第20話 悪意の序章・二

 それを最初に破ったのは、感心や感嘆といった色が混じった息をついた和子かずこだった。


「……やっぱり、リストのよりサン=サーンスの『死の舞踏』のほうが、曲としては好きだわ私」

「? 同じ名前の曲があるの? 『死の舞踏』って」

「うん。元々は、美術の様式のことなんだって。ペストが大流行してた頃、死への恐怖で大騒ぎしてる人たちを表現した様式らしいよ」

「まあ、どっちの曲もペストとはあんまり関係ないところから着想を得たって話だけど。サン=サーンスのは真夜中の墓地で骸骨が踊ってるって詩が元だし、リストのほうのはグレゴリオ聖歌の旋律の引用で、キリスト教の最後の審判が題材だしね。まあ、死への恐怖って点ではおんなじだよ」


 友里ゆりが首を傾けると、ピアノ専攻の明希あきとオケ部所属の和子が次々と解説する。さすがこの二人、お見事。

 私も、こっちよりはサン=サーンスのほうが好きかな。禍々しくも優雅なワルツの、特に一番盛り上がるところが好きだ。骸骨たちが激しく踊り狂っているのだと想像させる、主旋律の迫力がいいんだよねえ。

 でも、リストが主旋律に引用したグレゴリオ聖歌も嫌いじゃないんだよね。よく晴れた日のあの教会でプロの合唱団が歌ったときの、背筋がぞっとするような美しさと荘厳さといったら! あんな素晴らしいものを聞くと、音楽が政治や宗教の宣伝に利用されるのは当然としか思えない。そのくらい、あの美しさは人の感情を揺さぶる。


真彩まや、行こう」

「……うん」


 私が促すと、真彩はゆっくりと歩きだした。名残惜しそうに音楽科校舎から視線を外し、私たちと一緒に歩きだす。

 私はまた、胸がざわつくのを感じた。


 どうして、どうして。うるさいくらいに私の心のどこかがわめいてた。それこそどうして、だ。真彩は桃矢とうやと同じピアノ専攻だし、コンクールの本選が近づいてきてるっていうのに桃矢が練習を見てあげてた。そのときに真彩があの曲を聞いてたりしたら、あれが桃矢の演奏だってわかっても不思議じゃない。私だけの特別な才能じゃないんだから。

