第40話 懺悔

 静寂、静謐、というのはこういうのを言うんだろうな。教会へ来ると、私はいつも思う。

 だって結婚式のとき以外いつ来ても、この教会の静けさは他とは違うもの。お母さんに怒られてるときとも、学校で先生の退屈な話を聞いてるときとも、部屋に籠ってるときとも根本から違う。一番近いのは、背筋を正したくなる、って表現かな。重い扉を開けて中に入るだけで、騒いだり悪いことをしたりするのがとても罪深いことのように思えてしまう。


 時田ときた先生にため息をつかれる最後の授業も終わった放課後。雨が降ってるし練習する気になれなかった私は、まっすぐ家へ帰る気にもなれず、家の近くの教会へ足を運んだ。勝手知ったる他人の家、第二弾。というか、秘密基地? 全然秘密でもなんでもないけど。


 私みたいに信者じゃなくても気軽に入っていい場所なんだけど、結婚式やコンサートみたいな行事以外でここが人で賑やかになったのを私は見たことがない。せいぜい、パイプオルガン奏者の人や数人の信者さんが来る程度。一日中いても、誰も来ないことだってある。今だってそうで、私が来てからというもの、世界に私一人しかいないんじゃないかって妄想ができるくらい、この教会は私の貸し切り状態だ。

 こんなに綺麗で特別な空気の場所なのになあ。今日はやってないけど、神父さんが話してくれる聖書の物語はいい暇潰しになるし、クラシック音楽や漫画なんかの元ネタがわかって面白い。教会はいい暇潰しと休憩場所になるっていうのに、知らないなんて、もったいない。


 少し前から降り出した雨のせいで日は差し込んでこなくて、せっかくのステンドガラスもきらきらしていない。でも両側の壁に灯る照明のおかげで、視界は悪くない。むしろ、今の私にはこのくらいの明るさがちょうどいいかな。真ん中あたりの列に座っても、キリスト像に見られてる気がしないもの。左右の壁に飾られた絵画の、聖母マリアや聖ヨハネにも見られずに済む。

 記憶も、恐怖も、分厚いガラスの水槽も。ここには何もない。何もかもが静寂に消えていくみたい。私はただ、静寂に耳を澄ませていればいい。それだけで安らかになれる。


 ――――――――――――

 ……………………? 誰か来た?


 重々しい扉の音が、雨の中の来客を告げる。けど、私は特に興味を引かれなかった。私以外にも物好きな人がいるなあ、って思うだけ。ベンチの端のほうに座って目を閉じたまま、こつこつと響く小さな足音をぼんやりと聞く。


美伽みかちゃん」


 え?


真彩まや?」


 予想してなかった人の声に、私は思わず振り返って何度も目を瞬かせた。

 真彩だ。クリーム色のコートとマフラーで防寒していて、落ち着いた色彩の教会の中じゃ浮いてるように見える。


「どうしてここに?」

「美伽ちゃんに話があって。それで電話したんだけど繋がらなかったから、友里ゆりちゃんたちに相談して、ここかなって。美伽ちゃん、ここへたまに遊びに来るって言ってたから」


 電話……? 眉をひそめて、私はポケットからスマホを取り出していじった。

 あ、ホントだ。結構前に真彩からの着信がある。この時間だと、電車の中かな? マナーモードにしてたとはいえ、なんで気づかなかった私。

 しかも、着信は一件だけじゃない。もう一件、二十分くらい前にきてる。

 でも…………どうして?


