第6話 見た事のある笑顔

「でわ、行くかの、電車に乗り遅れるから急ぐぞ」

 ほとんど足が上がっていない足で茂は走っていた。

 実際、周りから見ると全然走れてはいなかったが、心の鼓動を振り切るかのように一生懸命足を上げる茂であった。


「待って、将さん」

 慌ててご婦人も後ろついて行く。その手は茂の服の裾を掴んだままだった。

「おい、お前、危ないぞ」

 つまずきそうになるご婦人の手を取り支える、手が震え二人で転びそうになるが何とか持ちこたえた。


 

 筋や骨が衰えようとも少しでもワシの筋肉はまだ健在じゃ。

 だけど、転んだらご婦人は骨折したかもしれん。

 二人でこけなく良かったわい。



 ほっと胸を撫でおろす茂であった。



「将さん、ありがとう」

 ご婦人の笑顔は無邪気で可愛くまた茂の胸をドキドキさせた。

「危ないから気を付けるんだよ」

 自分も思いっきり危なかったことを棚の上にあげていた茂は茂なりの精一杯の笑顔で笑い返した。

「はい。あれ、将さん今日は機嫌が良いですね、その笑顔はええと」

 そう話したご婦人は少し頭を抱え困った表情を浮かべた。

 何かを思い出そうとしているかのようにも見えた。しかし茂には婦人が気分を悪くしたように見えたのだった。



「どうしたんじゃ?日が高いから日射病かいのう、いかんいかん」

 慌てた茂は婦人の手を引き電車に乗り込む。

 席に座ろうにも満席だった。

 その時、茂たちより二十歳ほど若い老夫婦が立ち上がってくれた。

 

 茂は大きく頭を下げ、自分は立ったまま自分の仮の妻である婦人を座らせた。

 婦人の隣に立ち上がってくれた夫婦の女性を促したがその女性に笑顔で断られ奥の方に行ってしまった為、自分も婦人の隣に腰かけた。

 水筒を取り出し婦人にお茶を渡した。


「ありがとう」

 

 そう笑う婦人の笑顔はとても綺麗で、昔忘れていたが頭の中を駆け巡った気がした。

 



 茂と連れの婦人は窓の外を眺めていた。



 このご婦人は役者の鏡じゃな。

 ここまで役になりきるとは。

 ご婦人には何か事情があるんじゃよな。



 またまた婦人の笑顔にうろたえながら茂はそんなことを思い一人で感心していた。

 

 暫く電車での旅が続いていた。

 窓の向こうにはビルが多く並んで居たが三十分も走り続けた所で窓の風景が一変し、緑の山々や田が多く並んだ。



「よし、そろそろ降りるぞ」

「はい、将さん」

 

 本当は到着地まではまだ先だったが茂は隣の婦人の尿臭が気になっていた。

 しかし、初対面でそんなことは言える筈がない。

「お前や、トイレ行かなくて良いかい?」

 電車を降りそれとなく連れの婦人に茂はトイレを促した。

「ああ、そう言えば行きたい様な気がするわ」

 婦人はゆっくりと女子トイレに入っていった。



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