第36話 西原ちはやの苦悩2


「先生は、中学のときから俺を知ってたんですか?」

「ああ、その頃から君をしっかり追っていた」

 ちはやちゃんは水の残っているガラスのコップの中の水をゆらゆらと揺らす。そこにはなにが見えてるんだろうか。俺の角度からはただ透き通ったちはやちゃんの視線しか見えない。


「話してもらえますか?」

「長くなるけどな。...まあいい。さてと、どこから話そうかな」

 ちはやちゃんは故意にもったいぶるわけでもなく、切り出すポイントを探していた。そしてその答えが見つかると同時に口を開く。


「まあ、私は見ての通り一高校教師だ。そうであれば身近の中学校に行くことも少なくはないだろう。その一環として、君のいた中学校にもよくよく訪問してたよ。一ヶ月に一回、それ以上のときもあったな。」

「確かにそれはあるとは思いますけど」

「それで、ある日授業以外を見たときに、生徒会で人一倍生きのいい人間がいたんだよ。明るく、無鉄砲で、でたらめで、それでも何か新しいことをやろうとする、そんな子がね。...言わなくても分かるだろうが、それが私の君への第一印象だった。ま、もっとも私はそのときは君の名前すら知らなかったがね」

「...生きのよさなら、秋乃の奴のほうが上ですよ。きっと、あの当時から」

「榧谷か。あいつも一緒にいたから見てはいたが...まあ、それでもあいつも場をわきまえるべきときはわきまえる人間だからな。そういう点ではあの頃はおとなしかったんじゃないか?」

「確かに」

 

 先輩に混ざって生徒会活動をするわけなんだから、普通はそうなるのがセオリーだろう。そう考えればあのことの秋乃は確かにおとなしかったかもしれない。散々やらかしてくれたけど。


 ちはやちゃんは一口手元の水を飲んで、話を続けた。

「それでだ。そんな君を追って学校に来ていたある日、あの事件は発生した。あれは昼休憩の時間だったか。ちょうど私が校舎についたくらいの時間の話だったな」

「...河佐ですか」

「もちろん。...私自体、その光景を実際目の当たりにはしなかった。すぐに『今日はお帰りください!』なんて追い出されたら帰らないわけにもいかないしな。こんなことがあったと知ったのは皐月ヶ丘に帰ってからの話だ」

「...」

「おいおい、神妙な顔をするな! 過去は帰ってこないんだろ?いつまでも悔やんでどうするんだ、なんてのは君の台詞じゃなかったか?」

 ちはやちゃんは豪快に笑いながら俺の背中をバンッと叩いた。走ってきた鋭い痛みの奥にはどこかしらの優しさを感じる。そのせいか俺はNOを口に出すことが出来なかった。

 しかし、ちはやちゃんはまた先ほどまでの真剣な顔つきに戻っていた。


「...悪い。そう簡単に他人が口出しできる話ではないな。ましてや君は当事者だからな。そこから崩れていったのは仕方ないと思ってる。あの日を境に君がどんどんと暗くなっていくのは私の目からしても十分に分かったしな。...ただ」

「ただ、なんですか?」

「過去は帰ってこない。...ほんとだよ、過去は帰ってこない。起こってしまった事象はひっくり返せない。ただ歩んできた過程、結果として残るだけだ。...まあ、私も、過去に戻って美容に料理にいろいろ学んでモテたい!なんて思ったことはあるけどな!」


 ちはやちゃんは自虐を織り交ぜ、さきほどの俺がいつか美春に言ったことばについての見解を述べた。実際その通りだと思う。

 けれど、前に進むべきだとわかっていても、人は前に進むことをためらう。失ってしまうことへの恐怖、変わってしまうことへの恐怖、それが心のそこに根付いているからだ。

 ...きっと、俺だってそうだ。だから今になっても美春に何一つ思いを伝えれていない。あの日までは、前に進むことについてこんなにためらうことは無かったのに、今となっては真逆だ。そんな自分が恥ずかしい。

 ただ...おかげで解は得た。


「先生、ありがとうございます」

「なんだなんだ? 礼なんていらないぞ?」

「それでもです」

 素直に御礼をされてちはやちゃんは照れているみたいで、どうにかして必死にテレを隠そうとしていた。正直その光景がかわいいと思える。


「...んんっ! まあ、何か分かったならいいさ。私としてもそれに越したことは無い。...ああそれと、瀬野だがな」

「美春が、どうかしたんですか?」

「ああいや、悪い話じゃない。瀬野がよく私の元に来るという話だ。確か彼女は河佐の友人だったんだろう? あいつもあいつで色々悩んでいたんだろうな。一年の頃から、あまり面識の無い私にしきりに相談に来ているからな」

