4話 血の道を行く
はじめは、淡い期待を持っていた。
飛田が豊かになって国が落ち着けば、神宮と戦をする必要などなくなる。もともと神宮は戦を好む家系ではないのだから、晟青自身が仕掛けようとしなければ、国は二分されたままで落ち着くだろう、と。
けれど、事は簡単ではなかった。
父の死後、晟青が白蛇から身をくらませたせいで、飛田の家中は一層荒れていた。唯一の跡継ぎの姿が見えないことで彼らは、先代が抑えていた権力への欲望を表に出したのだ。
白蛇城内で刃傷沙汰が起き、対立は激化し、飛田の城内を妖が跋扈していた。内乱になるのは時間の問題だった。
これでは駄目だ。
じわじわと、事実が心に落ちてくる。
誰も晟青の目など気にしていないのは知っていた。だが、ここまでとは。晟青が帰ってきて、それでもおさまらないとは。
幼い彼らの次期当主を、家臣たち自身がなめていた。冷酷で恐れられる飛田の血を引いているとは言え、所詮子供。そう決め付けていた。
そして群雄にあふれていた
家臣たちは、不満を持ち続けるだろう。皇の血をもつ正当はひとつでいい、と。
晟青が懸命に戦から逃れても、一時的なものにしかなり得ない。神宮家と飛田家が、公然と対立するその両家が存在する以上、どうにもならないことだ。
危うい均衡の上にある平和など、かえって恐ろしいものなのではないか。
抑えなくてはいけない。
この、力に狂った者たちを、抑え付けなくてはいけない。
飛田と神宮がある限り、世が乱れ続けるのならば――飛田家を、この臣たちを滅ぼすまで。
戦の世を終わらせる。そのために飛田家を滅ぼす。
晟青が死んだだけでは意味が無い。彼は象徴だ。頂点に立つ旗でしかない。だから、その土台を崩していかなければ。
気づかれないように少しずつ家臣たちの力を削いで。そして民の希望が神宮家へ向くようにしなくてはならない。
晟青と同じように、いつかたった一人残される彼女のために。
できることならば、彼女のそばにいて、支える人でありたかった。
微笑みを向けられる人でありたかった。
全てのときを共にできる人でありたかった。
それが無理ならば、せめて言葉を交わせる位置にいたかった。
でも、それは俺じゃない。その相手は俺じゃない。
どんなに望んでもかなう位置に、自分はいない。
でも、これが天の与えた自分の位置なのだから。
そばにいないからこそ出来ることがあるのなら。それなら、自分に出来もしないことを望むのではなくて、自分に出来ることをしよう。
自分にしかできないことを、自分に出来うるすべてのことをするだけだ。
どんなに人を振り回し傷つけ、苦しめても、それを成し遂げるだけだ。
――いつかまた、あの満開の桜の下で会う。その日まで。
それまで、足掻き続ける。
誰を犠牲にしても。どれだけの人々を苦しめても。自分自身、惨めな死に方をすることになっても。後の世まで蔑まれても。
誰に憎まれても、彼女自身に憎まれても、彼女が幸せになれるのなら。
「わたしと一緒にいればいい」と言ってくれたあの言葉。優しく頷いてくれたあの笑顔と、あの日の約束は、いつまでも救いとなった。
感傷はある。だが、何が起きようとも、後悔はない。
飛田家を滅ぼして、最後に自分が死ぬ。そのために生きようと思った。
東で権を誇る飛田家、その優美な居城、白蛇城内の謁見の間は広い。
天井は高く、描かれた花が豪奢に咲き乱れている。透かし彫りにされた欄間、襖戸にも強く描かれた鷹。
君臨する者の覇を表し、集う者を威圧する部屋の中、飛田の家臣の中でも身分の高い者が二十名、下座に座して平伏している。
上段の間には、ほっそりとした少年が座している。
威圧する部屋、居並ぶ臣に比べて、少年はひどく意心地が悪そうに見えた。彼の隣、同じ壇上に、同じ年の少年が、太刀を捧げ持って座っている。
先代が亡くなって一月後、ようやく飛田の当主を継いだ少年は、家督を継ぐと同時に、一堂に会した家臣たちに対して宣言する。
「
西の治世の有り様を問う。その有り方に異を唱える。
だから西を討つ。
それまで控え目で、人に逆らうことのなかった少年の、思いがけず強い言葉に、一堂に会した人々はどよめいた。
空気が熱を帯びる。それを無表情に見遣って、晟青は続けて言葉を放った。
「この後、乳兄弟の日下部銀夜を副将軍に据える。彼の言葉は、俺の言葉と思うよう」