「美伽ちゃん? どうしたの?」

「っごめん真彩、電話、気づかなかったみたい」


 私の隣に腰を下ろした真彩に声にかけられて我に返り、私は首を振って真彩にへらっと笑ってみせた。いけないいけない、今は真彩の話を優先しないと。


「それで真彩、なんの話?」

「……」


 私が率直に尋ねると、真彩は黙った。

 でも、周りの空気が変わった。冷えていても静かで穏やかだったのに、硬く張りつめたものになってる。真彩が原因なのは、顔をみれば明らかだ。


「ごめんなさい」


 空気を一変させて開口一番、真彩はそう、私に謝った。


「私、美伽ちゃんに甘えてた。私が桃矢とうや君に話してもらえないのは私の努力が足りないせいで、私と桃矢君の問題なのに、美伽ちゃんに代わりに問題を解決してもらおうとしてた。自分がつらいからって……桃矢君と二人で解決したいって言ったのは、私自身なのに」

「そんなことないよ。真彩は私よりもしっかりしてるし、強いよ。吉野よしのさんに説教したし、桃矢に告白して付き合うところまでこぎつけるのだって、自分一人で考えて決めたんでしょう? 真彩は誰にも甘えてないよ」


 そう、真彩は誰にも甘えてなんかいない。甘えてるのは桃矢のほうだ。真彩に伝えるべきことを伝えず、はぐらかして、言わなきゃいけないことを先送りした。やっと真彩に話したのだって、私にうるさく言われたからで。桃矢の優柔不断に、真彩が心を痛める必要はない。

 でも真彩は、緩々と首を振った。


「それこそ、話しても大丈夫だって桃矢君に思ってもらえるよう、私は『好き』って伝えるだけじゃなく、普段からもっと努力しておくべきだったんだよ。桃矢君が美伽ちゃんに聞かれてすぐ話したのは、美伽ちゃんなら受け入れてくれるってこれまでの経験で信じてたからに違いないもの。……ううん、桃矢君に信用してもらえてなかったとしても、私は美伽ちゃんに甘えちゃいけなかった。美伽ちゃんに愚痴を言うことはあっても、自分で何度でも桃矢君にぶつかって、喧嘩してでも桃矢君から話を聞くべきだった」


 真彩は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握った。


「私が弱かったから、私と桃矢君の問題に美伽ちゃんを巻き込んで、二人が喧嘩することになっちゃった。そのせいで、美伽ちゃんがこんなにつらい思いをすることになって…………ごめんなさい」

「真彩……」


 今にも泣きそうな顔で、でも涙は流さず、真彩はもう一度私に謝った。


 どうしよう…………。

 私は、真彩を見下ろしてまずそう思った。


 真彩が私と桃矢の絶交について自分を責めてることは、前から知ってた。明希から聞いたけど、桃矢のことで悩んでいたことや私に打ち明けたこと、私がはぐらかされた真彩の代わりに桃矢を問いつめたことを、真彩自身が明希あきたちに話したから。それだけ、私と桃矢の絶交は真彩にはしんどいことだったのだろう。


 それでまあ当然と言うべきか、明希たちの怒りようといったら、吉野さんの私に対する嫌がらせを疑ってたとき並みだった。友里たちのあいだで桃矢の評価は地に落ちて、『ピアノが上手いだけの逆ギレ俺様男』になってる。私と真彩が止めなかったら、友里か和子が桃矢に文句を言いに行ってたかもしれない。


 でも、真彩の後悔は見当違いだ。どういういきさつだったにしろ、公園であんなやりとりをしてこの状況を招いたのは他の誰でもない、私と桃矢なんだもの。ただの自業自得なんだから、真彩が気にすることじゃない。

 だから私は、真彩の肩に手を置いた。


「……私と桃矢が絶交したのは、真彩のせいじゃないよ。あいつが私にキレたのは、私がきつく言いすぎたからだよ。それに、桃矢の様子が冬休み明けからおかしかったのなら、真彩が私に言わなくてもそのうち倉本くらもと君か明希あたりが私に聞いてきて、私は桃矢を問いつめてただろうし。……真彩が私に言わなくても、そのうちこうなってたんだよ」

