第46話 すべてをほどく旋律

「……………………あいつが言ってた誤解って、なんだよ」


 表情にぴったりな不機嫌一歩手前の声音で、桃矢とうやは私にそう答えを迫った。

 ……ううん、手前どころか不機嫌そのもの? さっきの動揺はどこへいったのやら、ともかく機嫌はあまり良くなさそう。


 そんな機嫌なものだから、桃矢が私に向けてくる視線も普通の強さとは言えない。今度こそ答えろと、全身から強い気持ちが伝わってくる。

 そのせいで、冷たい虫が這い回ってるような感触が私の背中に生まれた。胸の中に冷たいものが落ちて心臓が早鐘を打ち出し、熱い波が生まれて身体全体へと広がっていく。

 首筋に感覚はないし背後の気配も感じないけど…………桃矢が怖い。目を見てられない。


 ――――――――でも。

 今こそ、桃矢の目を見て言わなくちゃ駄目だ。私の存在を自分の中から消そうとしてた桃矢がやっと、私の目を見てくれてるんだから。

 真彩まやがあんなにも私を思って泣いてくれたんだから。倉本くらもと君があんなにも甘やかして、最後に私の背中を押してくれたのだから。

 ここから先は、私が言わなくちゃ。


 私はそう自分に言い聞かせ、桃矢の顔を見上げた。これから歌いはじめるみたいに、まっすぐに桃矢を見返す。

 さあ、言うんだ。


「私……あのとき……………桃矢が怖かったの」

「……は?」


 私の告白がまったく想像していないものだったのか、桃矢は裏返った声をあげた。

 うわ、なんか間抜けっぽい顔。こんなときだっていうのに、気が緩んじゃうじゃない。

 そのおかげで、私の唇は少しだけ軽くなった。喉にまだつかえてた言葉が、するするとはいかないものの、ゆっくりと這い上がってくる。


「去年の秋……ううん、冬くらいからたまにそうなるの。多分、吉野よしのさんの嫌がらせのせいで、また梅雨のこと思い出しちゃったんだと思う。下駄箱はもう平気だけど、暗いところはまだちょっときつくて……あと、怖いって思ったときとかも駄目で…………」


 話せば話すほどに、あのときに覚えたいくつもの感情が胸によみがえってくる。怒り、悔しさ、失望、恐怖。悪い感情が胸の中で生まれてはごちゃ混ぜになって、熱を持つ。私の身体を揺らし、背中を寒くする。

 それどころか、桃矢と絶交したあの日に戻ったみたいに感触と気配がする。声が遠くから聞こえてくる。

 あの、忘れようのない感触と顔も。


「あのときも、急に桃矢が怖くなったの。桃矢に見つめられてるうちに……大木おおき君に襲われたときのこと思い出して………………それで、思わず…………」

「……!」


 私を見下ろす桃矢の目が、これでもかってくらいに大きく見開かれた。理解、驚愕、愕然。桃矢の心の動きが全部、目に映しだされる。

 やっぱり、気づいてなかったんだ…………。

 気づいてもらえなかった証拠を見つけて、悲しい気持ちとか悔しい気持ちがじわりと胸に湧いてくる。わからなくて当然、これは甘えだってわかってるけどさ…………。

 だからこそ、私はあのとき、怖いってちゃんと言わなきゃいけなかったんだ。真彩みたいに、勇気を出して。桃矢のことを責めることはできないよ。

 息を飲んだ桃矢は顔をくしゃくしゃにして、瞳を震わせた。


「…………俺を嫌ったわけじゃないん、だな」

「うん。すぐにわけを言えばよかったけど、怖くて、言葉が出なかったの。……誤解させてごめん」

「…………っ」


 あ…………。


「俺、何を勘違いして…………っ」


 私が謝って数拍。悲鳴みたいな声が、桃矢の口からこぼれた。


「あのとき、本当はわかってたんだ。お前が、俺と真彩のために怒ってたことは。でもお前は真彩のことしか言わなくて、俺の留学については自分には関係ないって言うから…………俺はその程度なのかよ、倉本になら言うのかよって、すげえ腹が立ったんだ」

「……は? なんでそこで、倉本君が」


 そりゃ倉本君には色々と話せるけど、あの場面で彼の名前が出てくる発想が意味不明なんだけど。倉本君が話に出てくる要素なんて、あのとき、一ミリもなかったでしょ。


「…………」


 ちょっと、人の顔見ながら黙らないでよ桃矢。しかもなんか複雑そうな顔。なんでそんな顔するの?

