遭遇

 憂うつな気分のまま眠りについて、目が覚めたら日が暮れようとしている時間帯だった。

 外は晴れているのに憂うつな気分は晴れないままだ。朝飯も昼飯も食べていないけれど、なにも食べる気分になれない。いつもの習慣でパソコンを開いて執筆を進めようと思うが、それも全くやる気にならない。新人賞の応募〆切は……まだ大丈夫。

 そういえば濡れた学生服を洗面所で乾かしていたことを思い出した。なにもしないまま一日を終えるのはまずいし、月曜日にはまた着ることになるから状態を確認しておこう。

 洗面所へ向かうと乾燥機が大きな音をたてて仕事をしている最中だった。僕と西島の制服もその中に入っているのかと思ったが、浴室の上部にある金属のポールにかけて干されていた。確か制服は乾燥機にかけてはいけないと聞いたことがあるような。ハンガーにかけられた二種類の制服を見て、ふと違和感を覚える。西島の制服にはあるのに、僕の制服にはなにかが足りない。

 それに気づいた僕はすぐに自分の制服を取ってポケットを確認する。

「ない……。どこいった……」

 念のため内側のポケットも確認してみるが、やはりない。どこかで落としてしまったか。

「騙り部さん。おはようございます。といっても、もう夕方ですが」

 そこに西島が姿を現す。なぜかその手には、おたまが握りしめられている。

「おはよう。どこかで校章バッジを見なかった? 僕の制服についていたやつ」

「校章バッジですか? 私の制服を干すときにいっしょに騙り部さんのも干したのですが、特に見た覚えはありません」

 制服を干してくれたのは西島だったのか。感謝の言葉を述べてすぐに探してくると伝える。玄関で靴を履いていると、彼女がおたまを持ったまま追いかけてきた。

「探すって……どこかへお出かけですか?」

 今は答えている時間も惜しいので早口で答える。

「さつき野駅だよ」

 昨日登校したときに付けていたのは確かだから、落としたとしたら帰り道のどこかだろう。そうなるとさつき野駅周辺が怪しい。駅の事務所に落とし物として届けられていたらありがたい。もしそこになかったらその周辺を探すしかない。どうにか暗くなる前に見つけよう。

「あの、これから雨が降るかもしれません。お気をつけください」

「え、そうなの?」

 確か天気予報ではこの先しばらく晴れの日が続くはずだったが。

「はい。さっき窓を開けた時に雨の匂いがしましたから」

 外へ出て空を見上げる。太陽はまだしっかりと出ているし、雨が降りそうな気配はない。地面を見ると昨日降った雨が水たまりを作っていた。もしかしたらこれが原因じゃないだろうか。

「そういえば、嘘にも匂いがあるそうですね。お義父さんに教えてもらいました」

 西島は昨日の悲しげな表情はどこかへ消えてしまい、少し楽しそうな雰囲気で話す。それでも表情は硬いままである。そして目元が赤くなっているところを見ると、雨の中で泣いていたのは嘘ではなかったのだとわかる。

「西島さん。また親父に騙されているよ。嘘に匂いはないよ」

 僕がそう教えてあげると首をかしげながら言葉を返してくる。

「そうなのですか。でも雨やお日様に匂いがあるように、嘘にも匂いがあったらいいですね」

 そんなことを言われると思っていなかったので少し驚く。

「ところで、さっきからずっと手に持っているそれは?」

 ずっと気になっていた西島が持つおたま。どうしても出かける前に聞いておきたかった。

「今、お義母さんにおみそ汁の作り方を教えていただいているのです」

 母は料理が上手い。父親の話によれば名家のお嬢様だったはずだが、とてもそうは思えないほどおいしい料理を作ってくれる。西島がこの家にやってきた時の歓迎会の料理もほとんどが母のお手製だ。しかし得意料理はいくつもあるはずなのに、どうしてみそ汁なのだろう。

「お義母さんの夢だったそうです」

「夢?」

「はい。娘ができたら自分のおみそ汁の味を教えて、もしその子が結婚してまた娘ができたら今度はその子がおみそ汁の味を教えて、おみそ汁の味を継いでいってほしいと言っていました」