「美伽ちゃんはそれでいいの? 桃矢君とあんなに仲が良かったじゃない。今のままじゃ口も利けないまま、桃矢君は留学しちゃうんだよ?」

「うん……でも無理だよ。桃矢は私の話を聞く気がないみたいだし……私も正直、桃矢とちゃんと話して許してもらいたい気持ちがないの。きついこと言ったのは私だし、仕方ないっていうか……」

「そんな……!」


 諦めきった私の態度に、真彩は悲痛な声をあげた。

 でも、そうなのだ。私は正直なところ、桃矢との絶交を悲しんでいるわけじゃなかったりする。感情を出すことも受け入れることもしない、穏やかな水で満ちたガラスの水槽の中にいるから。ろくに心が動かないのに、悲しいも何も感じるわけがない。


 私だって、私の顔を見ること、声を聞くことすら拒む桃矢の態度にうんざりしてはいるのだ。けど…………それだけだ。心が動かなくなる直前みたいに、胸が痛くてどうしようもないわけじゃない。真彩のこの謝罪さえ、今の私にはよくできた映画を見てるみたいだった。


「ここまでこじれた上に、桃矢の留学まであと五日もないし。私と桃矢が仲直りする要素なんて、どこにもないよ」


 だからもう何も言わないで。私に構わないで、真彩は桃矢とのことだけを考えていればいいんだよ。

 私はそう伝わるよう願いながら、真彩に小さく笑いかけた。

 そう、これでよかったんだよ。これで、もう。


 …………あ。

 私の気持ちが伝わったのかどうか。真彩の顔がくしゃりとゆがんだ。

 真彩の瞳が大きく揺れた。涙が、浮かぶ。


「………………一年のときから、ずっと桃矢君が好きだったの。弾いてる姿がかっこよくて、頼めば丁寧に、根気強く教えてくれて……気づいたら、好きになってた」

「……」

「見てるだけでいいって思ってて、けどやっぱり無理で……だから告白したの。振り向いてもらうためには、気持ちを伝えるしかないから。一緒にいてもらえば、いつか好きになってくれるし、私ならできるって思ってた…………」


 真彩は、コートの裾をきつく握った。


「好きになってもらえるよう、たくさん努力したの。桃矢君もきっとそう。だから、いつか好きになってもらえるって信じてたの…………でも」


 そこで真彩はこみ上げるものに押されるように、言葉を途切れさせた。身体も瞳も震わせ、眦に溜まる涙を膨らませていく。

 でも、と真彩はもう一度繰り返した。真彩の細い身体が大きく震える。


「私は、友達をこんなふうにしたかったんじゃない…………!」

「……」

「ごめんなさい……ごめんなさい美伽ちゃん…………!」


 目に溜まった涙を振り落とすためのように、細い身体に溜め込んだ感情を欠片も残さず吐き出すためのように。真彩の感情は猛獣が吠えるみたいに、張りつめてた空気も震わせ揺らす。

 ……ううん、空気だけじゃない。私の心を囲む分厚くて透明なガラスも、震えた。


 うん、そうだね真彩。真彩は努力してたよ。好きだって全身で桃矢に伝えてた。桃矢も真彩を見るようにしてた。だから私は苦しかったのだもの。形や方向はずれてたのかもしれないけど、二人は互いへ思いを向けようとしていて、私はそれを見てるのがつらかった。


 真彩の涙はちょっとやそっとじゃ止まらなくて、真彩は俯いて背を丸めて、顔を両手で覆って、ずっと身体を震わせてた。小さな手の間からこぼれる嗚咽も止まらない。


 ――――――――…………。

 泣きじゃくる真彩を見つめて、見つめて。私は真彩にそっと手を伸ばした。


「…………私は、真彩がそんなに私のことを思ってくれるだけでもう充分だよ。ありがとう真彩」


 小さな真彩の頭をそっと抱きしめて、私はそう真彩にささやいた。

 なんだかな……。真彩がこんなにも苦しんでいるのに、私の心はまだ動ききらない。友達がつらそうにしてるんだよ? なのに、目の前にいる真彩の涙も悲痛な叫びも、私の心にまともに届いてこないなんて。ありえない。どこまで薄情になったのだろう、私。


