止まり、ネクタイはいったい何の間違いか腰に巻かれており、羽織っているコートは取り敢えず引っ張り出してきたのかシワが多い。顔色は時折点滅する街灯の光でもはっきりと確認できるほど悪く、おまけに先ほどまでの飲み会で胃に入れたものはきっちりと洗面台にぶちまけているというありさまだ。


 見た目からしても、久我とそこまで年齢に差があるような気配は感じられないし、実際に二人は全くの同い年で、しかも通っていた高校は同じのはずなのだが、到底そうは思えない。もしかしたら数歳離れた姉弟であると説明した方が信じる人が多いのではないだろうか。


 久我は引き続き綾瀬の背中をさすりながら、


「だから、無理しないほうがいいって言ったのに」


 綾瀬は途切れ途切れに、


「ご……ごめ……うぷっ」


「ああ、ほら、無理して喋ろうとするから」


 一呼吸。


「だから言ったのよ。あんなのの挑発に乗ることないって」


 久我のいう「あんなの」とはつまり関本せきもと一二三ひふみの事である。久我や綾瀬と同じ学校に三年間通った間柄ではあるが、二人のいずれからもその評価は芳しくない。綾瀬は高校時代ずっと関本と同じクラスだったのだが、まあ良い思い出などほぼ皆無である。


 通常、同じクラスの男子と言えども、交友関係次第では三年間そこまで会話をしないということも無い訳ではないし、実際綾瀬としても関本は「出来れば無関係のままでいたいタイプ」の人間だったため、綾瀬の側から何かアプローチをかけたことはない。


 では何故その「無関係を装いたいほどのやつ関本」との関係がめんどくさいことになっているのかというと、そこには久我がしっかり絡んでいる。今がどうかは綾瀬の知るところでは無いが、少なくとも高校時代、久我は間違いなく”モテる側”の人間だった。


 そのため、「付き合ってほしい」だの「友達からでもいいから」だのといった文句を引っ提げた、顔と名前も一致しない相手からの告白を受けるのは一度や二度ではなかったらしい。


 久我からすれば誰だかも分からない人間と付き合えなどというのは全くの冗談にしか思えないし、友達からと言い出す相手ほど友達にもなりたくない類の人間だったので、やんわりとお断りし続けていた。要するに関本はその中の一人だったわけで、ここまでで終わっていれば、一人の男子がモテる女子に振られただけの、どこにでも転がっている物語なのだが、ここからがやっかいだった。


 ある時期。久我と綾瀬は二人とも文化祭委員を担当することになった。クラスも性別も違う二人だが、一つだけ共通していることがあった。それは「なんとなくの流れで委員になってしまった」ということ。そんな共通点から発される「乗り気じゃないですよ」オーラをお互いがお互いに察知し、言葉を交わし、気が付けばそこそこ意気投合していた。


 そこまでは良かったのだ。


 問題はその後だ。


 ある日、関本は気が付いてしまった。


 久我と「それはそれは仲睦まじそう」に会話をする綾瀬の存在に。


 いてもたってもいられなくなった関本は綾瀬に詰め寄った。


 お前、今のはなんだ。久我さんに彼氏はいないし、今は要らないっていっていたはずなのに、なんだ今のは。もしかしてお前「なんか」と付き合っているなんていったら、皆「ああ、こいつになら勝てる」と思って迫ってくるから言えなかったんじゃないのか。可哀想な久我さんだ。そうだ、それならお前に勝てれば久我さんはこっちを向いてくれるということだな。よし、分かった。勝負だ。勝負をしようじゃないか。今度の中間テストの点数だよ。それが一番分かりやすい。まあ君はいつも成績が良いわけじゃないから僕の圧勝に終わってしまうかもしれないな。それだと君が可哀想だからハンデをつけてあげようじゃないかと思うのだが、どうだろう。どれくらいのハンデが欲しい?


 心底どうでもよかった。


 ちなみに綾瀬がこの騒音発生器関本(当時十六歳)に対して最初に言いたくなった言葉が「邪魔」で、次が「黙れ」だったことは未だに久我以外には言っていないし、それを聞いた久我が心の底から楽しそうに笑った後、割と真剣に綾瀬のことを心配したというくだりも含めて、二人以外に知るものはいない。


 そんな訳で、それ以降関本は何故か綾瀬を目の敵にし、何か機会を見つけてはちょっかいを出してくるようになったのだった。


 つまり、今日もまた、同じようなことが行われていただけなのだ。


 久しぶりに同期が(ほぼ)一同に会した同窓会の席。関本は綾瀬に、「どれだけ酒を飲めるか」という勝負を仕掛けてきた。

 

 隣にいた久我も、それ以外の元・同級生たちも止めたのだが、当事者である綾瀬がそれを無視した。

 

 もちろん、何も考えずに勝負を受けた訳ではない。綾瀬自身酒の強さにはそれなりに自信はあったし、開始からそこまで経っておらず、せいぜい一、二杯しか飲んでいないはずの関本は既に顔を真っ赤にしていた。


 しかも当の綾瀬はといえばまだ酒を飲んでおらず、一人コーラを頼んでいたため、最初からハンデがあるようなもので、結果は見るまでもなく関本の惨敗に終わった。綾瀬は、そんな勝利を喜び、たった数杯で倒れるように熟睡した関本を尻目にいい気分で飲み続けていたわけなのだが、


「おえぇえぇぇぇ……」


 結果がこれである。一応勝負は綾瀬の勝ちだが、良い気持ちで熟睡し、恐らく明日には何も覚えていないであろう関本と、気分を悪くし、しかもしっかり終電を逃した綾瀬のどちらが幸せなのかは言うまでもないことである。


 漸く少し落ち着いた綾瀬は、


「なんか、ごめん。こんな時間まで」


「ん?」


「いや、ほら」


 綾瀬はふっと公園の時計を見上げる。その短針は既に「1」と「2」の間に差し掛かっていた。


 久我はふふっと笑い、


「ああ、大丈夫よ。だって私、家この辺だし」


「え、マジ?」


「マジマジ。大マジ。まあ、ちょっと距離があるし、ホントなら電車使うと思うけど、駅間距離もそんな無いし、歩いて帰ろうかなって」


 綾瀬は体を起、


「そんな!女性が夜道を一人歩きなんてあぶな……うっぷ……」


 そうとして再びかがめる。久我は苦笑して綾瀬の背中をさすりながら、


「大丈夫だって。この辺、そんな治安悪くないし。それに、これでも一応護身術覚えてるから。今の綾瀬くんよりは強いと思うよ?」


 返す言葉がない。久我は続ける。


「だから、私の方は全然大丈夫だけど……キミ、この辺じゃなかったよね?」


「……はい」


「終電、なくなっちゃったね」


 どこかで聞いたような台詞。綾瀬はゆっくりと、


「そう……ですね」


「歩ける距離じゃないよね?」


「…………普通なら」


 久我は迷いもせずに、


「んじゃ、タクシー呼んだ方がいいよね?この辺ネットカフェとか無かったと思うし」


「…………あー……」


 知っていた。


 久我真由美という女性はそういう人間なのだ。

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