 ……あれ、なんかこの手のやりとり、前にもしたような…………ああそうだ、特別試写会の帰りだ。

 私が記憶を辿りかけると、視線をさまよわせ口を開け閉めしてた桃矢が、ああもう、と言わんばかりに頭を掻いて私のほうを向いた。


「お前、夏くらいからあいつとよく話すようになってただろ。文化祭とか……コンクールだってあいつは率先してピアノの代役を買ってでてたし、クリスマスのときもすぐお前を介抱しようとしてたし。映画見に行ったときも、お前はむきになってあいつと付き合ってないって否定してただろうが」

「あれは、ホントに付き合ってないのに桃矢がしつこく聞いてくるからでしょ。あんなにしつこかったら、誰だっていらっとするよ」


 それに、桃矢は私の否定に食い下がったけど最後は――――――――…………。

 …………あれ? 桃矢ってあのとき、納得したっけ?

 ……もしかして、してない?

 だから桃矢、あの頃からずっと本気で、私が倉本君とこっそり付き合ってるか……倉本君のことが好きなんじゃないかって勘違いしてた――――――――?

 私のその推測を肯定するように、桃矢はそうだよな、と目を伏せて言った。


「でも、お前に真彩のことで問い詰められたときは、俺の勘違いだってわからなかったんだ、俺は。お前は、俺と真彩の仲を取り持つようなことしか言わなかったから。だから、お前と倉本はホントは付き合ってて、だから俺そんなこと言うんじゃないかって、疑ったんだ」

「……」

「そしたらお前は手を払うから、それが本当としか思えなくて……あいつと付き合ってるから俺のことはもうどうでもいいんだって思ったら……口を利くのも嫌になってた」


 馬鹿だよなマジで。桃矢はそう自嘲する。

 けれど私は頭の中をぐるぐる回る言葉に囚われて、桃矢の後悔を半分くらいしか受け止めてあげることができなかった。


『二人とも、言葉が足りなさすぎて馬鹿馬鹿しい勘違いをしてるみたいだから』


 …………ねえ倉本君、実は人の心が読めたりするんじゃないの? どうしてそんなに、私たちの勘違いを見抜けたの? 私は色々相談したけど、桃矢のことだから、何も倉本君に言ってないでしょう?

 何よこれ、ホントにこんな、こんな馬鹿馬鹿しい――――――――…………。

 桃矢は一度目を閉じると、少し間をおいてまた開いた。まっすぐに私を見つめる。


美伽みか。お前が吉野の嫌がらせで下駄箱にまた怯えてたこと忘れて、お前が友達思いな奴だってことも忘れて、勝手に失望してひどいこと言って、絶交して…………悪かった」

「……!」


 ……………………っ。

 桃矢の心底の謝罪を聞いた途端。私の胸の奥底から、何かがせり上がってきた。熱くてどろどろして激しい流れ。言葉みたいに、ううん、言葉が感情ごと喉からつき上がってくる。目の周りも熱くて火傷しそう。

 もう駄目だ。

 爆発する――――――――


「馬鹿桃矢……! 遅いよもう……っあれ、きつかったんだからね…………っ」

「わかってる。色んな奴らから、お前がやばいことになってるってさんざん聞かされたし、責められた。実際に何度も見たし…………けど、そのときはお前に怒ってたし、お前を傷つけておいて今更って思ったし…………倉本がいるだろって、意地張ってたんだ」

