タンタロスの庭

やらずの

FRAGMENT:Abandon all hope, ye who enter here.

 吸い込まれるような闇と煌めく深い黒。壁や天井は息が詰まるほどに近く、まるで冷たく無機質な腸のなかに呑み込まれていくような気持ちになる。継ぎ目なく、過ぎるほど精緻に敷き詰められた大理石の上を、それでもアクタとリクは惑うことなく進んでいく。長く緩やかにこの世界の心臓へと繋がる螺旋に、二人の少年の靴音だけがゆっくりと反響して消える。

 深く潜るたび、一歩進むたび、硬質な空気のなかで緊張が高まっていった。

 この先に求めた世界の真実の一端がある。そう思うと、恐怖と興奮、不安と期待が全身を駆け巡るようだった。

 やがて元々緩やかだった螺旋はほとんど平坦へと代わり、アクタたちの前に一枚の鉄扉が現れる。

 鈍く黒光りしているその表面に無数のノイズが走っているのは、本来ならば〈パラサイト〉が見せる拡張現実が覆い隠している扉だからに他ならない。


「この先に、彼女がいる……」


 思わず口を突いてこぼれたアクタの呟きに、今まさに扉に手を掛けて深く息を吐いたリクが振り返る。その口元はいつもと同じように穏やかに綻び、だが理知を湛える双眸には隠しきれない興奮が宿っている。


「ああ、そうだ。僕らは辿り着く」


 リクはアクタの呟きに応える。世界に向けて何かを宣言するように、あるいは新しい玩具の箱に手を掛けるように、リクは鉄扉を押し開ける。

 全てを埋め尽くすような深い黒に青白い光が射し込み、アクタたちは目を細める。

 しかし視界が白んだのは一瞬にも満たないくらいの僅かな時間で、すぐに〈パラサイト〉によって適正化された光量が広がる光景をありありと映し出す。

 アクタは息を呑み、リクは感嘆を漏らした。

 見渡す限りの左右上下には、広大な空間を埋め尽くすように、あるいは訪れる者を呑み込むように、巨大なチューブが大蛇のようにうねり、どこからともなくこぼれる青白い光のなかで浮かんでいる。アクタたちの足元から真っ直ぐに、空間の中心へと向けて伸びる細い鉄網の通路の先には、大きな艶消しの黒い球体が異様な存在感を放ってそこにある。

 その球体こそが目的の場所であり、この社会の真実が眠るパンドラであると、二人には直感で理解できた。

 あとは真っ直ぐにこの通路を進むだけ。遮るものも、妨げるものも何もない。だがそれでも、アクタは一歩を踏み出せずに立ち尽くす。

 この先にいるのは他でもない、共同体社会の頂点に君臨する統治者。人々を約束された幸福へと導き続けてきた機械仕掛けの女神である。

 たとえその存在が、かつて人が組み立てた部品や数式でしかないとしても、アクタたちにとっては社会そのものであって、紛れもない神なのだ。

 そんな存在の、意志を問うことの。あるいは問おうとすることの不敬さと無謀さたるや。

 アクタは女神の懐へと目前に迫って初めて、安易に乗った企てがどれほどに大それた行いであったのかを痛感していた。


「行こう」


 本当に青白い光とチューブの波に呑み込まれそうになっていたアクタの耳朶を打つ、リクの声。だが振り返るリクの表情もまた、緊張に強張っていた。


「……行こう」


 もう一度、自分に言い聞かせるように言ってリクが先に一歩を踏み出していく。

 アクタは両の頬を自ら平手で二度打ち鳴らす。自分を導くのはもはや機械でも、高度な演算でもない。息が詰まるような日常に、漠然と抱いていた苦しさに明確な輪郭を与えてくれたリクの言葉であり、その背中だ。