 ――――――――そう、私は特別なんかじゃない。


「……」


 そんな考え、馬鹿げてる。もやもやして苛々して、私は首を振って歩きだした。でも、だからって一人だけ早足なのは変だ。明希たちと同じ速さで歩くしかない。

 ……はあ、なんで皆で楽しく帰る最中だっていうのに、こんな気持ちにならなきゃなんないのよ。最悪だ。


 ――――――――――――――――――え。

 暗い思いに沈んでいるうちに到着した玄関ホールの、自分の下駄箱を開けた途端。私は思考が停止した。


 だって。

 靴の上に紙が置いてあったから。


 心臓が一つ、大きく跳ねた。


「どうしたの、美伽みかちゃん――――っ」


 隣の列で靴を履き替えてた友里が、私の下駄箱を覗き込んで息を飲んだ。私の代わりに、下駄箱から紙を引っ張り出す。


「何これ……っ」


 友里が目を吊り上げた。

 全身が心臓になったみたいにばくばくいってる。どこもかしこもが熱くて、血が沸騰したみたいだ。頭の中で、記憶がぐるぐる回る。


 紙と箱が入った下駄箱。怒った桃矢。指輪。繋いだ手。廊下。それから、それから――――――――

 男の人の声、が――――――――――――――――

 ――――――――っ。


「美伽ちゃん!」


 っあ…………。


 友里の声で、私は我に返った。焦点が目の前の、心配そうな顔をした友里に合う。

「美伽ちゃん、大丈夫?」

「ごめん、今一瞬、意識飛んだみたい……」

「それ、大丈夫って言わないから」


 私が友里にどうにか答えると、反対側の下駄箱から顔を覗かせた和子がそう冷静にツッコミを入れてきた。その隣で明希と真彩が私を見て、ぎょっと目を見開く。


「わわ、美伽ちゃん顔真っ青じゃない!」

「友里ちゃん、どうしたの?」

「下駄箱だよ。また誰かが、美伽ちゃんのとこにこんなの入れたんだよ!」


 そう言って友里は、三人にその紙を見せた。三人は一斉に、顔をゆがめたりしかめたりする。


「何これ、ひどい……」

「今どき、こんなくっだらないことする馬鹿いるんだ……」


 口元を押さえる明希に続いて、和子は呆れ声で切り捨てる。私はそれで、紙に何が書いてあったのかなんとなくわかった。


 大木おおき君の事件以来、私は下駄箱を開けるのに勇気が要るようになっていた。下駄箱を見るたびに、何か変な物が入ってるんじゃないかって不安になって、開けたくなくなる。暗い場所も、後ろに誰かがいるのも今まで以上に怖い。事件直後より少しはましになってきたとはいえ、それでも時々、恐怖で手が止まってしまう。

 大木君は退学になって、クラスの窓際の席は空いたまま。だからもうあんなことは起きないって、わかってはいるんだけどね…………。

 真彩が心配そうな顔で、私の腕を引いた。


「美伽ちゃん、保健室へ行こう? そんな顔色じゃ、帰る途中で倒れちゃうよ」

「だね。保健室が閉まってても、そこらへんで休んだほうがいいよ。というか、斎内呼んだほうがよくない? あいつ、美伽と近所でしょ?」

「え……そ、それはちょっと……」

「遠慮してる場合じゃないよ。美伽ちゃんは今、大事な時期なんだから。十二月にはコンクールがあるんだよ?」


 和子の提案に私が思わず首を振ると、明希がそう腰に手を当て、め、とでも言いそうな調子で指を一本立てる。真彩や友里、和子もそうだよと口々に言う。……私に拒否権はないんだね……。


 皆が心配してくれてるのはわかる。コンクールを控えてる私に、面倒事はご法度だ。私は割と気分が歌に出るから、嫌がらせに動揺なんてしたら演技に集中できなくなっちゃう。

 それに今、全身から血の気が引いてるのが自分でもわかる。体の中から熱がなくなったみたいに寒気が身体のあちこちに広がって、寒い。そのくせ頭と胸の辺りだけが熱くてぼうっとして、まともにものを考えるのが億劫だ。

 これ、絶対まずいよね……。でも桃矢は、前のときあんなにキレてたんだもの。私の下駄箱にまた変な物が入ってたなんて知ろうものなら、ああなるに決まってる。心配かけたくないよ。


「美伽、とりあえず休もう? 桃矢君に連絡するかどうかは、それから決めたらいいよ」

「うん……」

「先送りにするだけだと思うけどね。他の人も見てるし。明日には斎内の耳に入ってるかもよ?」

「うん、わかってるんだけどね……」


 和子が言うように、多分そのうちにばれるんだろうけどね。でもできれば、先送りしておきたいんだよ。ばれなかったらめっけものだし。

 ……ああでも、ばれたら怒鳴られそうだな…………だったらもう言っちゃったほうがいいのかな……。


 怒り狂う桃矢なんて想像しなきゃよかった。そう後悔しながら、私は靴をまた履き替えてくれた真彩たちに付き添われて、保健室へ向かった。明希も、さっき桃矢のピアノが聞こえてきた辺りの部屋を探しに行ってくれる。


 そうしてゆっくり休めるところ――――ひとまず音楽科校舎側の渡り廊下へ向かううち、私の頭の中はまた勝手に、あの記憶を再生しだした。


 だから、なんっでこんなときにっ――――私は思い出したくないのに――――――――!

 私は慌てて首を振って、浮かんだ光景を打ち消した。


 そう、違う。これは彼の仕業じゃない。彼はもう学校にいない。あんなことは二度と起きない。


 ――――でも、紙におそろしい感情が込められてることには変わりない。

 そして、それを私に向ける人がいるってことも。

 私はここにきて、ようやく真正面から事実を認めた。認めるしかなかった。


 この学校には、こんな手段を使ってくるくらい私を嫌いな人がいるって。

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