ゆるりと腕を上げて、彼の傍らを指した。優美な
銀夜は晟青と同じ歳の子供でしかなく、彼はさほどの身分ある家の出ではない。
先刻とは違うどよめきが起きる。
低い、腹の底からの欲が、臣の口から漏れ出る。高揚していた空気が、一変して澱んだ。地底を這うような醜い欲に濁ったようだった。
「御屋形様」
臣の中から、ひときわ強く声があがる。
決して咎めるようでなく、むしろ宥めるような、子供の駄々に困っているだけのような声音だった。
「十二の子供に、貴方様の何を補佐できるとおっしゃるのです」
祖父の三島は、飛田当主である晟青の父の補佐として、立場を確立してきた。誰がどう争おうとも、無知な孫がある限り、彼の手元に権力が転がり込んでくるのだと、決めつけていたはずだ。
堀内がどれだけ騒ぎ立てようとも、先代の決めた
それが唐突に覆された。異論を唱えるのは当然だ。
そして侮るような彼の言葉はそのまま、十二歳の幼い主君へ向かったものだった。口調は宥めるようでも、言葉は遠慮がない。そして三島の言葉は、家臣全員の代弁だった。
誰もが、少年である彼らの主君を侮っていたのだから。
――一ヶ月前、そんな人々を虚ろに見ながら、少年は立ち尽くしていたものだった。
だから、誰もが己の毒を隠さない。
「御屋形様はまだ若くていらっしゃる。政をすべてお引き受けになるには早いでしょう。我々が全力を持って補佐いたしますから、そのように気負われませぬよう。何も心配なさらずとも、我らにお任せくださりませ。神宮との戦のことも、領内の統治のことも、良いようにいたします」
それゆえに老人は、はっきりとそう言った。お前は何もしなくていいのだと。
壇上の子供は、あどけない瞳を祖父へと向けた。何も分かっていない、言われたことの真意など少しも悟れていない、無邪気な眼差しで、頼りになる親族を見ていた。
「そうか。なら俺は何をすればいい?」
彼の言葉に、祖父が満足げに笑む。
「今まで通りに、健やかにお過ごしくださり、まずは立派に若君へとおなりいただければ。禍つ祓いはあなた様にしかできないことです。その力を磨き、国をお守りください」
「そうか」
晟青は、紅の唇に笑みを浮かべる。
その父を、飛田の血を思い起こさせる笑みだった。冷酷と恐れられ、美貌の誉れ高い飛田の血を。
「俺は妖の相手だけをしておれば良いと。結局、俺に権を渡す気はないのだろう」
家臣たちの見守る中、少年は和やかに言った。声があどけないだけ、込められた冷たさが異様だった。
異変に気がついて、三島は目を見張って晟青を見上げる。
目が合う。晟青は、蛾眉を潜めた。不快げに。そして忌々しげに目をそらした。
不機嫌そうな瞳は、彼の横に並んでいた銀夜に向けられる。晟青と一緒に、上段の間に座していた彼に。
壇上、これは臣とは分け隔てられた天上だ。
晟青の視線を受けて銀夜は、やれやれという様子を見せてから立ち上がった。
一体何事をするつもりなのだと、人々は子供たちの動きを目で追っている。戸惑いながらも、この時にはまだ、面白がるような余裕があった。
銀夜は視線に見守られて、太刀を手にしたまま歩きだす。ゆったりとした動作で、一歩一歩踏みしめるように。段をおり、居並ぶ家臣たちの中で、最も上座近くに座っていた晟青の祖父の前に来て、止まった。
どこか楽観的な人々とは反対に、三島は銀夜を見上げて、戦慄した。
何もできなかった。追いつめられたように。
息を忘れそうになるほどの威圧感がある。目の前の少年は屈託なく笑い、そこに立っているだけなのに。
彼は何故か恐怖した。子供なのに、そのはずなのに、笑顔の底が知れない。本心の笑みでないのが分かってしまう。得体が知れない。
これは、笑いながら、罪悪感もなしに、その手を血に染めることのできる者の目だ。
思い至って、まさか、と上座の少年へ目を向ける。
晟青は、飛田の者らしくひたすら美しく、黙っていれば人形のようだった。
彼のことは生まれたときから知っている。彼の性格も知っているはずだった。それなのに、この状況。
三島には根拠があった。彼は先代の近くにいて、晟青をよく見ていた。
明るく素直な子供だったが、周囲の目が求めるものを悟る聡明さがあり、だから大人しかった。こんな行動を成すには、分別が邪魔をするような性格だと、分かっていた。意見したところで、この子供なら大丈夫だと。
