第19話 亡霊
ジル・イルハムがここに捕らえられた
行方不明になった日の深夜、ジルが庭の方の見回りをしていると、離れの方に明かりがついているのを見つけた。それで何があるのか気になって、明かりの漏れる離れの窓から中を覗いてみると、スハイツが台所に置いてある水瓶をどけて、地下へと続く階段を降りて行くところだったらしい。ジルは好奇心に駆られ、一人でスハイツの後ろをつけて地下に降りて行ったようだ。
クレメンテは内心、あの暗くて細い地下へ降りる道を、見ず知らずの粗暴を絵にかいたような大男の後を、しかも一人でつけていったジルの、無鉄砲と言うべきだろうか。向こう見ずな勇気に驚いていた。
遠くに見える蝋燭の微かな灯りを見失わないように気を付けながら、ジルは、クレメンテが来たのと同じように階段を下り、細長い廊下に出ると突き当りの扉を開けた。アラルコスが捕らえられていた第一の地下牢、そして今、ジル自身が閉じ込められている第二の地下牢を目の当たりにしたときは、さすがに薄気味悪く心細さを覚えたようだ。
辺りを見回しながら、そろそろ戻ろうかとしり込みし始めた頃、このさらに奥のほうで扉がバタンと締まる音がした。
――あの熊男はどこに行くのだろう?奥に何があるのだろう?
冷たい石と鉄格子で囲まれた不気味な地下牢を見せつけられ、もちろん恐怖心はあった。扉の奥は目も当てられないほど凄惨な拷問部屋かもしれない。ジルは思ったが、すでに危険を冒してここまでやってきたのもある。ここからひとりで引き返すにせよ、奥の扉をちょっと開いて中を覗いてみたい気持ちにも駆られる。
――地下牢の奥では何が行われているのだろう?
ジルは、奥の扉に近寄り、思い切って開いてみた――
「扉を開いたオレは、そこで待ち構えていたあの大男に殴られて……気づいたらこの牢屋にぶち込まれてたってわけさ」
ジルはクレメンテに話しながら、バツが悪そうに苦笑した。自分の間抜けさ加減に嫌気がさしたのかもしれない。
「……待ってろよ!すぐにここから出してやるからな……」
クレメンテが鍵束の鍵を探し始めると、ジルが言葉を挟んできた。
「その鍵束には鉄格子の鍵はないんじゃないかな?あの下男はいつもそれで、扉を開けるだけで鉄格子は開けないんだ。それに、今オレを逃して大丈夫なのか?長いこと地下の暗闇にいるから今が何日で何時なのかは分からないのだけど……下男やバジェさんにオレが逃げたことが見つかってもいいのか?……船はどうするんだ?」
ジルは無鉄砲な行動をするわりに、たまに冷静な意見も言う。クレメンテにはジルの言葉が全く読めなかった。
――確かに、今がこの地下牢からコイツらを逃がすタイミングなのだろうか?
クレメンテは考えた。
スハイツが留守の今逃がしてしまっても、昼食を運ぶ時間にアラルコスやジルが逃げたことがバレてしまう。自分も、ナギルやサレハを連れて一緒に逃げて、アラルコスの厄介になってピラール率いる海賊船に匿ってもらうのがいいのだろうか?それとも、アラルコスとジルだけ逃して、自分はナギルたちはバジェの警護をする?……いや、後者の考えはないだろう。今逃がすなら前者の考えだが、クレメンテはそれについてナギルやサレハに話せていない。
――それに、オレはまだホセ=ビアンテ・ルビナスの行方が確認できていない……
今アラルコスやジルを逃したところで、根深い物事の本質は解決されないような気がして、クレメンテは自分の行動に納得できなかった。ホセ=ビアンテ・ルビナスの安否と行方が分からない限り、エドアルド・バジェと海賊たちの争いは続くだろう。それはクレメンテたちには関係ないと言えば関係ないことなのだが、その争いを踏み台にして素知らぬ顔をし、エラム国外逃亡してしまうのはなんとなく気が引けた。いい人ぶるのはよして、心を無にして自分第一に考えるのは当然のことかもしれないが、できることなら、自分の行動に恥じることなく、真っ当な日の当たる道を歩きたい。
――第三の扉の奥にホセ=ビアンテ・ルビナスがいるんじゃないか?
