能力者だって平和に暮らしたい!

篠原 鈴音

第0話 はじまりのさざ波

 水は液体だが、まとまった量を運ぶとなると非常に重たい。なぜすぐに流れ落ちてしまう液体が重いのか、科学的理由があるにしたって、文字を読めない彼には預かり知らぬことだった。

 数値にして2km。それだけの距離を生活用水を担ぎ運ぶ彼は一家の長男である。下に妹2人、末に弟1人、それから母親。父は家にはいるけれど、日がな一日ふらふらとしているわ母や妹たちに暴力を振るうわ、彼はあれを血の繋がった父と思いたくはなかった。

 互いに忙しくあまり遊べない友人の父はよく働き、友人の頭を撫でて褒めるのだという。家族の生活が厳しいことは父だって理解しているはずだった。なのにどうして父は……。


『ただいま』


 家の中へと声を掛ける―考えながらの行動だったせいで、理解が数瞬遅れた。担いでいたバケツが床に落ちて水が跳ね零れるが、彼にそれを気にする余裕はない。


『やめて! やめてよぉ! おかあさんがしんじゃう!』


『うるせぇ!!』


 母に馬乗りになる父の手が首に掛かっていた。腕をなんとかどかそうとする上の妹。下の妹はおびえながら、家の隅で年端もいかない末の弟を抱きしめている。


『何やってるんだ、やめろっ!!』


 長男たる彼ならば妹よりも力がある。爪すらも立て、傷付けるように父の腕を引けば、父の視線は母から彼へと移った…酒の臭いがする。


『酒なんかどこで手に入れて…まさか、勝手に金を』


『テメェ、父親に逆らう気か! あぁ!?』


 いうが早いか、男は彼を引き倒した。背を強かに打ち付け、一瞬息が止まる。首に手がかかった。腕を引っ掻いても、重力を伴いながら全力で押さえつける男に抗うには全く足りない。


『か、はっ…』


 悲しくないのに、この男の前で弱みなど見せたくないのに、視界がぼやけていく。悔しい。何もできない自分が悔しい。母ときょうだいを守れぬ自分が悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい憎い憎い憎い憎い憎い憎憎憎憎憎




 こんなやつ、死んでしまえばいいのに。





 ぼやけた視界が、真赤に染まった。


『……………………え……?』


 妹の声が、聞こえた気がした。


 ぼやけた視界をぬぐう。

 紐でブツンと切り離したような断面の首。

 脅威だったものが、転がっていた。

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