 それでも、感謝の気持ちで心が震えてるのはわかる。小石を投げた水面のさざ波程度だけど、真彩の体温と一緒に私に熱をくれる。寒さ対策の道具とは違う、ホットココアみたいに体の芯からぽかぽかしてくる熱だ。気持ちよくて、ほっとする。


 ……………………よかった。今までも何度か思ったけど、今日も改めて思う。実感する。

 桃矢が付き合うと決めた人が、真彩でよかった――――――――――――


 …………………………。

 …………あれ? また誰か来た?


 真彩の嗚咽を聞きながら、私が幸運に感謝してどのくらい経ったのか。また重い扉が開く音がした。

 まずいなあ。とりあえず真彩から離れてみたけど、真彩はまだ泣き止まないし……そろそろハンカチ貸してあげたほうがいいよね。できれば目の周りを冷やしたほうがいいけど、そんな都合のいいものはないし…………。

 ……って。


「倉本君?」


 振り向いた私は、これまた濃紺のコート以下防寒具を着込んだ倉本君がこっちへ歩いてくるのを見て、目を瞬かせた。

 なんで倉本君が……ってあ、そういやさっき、着信あったんだった。


 倉本君は私たちのほうへ歩いてくると、真彩にちらりと目をやって瞬いたあと、すぐ私に視線を戻した。


水野みずのさんに話があって電話したけど出なかったから、探しに来たんだ。君はここが好きだって、前に言ってたから。……こんな天気だし、ここにいてくれてよかったよ」

「私、ここのことばらしまくってるね……」


 真彩に続いて、倉本君にまでばらしちゃってたんだ……私は思わず半笑いになった。ここは私の隠れ家だったんだけどなあ。まあいいけど。どうせ二人とも、ほとんどここに来ないだろうし。

 目元の涙を拭った真彩は、恥ずかしそうに倉本君から顔を逸らした。


「それなら、私帰るね」

「いやいいよ、すぐ済むから。天崎あまさきさんも、まだしばらくはその顔で外へ出たくないんじゃないのかい?」


 そう言って倉本君は、首を傾げて微笑む。出たよ紳士。ハンカチ出してくるし。生まれてくる時代を間違えたんじゃないかな。

 真彩は、受け取ったハンカチで目元の涙を拭った。それでも目の周りは赤く、白い肌に鮮やかだ。まるでお芝居の化粧みたいに映える。


「ありがとう、倉本君」

「どういたしまして」


 真彩はほのかに笑み、倉本君は応じる。うん、やっぱりこの二人は絵になるなあ。教会の中だから、背景もばっちりだし。


「それで倉本君、私に話って」


 私がそう切り出すと、倉本君はやだなあ水野さん、と実にいい顔で首を傾けた。


「僕への報酬、忘れたの?」


 …………あ。

 そういえばまだだった。倉本君のにっこり笑顔で、私はこの教会で催されたコンサートのことを思い出した。

 病み上がりの私を気遣って真奈美さんは別の人にお願いしようとしてくれたけど、私はコンサートで歌わせてもらった。その頃にはもう私の心はろくに動いてなかったけど、歌わないのは絶対に嫌だっていう気持ちだけははっきりしてたから。ただ純粋に、自分が歌うと決めた場所を誰かにとられるのが嫌だった。


「コンサートが終わっても何も言ってこなかったから、冗談かと」

「まさか。そんなわけないじゃないか」


 うわあ、なんて爽やかな顔。ええそうですね。倉本君が、そんな優しいことをするわけがない。悪魔にも慈悲があると思った私が馬鹿だった。


「ということでさ、水野さん」


 そこで一度言葉を切り、倉本君は笑った。

 さっきまでの、私の反応を楽しむふうじゃない、とても優しい目をして。


「デートしよう」

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