クレメンテはふと思った。これまで、アラルコス、ジルと行方を捜していた囚人たちがまとめて見つかったのだ。第三の扉の向こうにはホセ=ビアンテ・ルビナスがいるのに違いない――
唐突に奥の扉に向かおうとし始めたクレメンテに、ジルは鉄格子の向こうから叫んだ。
「おいっ!クレメンテ!!!奥には近づくな……」
「なんで?」
「オレが熊男に倒される瞬間、見たんだ。奥には……」
ジルは言葉を切った。
スハイツに殴られた瞬間のことを思い出す。
「奥には、亡霊が……」
潮のかおり。
崖を削る荒波が割れる大きな音。
波しぶきが届いているのだろうか?頬に纏わりつく湿気た空気。
そして、背後に広がる水をたたえた洞窟を背に、ボロを纏って座り込む長髪の痩せこけた老人――
「亡霊がいるぞ」
ジル・イルハムの忠告は気にはなったが、ここまで来たのである。第三の扉の向こうにいるのが亡霊であれ、何であれ、
「おいっ」
背後で止めるジルの声が聞こえたが、クレメンテは無視して第三の扉の鍵を回して扉を開いた。隙間からムッとした潮のかおりが流れてくる。
「やめろ!!!」
燭台の灯りを扉の向こうに差し出した瞬間、大きな
「やめろ!!!やめろ!!!眩しくて目が潰れそうだ!!!あれほど言っただろう!暗闇に目が慣れてしまって……」
オレは声のする方に明かりを向けるのをやめて別の場所を照らすようにしながら、
「……ホセ=ビアンテ・ルビナスさんですか?」
と名前を呼んでみた。
ブツブツとつぶやく老人の声がピタリと止んだ。ここは崖の真下にあたるのだろう。しばらくの沈黙の中で回答を急かすかのように崖を砕く荒々しい波の音が聞こえてくる。
「……ホセ=ビアンテ・ルビナス?」
声の主はクレメンテが発した名前を繰り返した後、暗闇の中にすっと溶け込んでしまったかのように沈黙した。
潮風が通るのかもしれない。蝋燭のオレンジ色の灯りがゆるゆると揺れて、クレメンテの右側のごつごつした岩肌を照らし出していた。声のしてくる左側は全くの闇である。
「……その名で呼ばれるのは久しぶりだ。若造。オレさえ忘れかけたその名を呼ぶお前は誰だ?」
暗闇に広がる静寂を突き破るかのように、再び威厳のある力強い声がゆっくりとこだました。しゃがれてはいるけれども活舌はよく、はっきりとクレメンテの耳に一音一音が響くてくる。
「オレの名前はクレメンテ・ドゥーニと言います。ピラールさん……
長年地下牢に閉じ込められていたとは思えないほど、しっかりしたホセ=ビアンテ・ルビナスの大声に怖気づきそうなのを
クレメンテはエドアルド・バジェの用心棒であり、ピラールとも戦ったことがあるが、この話を囚われの老人に説明すると話がややこしくなると考えたクレメンテは濁して答える。
「おお!ピラールが!?お前ピラールを知っているのか!?……お前はピラールの仲間なのか?」
「はい!アラルコスはご存じで?」
「……アラルコス?……アラルコス……おお!あのピラールにいつもくっついていたガキか!!!」
「アラルコスがあなたを助けに来たのですが、エドアルド・バジェに捕らえられてしまい、っていまして……オレはあなたと一緒に助けに来たんです」
「おおおおお……アラルコス!アラルコスまでも捕らえられていたのか!?欲に目が眩んだあの忌々しい業突張り……エドアルド・バジェ!!!大恩あるこのオレを裏切るばかりか、昔の仲間にすら手を出しているのか!?……そしてピラールは?ピラールは無事なのか?」
鉄格子の向こうに広がる暗闇からぬっと、骨と皮ばかりの筋張った枯れ木のような手が出てきて、クレメンテに触れようとした。
「もう眩しくはないですか?」
「眩しくはない!眩しくはないとも!!!兄弟よ!お前はオレの希望の光だ!!!」
オレがそっと燭台を燭台を鉄格子の方に差し出した。
暗闇の中で、伸び放題になった白髪と白い髭を振り乱した、ボロを纏った痩せぎすの老人が脚を伸ばして座っている。
「おお兄弟よ!クレメンテ!……オレは長年ここに閉じ込められていたからな。この両目と同じく脚も弱ってしまってこの様だ。自由には動けん。帰ったところでピラールの足手まといになるだけかもしれないが、オレはあの子に伝えることがある……どうかここから、このみじめな老人を連れ出してくれないか」
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