「そうなんですか?」

「ああ」

 ちはやちゃんは息子を見つめる母親のような視線で俺を見つめる。いつかどこかで受けたことがあるかもしれないその視線に俺は息を呑んだ。


「あいつは学校側からかなり注目された状態でこの学校に入った。君も彼女の美術センスのよさは知ってるだろう?」

「ええ、まあ」

「それで期待されてこの学校に入ったが、成績は思ったより振るわず。一部の先生からは期待はずれの烙印も押されている。そんな状態なんだ、瀬野は」

「そうなん...ですか」


 俺は言葉を失った。

 俺は自分の主観でしか、あいつのことを知らなかった。だから俺は美春のことを何も知らない。だから、こんな風に今でも苦しんでいることに気づけないで、あんなことを口にしたんだ。


 ...最高にかっこ悪いな、俺。


「それでも瀬野は諦めてない。あの日の事件で自分の心が傷ついたままだということを知りながら、それでベストが程遠い場所にあると分かっていながら、それでも何とかしよう、どうにかしようと足掻いて足掻いて今日も絵を描いている。一人、放課後の教室でな。...君ならできるか?」

「そんなの...」


 無理に決まっている。

 努力が出来ないとかそういう話ではない。俺は根本から何一つ美春に勝てない。それなのに俺に美春と同じことが出来るはずもない。

 そんな俺がなんで、俺よりもっと苦しいはずの美春にあんなことを言ったんだ...。少なくともあいつのことを大切と思ってるなら、そんなことがいえるはずが無いのに...。


「あっ...」

 いつの間にか涙の雨が頬を濡らしていた。

 それはたった一粒。けれど俺の目から確かに流れた一粒だ。

 当然のごとくちはやちゃんはそれを見落とさない。


「君は今瀬野と仲たがいしてるんだっけか。なーに、心配には及ばんよ。相手のことを思って涙が流れるくらいなら、ちゃんとまだ相手と分かり合える」

「...はい」

 俺は涙を拭って、今度はちゃんとちはやちゃんに向き合った。


 何時ぶりだろうか、涙を流したのは。

 卒業式でも泣かなかった。殴り合いになっていくら痛くても涙は出なかった。

 そうだ、最後の涙はあの日だったんだ。俺はあの日あの場所にいろんなものを忘れてしまってきていた。

 今、それをこうして回収している。それは少なからず俺も成長しているというための証拠なんだろうか。

 ...いや、きっと今はそんなところまで辿り着いてない。やっと進むべき道が見えてきたくらいだろう。けど、今はそれでいい。


「先生、美春はなんて言ってましたか?」

「それは最近の話か?」

「ええ、まあ」

 できれば俺を呼び止めたあの日の前日辺りのことも聞きたかったが、それを聞いたところで現実は変わらない。

「ふむ...。昔からよく、『どうやったら前に進めますか?』と聞いてきてはいたんだがね...。この間はそうだな...『やっぱり過去を忘れないと、前には進めないですよね...?』なんて言ってたかな。それがなにを意味するかは、君は分かるだろう?」

「痛いほど」

「ならよし。あとは君の言いたい事、伝えたいことを真っ直ぐぶつけるだけだ」

 ちはやちゃんは優しく微笑んだ。この笑顔の前でNOなんていえない。

「やってみます」

「うん」


 そうして会話は終わり、また各々目の前の料理に手をつける。

 どうやら数分立っている分、麺は伸びてしまっているようだ。それでもいいからと俺は麺をすする。やはり形は変われど旨いものに変わりは無かった。


 俺の器の中の具材がなくなったあたりでちはやちゃんはこちらを向かないまま独り言を喋りだした。

「なーんて、私も人の相談に乗れるほど強くないんだよなぁ...。それなのにこうやって生きてるばかりに婚期は逃げてくし...。はぁ、結婚なんてやっぱり人を選ぶんだろうなぁ...」

 ...とんでもなく卑屈だ。事情が事情なだけあるがどうしても重苦しい。高校生である俺が声をかけたら逆に引火しそうだからやめておこう...。


「...なぁ、須波」

「え、はい?」

 しかし俺の意思とは真逆で、ちはやちゃんのほうから声がかかってきた。そんな状況な以上、俺も答えざるを得ない。

「君は恋愛漫画とか読んだりするか?特別タイプの違う作品とかそういうのじゃなく、一般的に誰でも読みそうな作品だったりとか」

 一般的...ニセコイとかだろうか?俺ジャンプっ子じゃないからあまり知らないけど。


「まあ、ぼちぼち...。けど、自分からこれだけは揃える! なんてことはそんなしないですけどね」

「ああそうか、君の場合小説だったか」

「そうですね。恋愛ものの小説だったらまあ、それなりには読んでますね」

「じゃあそれでいいや」

「じゃあって...」

 なぜかしゅんとしているちはやちゃんに俺は困惑せざるを得なかった。今の一瞬の間で何があったんだろうか。


「私の結婚できない理由なんて私が一番知ってるさ。...色々スペックが足りてないというのも確かにあるけどな...私は、ありきたりが嫌いなんだよ」

「はぁ...」

「聞いてるか?」

「聞いてますよ?」

 酔ってもないのに絡み酒とは対したもんだ...。

「それで、続きは?」

「ああ...。私は親が平凡オブ平凡でな、目の前で見せられていた普通というものが嫌になったんだ。それは家だけじゃなく、外での価値観、恋愛模様だって普通と呼ばれたくなかった。だからいつの間にかこんなに堕落してるんだろうなぁ...」