「っわかってたんならさっさと来てよ…………!」

「ああ、すぐそうするべきだった。…………何も気づけなくて、ホントに悪かった」


 涙が止まらない私の頭を抱き寄せ、桃矢はまた謝る。でもそんなので許せるもんか。つらくて悲しくて苦しくて、私は何も感じなくなることで自分を守ろうとしてたけど、それすら倉本君が見守っていてくれなかったらきっと、いつか壊れてた。そこまで私を追いつめたのは桃矢なのに、こんなのですぐ許しちゃうなんて安すぎるでしょ。


 ……そうわかってるのに、どうしようもない桃矢馬鹿の私は、こんな簡単で当たり前なことでもう許しはじめてるんだ。桃矢の体温が胸の中にまだ残ってたもやもやしたものを消して、空いてた心の穴を塞いでいくのがはっきりとわかる。

 真彩、ごめん……。今だけでいいから、桃矢を独り占めさせて。明日には真彩に返すから。応援するから。だから、今だけは――――――――…………。


 ………………………………………………あ。

 桃矢の腕の中で心の傷が癒えていくのを感じてると、頭の上から声が聞こえてきた。男子と女子が笑ってる声。

 そういえばここ、階段の踊り場だった……! 自分の今の状況を理解した途端、私の涙は羞恥心で蒸発した。突き飛ばす勢いで桃矢から離れる。って桃矢、何残念そうな顔してるのよ!

 何やってんの私! こ、こんなところで桃矢に抱きしめられてるとか……! ああもう、頭から湯気が出そう!

 こんなの誰か一人にでも見られたら、明日から悲惨な学校生活しか想像できない。真彩にも申し訳ないよ。逃げるしかない。この場から今すぐ!

 だから私は自分の鞄を拾おうとしたのに、私より早く桃矢は鞄を拾った。


「美伽、お前どうせ練習してたんだろ。どこの鍵だ」

「……107」

「よし、じゃあちょっと来い」


 ってちょっと!

 にっと笑うと、桃矢は私の鞄を片手に、もう片方の手は私の手をとって走りだした。私、行くって言ってないんだけど!?


「っていうか、何のために練習室に行くのよ?」

「思い出作りだよ。講堂は無理だから練習室でお前、歌え」

「はあ? だったら桃矢の家に行けばいいでしょ」

「だから、思い出作りだって」


 何それ意味不明! というかあんた、そんな感傷的なことするような性格だっけ!?

 けど、そんなやりとりをしてるあいだも、桃矢は私の腕を引っ張って走ってるわけで。さっきの笑い声の続きも聞こえてこないがらんとした廊下の一角にある、私が鍵を閉めてそんなに時間が経っていない練習室へ着いてしまう。

 ここまで来ちゃったのなら、仕方ない。私は諦めて、練習室の扉を開けた。


 まったく、さっきの沈痛な顔はどこへいったのよ。もういつもの顔しちゃってさ。それどころか、大型犬の耳と尻尾が見えるし。私の服の袖を引っ張る美音みたいだよ、桃矢。

 …………そんなこと言ったら、私もだけどね。


「ねえ桃矢、ところでさ。さっき聞こえてきてた曲って知ってる?」

「ああ、リストの『居酒屋の夜の踊り』だったな。『メフィスト・ワルツ 第一番』っつったほうがいいか」

「あ、だから聞いたことある気がしたんだ。前に桃矢が弾いてくれたよね」


 その曲名なら覚えてる。桃矢の家の防音室で聞いたとき、人をもてあそぶのが好きな悪魔の曲っぽいって思ったもの。なんだっけ、悪魔のメフィストフェレスがヴァイオリンを弾いてるとかいう話だったような…………。

 桃矢は私を振り返った。にかって、やんちゃな子供みたいな笑顔で。


「また弾いてやるよ。その代わり」

「うん、歌うから」


 ピアノには歌を。歌にはピアノを。それが、私たちの決まり事なのだから。

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