第10話 ジルの行方

 ジルが行方をくらませたのは、こんなことがあった翌日の夜だった。


 エドアルド・バジェの屋敷に世話になって三日目の夜は、ジルとサレハ、クレメンテとナギルが組になって二時間交代でバジェの護衛に当たっていた。サレハはずっとジルと一緒に見張りをしていたわけではなく、ジルは右回り、サレハは左回りに四角い回廊を見回りをしていた。

 午前四時――交代の時間になり、ナギルとクレメンテが眠い目をこすりながら待つ部屋に帰ってきたのは、サレハひとりだけだった。15分、30分とジルが帰ってくるのを三人は待っていたが音沙汰がない。

 サレハがジルを最後に見たのは、午前二時半ごろ。二階の見回りをしていた際に、たまたま廊下の窓から庭を眺めた時だったと言う。ジルが台所のある離れの方へ歩いて行くのを見たそうだ。


――ひとりでいるところを襲われたのか?


 不安がクレメンテの胸をよぎった。


――だとすると、ジルも危ないし、こうしているうちに賊の本命であろうバジェが狙われているんじゃないか?


 そう思ってナギルの方を見ると、ナギルも同じことを思っていたようだった。目を合わせた瞬間こくんと頷き、ナギルはサレハとバジェの寝室へ、クレメンテはサレハが最後にジルを見たという離れの方へと走り始めた。




 屋敷一階の回廊を、今いる三人の部屋とは反対側、左翼の方へ走り、庭を抜けて離れになっている石造りの簡素な建物に着くと、クレメンテは木の扉を思いっきり両手でノックした。

 ドンドンと10分ほど叩き続けただろうか?自分が寝ている時にされたら嫌になるほどしつこく扉を叩き続けたのはクレメンテ自身でも分かっている。黒いぼさぼさの長髪をかきあげながら、寝ぼけ眼の下男がランタンを持って扉の奥からぬっと出てきた。


「こんな時間に何の用だ?」


「寝ていたところ、申し訳ない!一、二時間ぐらい前に、ジルが……背が低めで栗色の髪の男がここに来きたか……この辺で見なかったか?」


 寝起きであろうこの下男が知っているようには正直なところ見えなかったが、オレはダメ元で聞いてみた。


「栗色の髪の男?……さぁ?お前、今何時だと思ってるんだ?」


 男は少し苛立って声を荒げ、目をこすってクレメンテの方に顔を寄せて片方の眉を上げ、まじまじと見つめた。


「……いや、起こしてしまって本当にすまない。オレはバジェさんに護衛を頼まれてるんだが、仲間が一人行方不明なんだ。それで何かあったのかと思って……」


 たじろぐクレメンテを尻目に下男は首をかしげた。


「……いやぁ?こっちには誰もこなかったぞ。……お前があの・・クレメンテか?その仲間とやらがどういう素性だか知らないが、ここから逃げ出したかっただけじゃないのか?」


「いや、それは……」


 クレメンテはそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 クレメンテは、正直なところジルを――ジル・イルハムという男の素性を知らない。タンヌロック王国でバイロウが買った奴隷だということ以外はよく知らないままだった。クレメンテはジルを逃がしてやったつもりでいるが、実際のところジルがクレメンテに付き合って逃亡しているだけなのかもしれない。クレメンテがバイロウから逃げたように、ジルはジルで、クレメンテから逃げることを考えていたのかもしれない。

 クレメンテはそういったことを考えた。自分とジルとの信頼関係にまだ、自信がなかったのである。


――憐れむような眼でオレの顔、見ないでくれる?


 クレメンテは再び、初めてジルと会ったときに言われた言葉を思い出していた。クレメンテには憐れんでいるつもりは毛頭ないのだが、クレメンテの行動をどう受け止めるかはジルの自由だ。ジルはクレメンテの奴隷ではない。ジルはジルなりに自由になりたかったのかもしれないと思う。


――ジルは、自分からどこかへ逃げてしまったのだろうか?