「な、なるほど...?」

 確かにこの人は普通と呼べる感じはしない。車はお高いし、タバコは吸う、酒は飲むし、料理は出来ないし、平均を上回ってたり下回ってたり、ラインに乗ってるようなことはあまり無いかもしれない。確かに普通からは逸脱してる。


「でもあれです。ありきたりが嫌い、ってのは分かります。俺もそうですから」

「そうか!?」

 ちはやちゃんは急にパァァと明るい顔でこちらを見てくる。じわりじわりと寄って来た体を俺は両手で止める。


「おっと、生徒に手を出すのは犯罪ですよ?」

「君なら大丈夫だろう。ふふふ、なんせ私のセレクションだからな」

「なんすかその言い方! てか近づくな! だから結婚できないんでしょうが!」

「...そうですね」

 そうして寄せてきた身体を自分のほうへ亀のように引っ込め、またしゅんとなった。なんなんだこの人...。


「ちはやちゃん、そろそろ店じまいだから食べ終わったら上がってくんないかな?」

「あ、りょうかーい。須波ぃ、会計よろしくぅ...」

「俺財布持ってないんで」

「はぁ!?」

 いや、奢るって言ったのあんたでしょ。それ以前に今日は財布持ってなかったけど。


「...ったく、やっぱり貧乏くじは私かぁ。先外で待ってろ?」

「うい」

 俺はご馳走様とだけ口にして、店の扉を開けて外の空気を吸った。一度二度深呼吸。

 そのまま虫が無く音に耳を済ませているとなにやらすすり泣きのような声が聞こえてきた。その声はちはやちゃんにしては若すぎる、小学生くらいの声。

 辺りを見回すと商店街の外れのほうでしゃがみこんでいる小学生くらいの女の子がいた。見るからに迷子だろう。

 こういう場面を見てみてみぬふりをする訳にもいかず、俺はそそくさと近づいて声をかけた。


「迷子か?」

 少女はうんと首を振って人に声をかけられた安心からか腰を上げた。そのまま遠慮しがちに口を開く。

「買い物に来てて...それで、道に迷って」

「スマホとかは持ってないのか?」

 少女はまたうんと頷く。

「家、どっちのほうだ?」

「...あっち」

そうして指差した方角は、駅の反対側のほうだった。住宅街が広がっているその後ろには少しばかり高い山がそびえている、そんなところだ。であれば、おそらく歩きできた可能性が高い。


 しかし困ったものだ。歩いていくには時間が無いし、ちはやちゃんも今日は二人乗りのほうだ。最悪俺が歩いて帰るってこともできるが...。

「...入ってきたところを思い出せば、そこからは帰れると思う...。そこまで教えてほしい」

「...なるほど。了解」

 少女の案に従い、俺はちはやちゃんに五分だけ待ってとラインだけ打っておいて少女と一緒に商店街の中へ入った。



 すっかり夜になった商店街の人通りは少ない。スムーズな移動が可能なレベルだ。

「ところで、なんで君は一人で買い物に?」

 少女は悲しそうに呟いた。

「...お母さん、死んじゃったから。私がやらなきゃいけないの」

「...そっか」

 俺はそれ以上言えなかった。軽はずみに何かいえる状況でもない。

「ねぇ、あの山の言い伝えって知ってる?」

「あの山って...。ああ、あれか」

 俺は先ほどうっすらと見えた山のことを思い出した。


 その山には言い伝えが存在する。この町に生まれ、この町でなくなってしまった人の霊が帰ってくる。そんな言い伝え。

 でもそれがどうしたんだとは言わない。


「あの山に行けば、お母さんは...いるのかな?」

「...」

 一筋の光が降りてきた。

 俺は一度黙りこむ。それから確信を持って口を開いた。

「なあ、お母さんに伝えたい言葉があったりするか?」

「えっ? ...うーん。分からない。けど、私が頑張ってることは伝わって欲しいかな」

「OK。分かった。...あれ、ここ入り口じゃないか?」

「あっ、本当だ。」

 少女の顔に笑顔が戻った。ここで間違いないらしい。


「お兄さん、ありがとうございました」

「おう、暗いから気をつけて帰れよ!」

 お互いに手を振ってその場でバイバイ。俺はちはやちゃんを待たせてしまっているのでダッシュで来た道を戻った。


 俺は笑った。手の中に光をつかんだ気がする。

 そして思い出す。過去のこと。







 そうだ。あの頃の好奇心って、いつもこうだったんだ。

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