だからあからさまな言葉を口にした。実際それは間違いでなく、だから晟青は一度逃げ出したのだ。
けれども、三島は忘れていた。思い知らされた。彼が何者なのかを。
銀夜を見送った晟青は、怖気ている祖父の視線を受けて、笑った。
「何が出来ると聞いたな」
彼の声は、広々とした豪奢な部屋の中、遠く高く響いた。
そして晟青の言葉を、銀夜が継ぐ。
「色々と出来ますよ。証明して見せましょうか?」
目を細めてにこりと笑む。快活な笑顔で太刀の柄に手をかける。抜くのに、
振られた太刀が三島を捕らえる。鋭い刃は、彼の右の胸に突き刺さっていた。
「おや、手元が狂ってしまいましたね。何せ、無知な子供だそうですし、間違えることもありますよねえ」
太刀の柄を離さないまま、血と悲鳴を浴びて、間延びした口調で、にこにこと笑いながら銀夜は言う。一突きで殺さなかった、それが狙い通りであることなど、もう疑いようも無いのに。
のんびりした声が、場に張り詰めた空気を嘲笑う。
唐突な展開に、楽観していた家臣たちは動けなかった。まさか、こんな凶行が目の前で、十二の子供になされるなど。
聡明で、どちらかといえば物静かだった先代は、必要がなければ内面の冷酷さを表に出す人ではなかった。それでも人々は、先代の奥底の力を恐れていたのだ。彼が病の床に伏しても、亡くなるまで、決して行動を起こそうとしなかったように。
凝固する家臣たちには構わず、上座の美しい少年は、優雅な仕草で立ち上がる。凍えるような空気を従えながら、伸びやかな所作で下界に降りて来る。
血を流しもがく祖父とは正反対に、ゆったりとした動きで彼が銀夜の横に立つと、銀夜は突き刺したままの太刀の柄から手を離した。
三島は、太刀が刺さったままの傷口を抑えてうずくまる。晟青はその白髪頭に足をおいて、問う。
「俺の命令を聞けない?」
唇を左右に引いて笑う。細められた目は優しいのに、その笑みは凶悪だった。仮にも相手は血のつながる祖父だというのに。
「晟青……」
胸を抑えたまま三島は少年を見上げる。うめく唇からは血があふれていた。
晟青は足をどけて少し身をかがめると、祖父の髪を掴んで、身を引きずり起こさせる。
「誰に向かって口をきいている? なあ?」
傷口から吹き出す血は、彼らの直垂を赤く染め上げていた。晴れの日のための豪奢な絹の衣装が、血にまみれていく。
そして少年は、老人の胸からゆっくりと太刀を引き抜く。祖父は血の滴る口で絶叫した。
「俺は、怒っているんだ」
悲鳴の中でも、晟青の声はよく聞こえた。まだ高い少年の声は、澄んでいて楽しげだった。それだけに、奇妙だった。
「なあ、お前たちは何を考えているんだ? ここが誰の城で、お前たちの主が誰だか、まさか忘れたわけではないよな」
思い知らせる。思い起こさせる。ここに会した者たちの主が誰であるのか。そして彼らが、主を差し置いて何をしていたのかを。
そして未だ争い続けるのなら、逆らい続けるのなら、何が起きるのかを。
思い知らせる。
「俺は父ほど優しくないぞ。邪魔な者をいつまでも生かしておくほど、気長ではないんでなあ」
その言葉に、絶叫が止んだ。三島が唇をゆがめる。けれど晟青は見向きもしなかった。
抜ききった太刀を、血しぶきを散らしながら薙ぎ払う。
一刀の内に祖父の首を跳ねた。首を失った体は勢いよく血を吹き出し、頭はごろごろと虚しく床を転がった。
一番の後ろ盾を――何よりも邪魔な者を、殺した。そしてこれは、何よりも大きな意味を持つ。
――――見せしめ。
「他に誰ぞ死にたい者はいるか。名乗り出ろ。今のうちに死んでおけば楽かも知れないぞ」
将軍就任の式、豪奢な謁見の間を恐怖に染めながら、貌に髪に血を浴びて、晟青は声を高らかに、楽しげに言った。
意見をする者は死を覚悟しろ、と。
ここから時代が動く。無理矢理にも動かす。これがその一歩。最初の血は己の手で流した。証を、自らが巻き起こす出来事を、晟青はしっかりと目を開いて、瞳に捕らえていた。
どんなに罪深くても逃げない。
この道を選んだ。必ず成し遂げる。自分の死もその道の先に見据えて。
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