 意を決したアクタはリクの背を追って歩き出す。

 球体に近づいていくと、通路の終わりのその表面に薄っすらと長方形の亀裂があるのが見えた。アクタたちは自分の呼吸の音にさえも注意を払う緊迫感を抱え、長い通路を渡り切る。

 リクは自分の一つ一つの行動を確かめでもするようにもう一度深呼吸をし、ゆっくりと掲げた右の五指で扉の中央へと触れる。

 刹那、リクが触れた場所を起点に、青白い燐光が球体全体を駆け巡る。それらは複雑な幾何学模様を描きながら、流星のように球体の黒い表面をなぞっては消え、消えてはなぞっていく。やがて空気の抜ける音とともに、目の前の扉がゆっくりと左右に開いていく。球体のなかからはドライアイスが溶けたときのような生白い靄と冷気が吐き出される。

 部屋の奥から声が響く。流暢だが、人が話すそれとは何かが決定的に違う、女神の声。


『――ようこそ、三科李久ミシナリク。そして雛木芥ヒナキアクタ。貴方たちの訪問を歓迎します』


 聞こえた女の声の穏やかさは親しみを押し付けるかのようで、その冷たさには人智を超えた女神ゆえの超然さを強引に装っているような調子だった。

 アクタたちが声に促されるままに部屋へと入ると、背後の扉がゆっくりと閉まる。微かに聞こえた音は、静かにアクタたちの退路を断ったが構わなかった。

 部屋のなかは八方を艶消しの黒で覆われていた。異なるのは表面と違って絶えず幾何学模様の燐光が駆け巡らされていることだ。そして部屋の真ん中には球体と同じ素材と色をした机が一つ。そして机を挟んで向かい合う椅子が一組。

 アクタはリクと目を合わせ、席を譲る意を込めて頷く。ここまでこられたのはリクがいたからに他ならない。ならば女神と向かい合う特等席はリクにこそふさわしい。

 リクは椅子を少しだけ引いて、腰を下ろす。再び女の声が、しかし今度はもっと機械らしい調子で、青白く光る部屋のなかに反響する。


『来訪者を確認/面会権限不許可/追加特記事項を確認/面会許諾――――対話用インターフェースの構築を開始します』


 燐光が瞬き、リクと向かい合う椅子の上に無数のピクセルグリッドが浮かぶ。それらは宙をたゆたい、駆け巡り、やがて一つのかたちを結んでいく。

 その一連の流れはまるで芸術作品が描かれる過程を早回しで眺めているようで、アクタは思わず見惚れてしまう。

 光が紡いだのは少女の姿。鮮やかな空色スカイブルーの長い髪に、雪よりも可憐な純白ピュアホワイトのワンピース。

 少女はアクタたちと目が合うや、人のそれと遜色なくにこりと微笑む。

 その完璧な自然さに、映し出された立体映像ホログラムに過ぎないと分かっていても、少女が本当にそこにいるように思えてくる。

 表情だけではない。肌の質感や動きに合わせて揺れる髪やワンピース。その全てが人として完璧であり、まるで命が吹き込まれているかのように生々しい。

 アクタたちが辛うじて彼女をホログラムとして認識できているのは、彼女の瞳に件の幾何学模様が浮かんでいるからというだけだった。それを除けば少女はまさしく少女であり、ホログラムであるなどと到底思えなかったに違いない。


「……君が、この共同体社会を統べる女神――〈MarkISマーキス〉なんだね」


 リクの問いに、空色の髪を揺らす少女が口を開く。


『その通り。私は〈マーキス〉。ですが正確には、人工超知能搭載型超高度演算装置。貴方がた共同体構成員には〈マーキス〉の名で親しまれています』


 そして完璧なる微笑を向け、告げる。


『この出会いが、社会のさらなる発展と人々の多大なる幸福へと繋がっていく価値ある時間とならんことを』


 微笑んだ瞳に浮かぶ燐光は、ゾッとするような、だが機械らしいと言えば機械らしい冷たさを湛えて、目の前のアクタたちを見据えていた。

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