 意外だった。西島の言葉に嘘の臭いがしないので事実だというのはわかっている。けれど、母が今までにそんなことを話したことは一度もなかったから。

「しかし、その夢は私のところで止めてしまうことになります。申し訳ないです……」

 西島は自嘲気味にそう言った。僕はなんと答えたらいいか迷った。

 そのうち台所の方から母の声が聞こえてくる。おたまを持ったままいなくなった義理の娘を心配したのだろう。

「あ、すみません。私、戻ります」

「うん……。みそ汁作り、がんばって」

「はい。騙り部さんも早く戻ってきてくださいね。やっぱり雨の匂いがしますから」

 それだけ告げて小走りで行ってしまう。彼女の背中が見えなくなってから家を出た。


 自宅から秋葉駅まで歩いて十分程度、さつき野駅なら歩いて二十分といったところだ。最初はゆっくり歩いて行こうかと思ったが、西島に早く帰ってくるように言われていたので走って向かい、なんとか息切れすることなく目的地までたどり着いた。

 さつき野駅の窓口を訪れる。すぐに秋功学園の校章バッジが落ちていないかと駅員さんに確認するが、残念ながら首を横に振られてしまう。もし遺失物(いしつぶつ)として届いたら教えてほしいと連絡先を紙に書いてその場を後にする。

「どこだー。どこだよ。あれがないと困るんだ。勘弁してくれよ。頼む、見つかってくれー」

 人気ひとけのない住宅街の地面を見つめながらゆっくり歩いていく。時折、思っていることを口に出す。言葉に出したらどこかで校章バッジが返事してくれないかと一瞬期待したが、そんなことはあり得ない。急に恥ずかしくなってからは黙って探す。

 地面を見つめて歩き続けていたらだんだん首が痛くなってきた。軽く筋肉をほぐそうと頭を上げると、ちょうど空が視界に入ってきた。

 そして絶句する。先ほどまでそこにあったはずの太陽は鉛色なまりいろの雲に隠されてしまい、今にも雨が降りそうな空に変わっている。同時に、雨の匂いが漂ってきて西島の顔が思い浮かんだ。つい数分前まで話していたはずなのに、なぜか無性に彼女に会いたくなった。

 恥ずかしい。なにを考えているのだろう。昨日は色々なことがありすぎて頭が混乱しているのかもしれない。彼女のことは大事だが、今はそれよりも校章バッジだ。

 僕と西島が通っている秋功学園は校則が厳しいことで有名だ。制服の着方から校内での行動まで厳しく制限されている。男子生徒は黒の詰襟を着る。女子生徒は黒のセーラー服を着る。毎朝校門前に教師が二人ほど立ち、登校する生徒たちの衣服が乱れていないか確認する。その際、秋功学園の校章である紅葉を模した鮮やかな朱色のバッジの着用が厳守されている。そのため校章バッジをつけていないことがわかると反省文を書かされるのだ。

 それにしても秋葉一族はどれだけ紅葉が好きなのだろうか。秋功学園は昔から秋葉市を治めてきた秋葉家が創立した学園である。校内にもみじの木ばかり植えられているのも、校章がもみじを模しているのもそのためだ。別に悪いとは思っていない。僕ももみじは好きだし、古津家が以前住んでいた秋葉山は紅葉の名所である。

 しかし、それだけ秋葉一族に力があるというのなら、その一族に仕えていた騙り部一門、古津家にもその恩恵が少しでもあったらいいのに。秋葉山のどこかに秋葉一族の埋蔵金があったり隠し通路があったりしないだろうか。まあ、あるわけないか。それに、もし本当にあったとしても僕には得る権利も使う権利もない。秋葉市のものは全て、秋葉一族のものだから。

 地面ばかり見て歩いていると、ついどうでもいいことを考えてしまう。校章バッジを探そう。鮮やか朱色だから目立つはずだ。きっと地味な色のアスファルトの道路に咲く花のようだろう。いつの間にか空がさらに暗くなり、地面が黒くにじんでいく。とうとう雨が降り始めたのだ。

 まさかこんなに早くこんなに強い雨が降るとは思っていなかった。公園の遊具の下に入って止むのを待とうかと思ったが、雨の勢いはどんどん増していく。西島の言うことをちゃんと聞いておくべきだった。今は嫌というほど雨の匂いがする。

