7話 汚濁のなかの白

 一人きり残された空間で、緋華は気配に気がついて、顔を上げた。

 物音すら絶えた冥暗の中、あたりに黒い靄が立ち上り始める。闇がどんどん濃くなり、澱んでいく。

 積み上がった死体の上に、ただれた肌の人のようなものが、次から次へと立ち上がる。瘴気を纏い、死を、大地を穢していく。

 怨嗟と憎悪の波に呼ばれて、妖たちがあたりを埋め尽くす。


 祓わなければ、すべてが穢れに覆われてしまう。

 しかし緋華は膝をついたまま、身動きできなかった。

 妖とはなんだ。妖とは、亡者ではないのか。

 死んだ者たちがその恨みに、怒りに、蘇ってくるのではないのか。生者の国を死の国へ変えようとするのではないか。


 彼らを祓うことで、自分が殺したかもしれない者を、殺させたであろう者を、さらに殺すのか。さらに苦しめるのか。

 だが、生きている者を守らなければ。穢れを祓って。――でももう、誰もいない。

 苦しみあえぎ、緋華は黒い穢れの煙を、妖たちが近づいてくるのをただ見ているしかできなかった。


 そしてふいに、黒い煙の中に、光のようなものが見えた。白い衣を着た人の背だ。澱みの中に、輝くようだった。

 屍と妖の群れの向こう、闇の中に浮き上がるようにして、不動の姿勢でそこに立っている。

 ただ手甲と臑当てと、お飾りのような防具をつけている。その格好はとても戦に来た者とは思えない。

 兜をかぶらずに、結い上げた黒い髪と鉢巻きの白い紐をなびかせて――


 ……白の、鎧。

 それは未だまみえたことすらない相手だった。けれどいつも、そばにある相手。存在は遠くても、いつもそこにあって、忘れることを許さない。

 父を、母を奪って、碧輝も奪われた。緋華にとってのこの闇を作り出した相手。

 今までも、これからも戦い続けなければならない、緋華を脅かす敵。

 思考と一緒に呼吸が乱れた。

 喘ぎながら緋華は立ち上がり、知らず腰の太刀を抜いていた。重い鉄の刃を両手で構える。


 今なら殺せる。仇を討てる。何もかもを終わらせることが出来る。この手で。

 なのに、動けない。駆け出したいのに、足が縫いとめられたように動かない。前へ進もうとするのに、太刀を構えたまま、身動きが取れない。

 ――分かっている。

 誰が悪いかなんて、分かってる。本当は、分かっているから、動けない。


 彼の手が血濡れていると言うのならば、緋華の手も変わりはない。それは父も、碧輝も、変わりはない。誰もが願いのために、望みのために、戦い、傷つけ、傷ついてきた。

 仇を討つとか憎いとか、それを言うことなど出来ない。今まで自分が生きるために、この手で、たくさんの人を殺した。それが戦場だ、この時代だ。だけども。


 ――わたしも、彼と同じ。

 戦をする限りは、善政だろうが、悪政だろうが、関係ない。自分たちが、妖を生み出している。

 ここにきて、大事な人を亡くして思い知らされる。抑え込んでいた罪悪感があふれ出しそうになる。

 弱音を吐いてはいけない。何があっても生きなければならない自分が、そのために人を犠牲にするのは、仕方ないのだから。

 でもそのために碧輝をも死なせた。一番憎いのは、自分なのかも知れない。自分が結局、碧輝を死なせた……。


 やはり、はじめに命を投げ打つべきだったのか。

 だけど、生きたかった。守りたかった。一緒にいたかった。そのわがままが、これを招いたのか。


 太刀を握っている手がガタガタと震える。その手を睨みつけ、泣きそうになりながら、懸命に次の行動に出ようとするけれど、動けない。

 動けない。

 叫びそうになった。いっそのこと狂ってしまえないかと思った。けれど、目の前の彼が身じろぎする。

 太刀を握る手から視線を引き剥がし、再び見上げる。

 白い袖が振られる。

 ふわりと揺らいだ風に、そばにいた妖が消えた。むせかえるような澱みの黒煙を、清浄の風が祓った。

 さらに腕が掲げられる。袖が再び、ひらりと揺れる。体にこもった力のすべてを奪い去るような、さやかな風が、吹き抜けていく。


 ――何故。

 何故、彼のような人が。こんなに美しい風を。


 泣きたかった。

 そして緋華の目の前、屍の山に立つ彼が――振り返る。


  瞬間、暴風が吹き荒れた。息が詰まる。

 なぜか、桜紅葉の山が見えた気がした。赤い葉が降り注いでくる。襲うように荒れ狂って吹き付けてくる。

 思わず手をかかげて目をつぶる。風に髪が乱れて、頬にかかった。

 何も分からなくなった。何もかもがこの手からすり抜けていく。


 そして唐突に風がやんだ。

 切りつけるような赤い葉は、穏やかな桜吹雪になる。闇は暖かな月明かりに掃われて、遠く高く星が空に満ちている。

 知らず息をつく緋華の目の前に、あの春の夜の、少年がいた。藍色の朧月夜の元、桜の雨の中、白い衣が輝くようだった。


 少年は、少し照れくさそうに笑った。

「もう少し、生きてみる」

 大きな決意を、ささやかなことのように言った。

「またここで一緒に、桜を見てくれる?」

 ――それは、願い。

 あまりにもささやかな願いだった。


 会いたい、と、身を切るように思った。

 もう一度、約束をしてほしい。生きると。そして緋華にも、生きてと、言ってほしい。


 また会う約束は、生き延びるための、心を保つための、しるべだった。


 だけど春の強い風が、桜の木を揺らす。花を散らし、地面の花びらを舞いあげ、薄紅が何もかもを覆い尽くしていく。

 そして――目が、覚めた。

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