 いきなり何も言わずに蒸発するなんてそんなわけないとは思いながらも、それをまるっきり否定しきれない自分がいる。クレメンテはジルのことをまだ何も知らない。知っていると言える自信がなかった。


――でも……


 自分からどこかに行ってしまった訳ではないのであれば、それはそれでジルはどこへ消えたのか?この熊のような黒い剛毛を生やした下男が嘘をついているのだろうか?嘘をついているのであれば何のために?


「……話は終わりか?早く寝させてくれないか?」


 ジルのことを何も知らないという負い目がある。

 その上、遠慮なく不機嫌そうな顔をしている下男の言うことを嘘だと問い詰めることもできず、クレメンテはすごすごと屋敷の方へ戻ることしかできなかった。




 クレメンテは、ジルの行方に関して何の収穫も得られないまま、ナギルとサレハのいるエドアルド・バジェの寝室へと向かった。バジェには何事もなく無事だったようだ。就寝中だったのを二人に叩き起こされ、不機嫌な様子だ。クレメンテが着いたときには、寝室にある一人掛けのロッキングチェアに座って、手を胸のところで組んで、半分眠ったように目を閉じ、ナギルとサレハに小言を言っていた。


「こんな朝早くに起してしまって申し訳ございませんでした。……でも、バジェさんに何事もなくてほっとしました」


 ナギルがバジェに頭を下げているところにクレメンテが到着する。


「……ジルは!?……ジルはどうだった!?」


 クレメンテに気づいたナギルが間髪入れずに尋ねた。


「ジルは、見つからなかった」


 頭を振って答えるクレメンテの様子に、ナギルが残念そうな顔をした。


「そのジルってヤツは、人騒がせなヤツだな!どういったヤツなんだ?よう、クレメンテ。お前が連れて逃げている奴隷というヤツか?」


 バジェが腹に響く大きなしゃがれ声で叫んだ。


「奴隷というか……はい」


 解放した今となってはジルのことを奴隷というのは語弊があるような気がして、その言葉でジルを表現するのには抵抗があったのだが、それ以外に表現のしようもない。奴隷であったことは事実だ。クレメンテが逃したので今は違うけれども。


「なら、夜逃げでもしたんじゃないのか?お前がバイロウの金で買い集めた奴隷なんだろう?お前のそばにいる限り、そのジルってヤツは自由になれないんじゃないのか?」


 クレメンテは自分が不安に思っていることそのものをバジェに突かれて、黙っているよりほかなかった。バジェの声が淡々と頭の中に響いてくる。


「逃げた奴隷の一匹や二匹、別にどこに行こうが構わんだろう。そいつを本当に自由にしてやりたいなら放っておいてやることなんじゃないか?」




「サレハ、クレメンテ。今朝はしばらく私一人でこの部屋の番をするから……二人は休んで」


 心臓が痛い。

 バジェの寝室を重苦しい気持ちで出たクレメンテの気持ちを察してか、ナギルはそう言って、マントを翻しながらこの場に留まろうとした。


「いや、しかし……ナギルをひとり置いては……」


 心配そうに口答えをするサレハにナギルが優しく言った。


「いや、サレハ……お前は二時から夜通し寝ずの番をしているのだから、仮眠を取ってくれ。クレメンテも、疲れただろう。また朝食後に交代しよう」


「いや、でも……」


 なおも食い下がろうとするサレハに、ナギルはやさしく続ける。


「サレハ、これは僕の命令だ。お前は休め。また朝交代しよう、クレメンテも」


 ナギルは微笑み、サレハとクレメンテの背中を二階から降りる階段のほうへ押しやった。


「ジルのことも明日考えよう。とにかく今は寝てくれよ」


 それだけ言い残すと、ナギルはバジェの寝室の扉の脇にある猫脚のソファに凭れ掛かって、片手をこちらに振って見せた。




 その日から、クレメンテ、ナギル、サレハの三人はジルの行方を捜したが、その足取りは知れず、また、ジルからも音沙汰がなかった。


 ジルはあの夜を境に忽然と消えてしまったのだ。


 そして、ジルの行方について何の手掛かりもないまま、五日がたち、新年一月八日。

エドアルド・バジェの船が新年初出航するのを送り出すための、出港式が港で行われる日になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る