 しばらく公園の入口でぼんやり立っていたが、大粒の雨がどんどん僕の体に降り注いでいく。髪や肌が濡れ、衣服にも靴にも水がしみこんでいく。じめっとして気持ちが悪くなってきた。まるで僕だけに雨を降らせているような錯覚に陥るが、それは勘違いである。雨はいつだって平等に全てを濡らすのだから。自然の恵みや脅威の前では人間も化物も同じ立場にある。

 しかし悪意や厚意は別だ。ただ生きているだけなのに悪意を集めてしまう人もいれば、ただ生きているだけなのに厚意を集める人もいる。どちらもただ生きているだけなのに、両者にどんな違いがあるというのだろう。容姿、性格、血筋、家柄、学歴、人種、他にもいろいろ考えられるが、これという答えは見つからない。見つけられるわけがない。答えなんてないのだ。悪意も厚意もその人の気分次第で変わるのだから。昨日までこちらに厚意を抱いてくれた人でも、翌日には悪意を抱いて向かってくる可能性だってある。

 ダメだ。雨に濡れて思考が冴えるかと思ったけれど、全くそんなことはなかった。

 やめよう。今は西島のことを考えるのを一切やめて、校章バッジ探しに集中しよう。

 しかし誰もいない。いくら閑静な住宅街とはいえ、雨が降っているとはいえ、休日なら少しは人が通ってもいいと思うのだが。みんな家の中にこもっているのだろうか。0番街を訪れたときに感じたような嘘の臭いは感じられない。だからこれは自然なことなのだろうが、少し寒気がした。それは、雨に濡れているからという理由以外にもある気がした。

 ふと地面から目を離してさつき野駅方面に目を向ける。雨の向こう側から誰かが歩いてくるのが見えた。黒色の大きめの傘をさした女性がゆったりとした歩調で歩いてくる。とても背が高いので一瞬男性かと思ったが、丈の長いロングスカートを履いているので女性だろう。 

 もしかして、さつき野めい子さん……?

 ふとその名前が頭によぎった。だが違うだろう。さすがに身長2メートルはない。

 このままこちらに進んでくると彼女と会うことになる。そうなると、大雨の中で傘もささずに立っている僕を不思議に思うだろう。頭を下げて地面を見つめてやり過ごすことにした。

 雨音の中に人の歩く足音がわずかに聞こえてくる。一歩また一歩と近づいてくるのがわかる。早く抜けていってほしい。すでにずぶ濡れになっているとはいえ、この姿勢のまま雨に降られ続けるのもつらい。

 そのうち鼻から雨以外の匂いが入ってくる。水に濡れた草木の匂い、錆びた鉄の匂い、そして女性の匂い。いや、香水や化粧品の匂いだ。

 突然、僕の体に振り続けていた雨が急に止んだ。いや、違う。正しくは、頭上に傘をさしてくれている人がいた。いつの間にかロングスカートの女性が隣に立っている。その人は、西島と同じくらい長い髪の持ち主だ。

「あなた大丈夫? 風邪をひくわよ?」

 けれど、それもまた間違いであることに気づく。女性とは思えないほど低く太い声が聞こえてきた。男性のようだと思った。いや、この人は……。

 顔を上げて見ると、長い黒髪にしっかりと化粧をした男性が目の前にいる。僕は今、この人と寄り添うように相合傘をしている。化粧品の匂いとさわやかな香水の匂いが鼻に入ってくる。いつも感じている嘘の臭いとは全く別物だが、それとはまた違う感覚におちいる。 

「あ、あの、えと……」

 驚きのあまり、口を開いてなんと言おうとしたのか忘れてしまう。

「ねぇ、あなた。もしかして……ちょっと! どうしたの!」

 そう言われて気づいた。知らぬ間に一歩、また一歩と後ろへ下がっている。傘に入れられていた体は外へ出てしまい、そこに大粒の雨が降り注いでいく。

「ちょっと待ってよ。なんで……どうして逃げるのよ!」

 男性がこちらに手を伸ばしてくる。大きくてごつごつとした男の手だ。

「ひぃっ!」

 思わず悲鳴をあげてさらに後退する。そしてすぐに体を反転させて走り出す。

 その時頭には、逃げるが勝ち、という言葉が思い浮かんでいた。別にあの人と闘いたいわけでも勝ちたいわけでもないのだが、いつの間にか大雨の中を全速力で走っていた。僕は長距離走よりも短距離走の方が得意である。路面も天気も最悪だが、自己最高のタイムで走らなければ捕まってしまう。

 あの人が何者なのか。どうして僕に声をかけたのか。まさか、本当にさつき野めい子さんなのか。いやいや、あの人の身長は2メートルもない。だが噂が伝わっていくうちに尾ひれがついて、勝手に手足までつけられて、いつしか誰も見たことのない化物になっているなんてこともあり得る。真相を確かめるには本人に聞くのが一番だろう。だが、怖くて逃げてしまったからそれはできない。

 今からあの人のところに戻って尋ねるのは失礼だし、さつき野めい子さんかどうか聞くこと自体が失礼にあたる。というよりも無礼だ。

 けれど、あの人が人間か化物かは聞かなくてもわかる。あの人はまぎれもなく人間だ。

「ちょっと! あなた!」

 雨の音の中に野太い男の声が混じっていた。

「待ちなさいよ!」

 心臓が止まるかと思った。走りながら振り返ってみると黒い傘をさした大柄の男性が走って追いかけてくる。というよりも、すでに追いつきそうなほど近づいている。雨の勢いも彼の勢いも増していくばかりだ。

 慌てて前に向き直って足を思い切り動かす。相手はロングスカートなのに、傘をさしているのに、どうしてあれほど速く走ることができるのだ。しかし、そんなことを考えるよりも無心で走らなければ追いつかれてしまう。

 同じ秋葉市内とはいえ、さつき野駅周辺の地理には疎い。さらに住宅街は大小様々な家が建ち並び、道も入り組んでいてわかりにくい。今は真っすぐ進んだり角を曲がったりとジグザグに走っているが、そのうち行き止まりにぶつかってしまってもおかしくない。

 そしてそれは思っていたよりもすぐにやってきた。いくら走ってもその先には行けない。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 僕が歩みを止めても雨は止まない。さらに雨のせいで呼吸がしづらい。

「はぁ……やっと……はぁ……追いついた」

 少し遅れて男性が追いついてきた。あちらも全速力で走ってきたから肩で息をしている。ロングスカートには雨で濡れた染みがついている。途中から傘を畳んで走っていたからその染みは大きい。そのせいで顔の化粧も崩れかかっている。

「なんで逃げるのよ!」

 僕の頭のはるか上から野太い声で言われたので思わずひるんだ。

「す、すみません……」

 すぐに謝った。けれど、自分でもなにに対して謝ったのかわからない。

 逃げたことに対してか。それとも、男だとわかって驚いたことに対してか。

「どうして逃げたのよ!」

 丁寧に頭を下げて謝ったつもりだが、相手はまだ気に入らない様子だ。もう一度謝ろうか。いや、それではダメだ。この人が何に対して怒っているのかわからないのに、ただ謝ってもさらに相手を怒らせるだけだろう。

「あの、急に声をかけられて……怖くて逃げてしまいました……。すみませんでした……」

 相手が怒っている理由は見つからない。それなら、先にこちらの謝る理由を伝えてみよう。その反応を見て、彼がなにに対して怒っているのか探ってみる。

「ねぇ、あなた……」

 ロングスカートを履いた男が尋ねてくる。今はもう黒い傘をさし直しているけれど、顔についた雨粒が化粧をなおも崩していく。それのせいで少しずつ本来の顔が見えてくる。彫りの深い顔の溝に水滴が流れていく。眉は細く整えられ、厚い唇には真っ赤な口紅が彩る。どこかでぶつけたのか、頬や目尻には切り傷や擦り傷が見られる。首のあたりにも青紫色の痣(あざ)のようなものがあってなんとも痛々しい。

 遠目なら男性か女性かわからないかもしれないが、これだけ近くで見れば嫌でも男だとわかってしまう。ロングスカートに合わせるように上半身には暗い色のカーディガンを羽織っていてもがっちりとした肩幅と筋肉のついた太い二の腕は隠せていない。

「な、なんでしょうか」

 いつまで待ってもその後の言葉が来ないのでこちらから尋ねる。

 すると、ややあってから相手も口を開いた。




「私……綺麗?」





 化粧が崩れかかった不気味な顔で問いかけてきた。

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