感想戦②

「局面が詰んでいると二人とも気付いていた。にも拘らず、指し手のバルトシュさんは投了しようとしたんだと思う。高槻さんはバルトシュさんの投了を阻止するために、先に自ら投了を宣言した」


 ハンナさんとの対局でペットボトルの残りを飲み干したように、投了直前の仕草には各自の癖が出る。ずっと将棋を指していた二人なら、その兆候を読み取ることは容易だったはず。


「それって変じゃない。自分ならまだしも、相手が詰みに気付いているかどうかなんて確実には分からないんだから。ここで王将を逃がす手だって十分にありえる」


 黒木さんの反論はもっともだ。僕もこの結論が論理の及ばない位置にあると認識している。けれど、それ以外の答えは見いだせなかった。


 それはちょうど、盤上に駒が並べられてから、駒箱に残っている駒を当てるようなものだ。全ての駒が使われて、それでも駒箱を振って音が鳴るなら、中に在るのは余り駒の歩が一枚。駒箱を開ける前に、それが分かる。そう考えるしかない。


 相手が詰みに気付いているかどうかが不明なら、高槻さんは投了しない。将棋に対して愚直なまでに誠実なこの人が、勝負を投げるわけがない。勝敗よりも優先すべき事象が発生したのだ。勝敗を無意味してしまうようなこと。相手が勝ちを譲ろうとした場合。それを許せなかった時。


「先に気付いたのはタカだ」


 バルトシュさんが言った。


「お互いに負けられない勝負だった。一気に終盤になって、馬を戻したけどタカの攻めが速くて、私は間に合わないと諦めかけていた。でも、負けるわけにはいかなかった。逃げきれば入玉も見える。もうすでに脳が焼き切れそうだったけど、乾いた雑巾を更に絞るように手を読んでいた最中、ふと顔を上げた。そして、そこで脂汗をかいているタカを見た。絶望した表情で唇が震えて、目が動揺を隠せていなかった」


 指を離した直後に、自玉の詰みを見つける事は多い。いつもそうだ。気付いた時には手遅れで、相手のミスを願うしかない情けなさで死にたくなりながら奥歯を噛みしめる。


「だから、読めた。タカは私よりも強い。私はそれを理解している。そのタカがこんな表情をしているならば、詰みがあると信じられたんだ。眼前の局面が、次の一手か、必至問題か、逃れ将棋なのか、詰将棋なのか。それさえ知っていれば、私でもタカと同じ場所に辿り着ける。時間さえかければね」


 自玉の詰みを見つけて、相手が長考している時間。長考といっても、せいぜい五分か十分だけれど、それは永遠と錯覚するほどの責め苦だ。


「相手の表情から形勢判断を読み取ることだって、勝負術でしょう。詰みを見つけたのだって自分の力じゃないですか。どうして」

「黒木さん。君の言っていることは理解できる。当然の理屈だ。この勝負以外の場でなら、私も躊躇なく指したと思う。でも、この対局にだけは胸を張りたかったんだ。これで勝ってしまったら、私は親友の弱みに付け込んだことになる。本当なら、タカが私に負けるわけないんだよ。タカは本調子じゃなかったし、冷静でもなかった。じっくり囲って指し合えば、私になんて角落ちでも勝てるんだ。それを知っていたから、どうしても指す気になれなかった。自分で自分を、認められなくて」

「俺は本気だったよ。お前が強かったんだ」

「あれで勝ったとしても、無意味だ。タカにも、勝利の女神にも合わせる顔がない。だから投了を選ぼうとしたんだ」


 それを高槻さんが先に投了して止めた。勝ちを譲られる事が許せなかった高槻さんと同様に、バルトシュさんもまた、勝ちを譲られた事に怒った。それぐらい、行われた勝負は真剣だった。仲違いに至った理由は、そこにある。


「勝利の女神って、誰ですか」

「立会人だよ。ハンナが撮影した棋譜を書いた人だ」


 バルトシュさんが言葉を濁した。その人物の存在こそが、勝負の理由に直結する。流石に言いにくいようでバルトシュさんが僕をちらりと見た。高槻さんに至っては掌で顔を隠している。


 棋譜ファイルが隠された時点で絞り込みは容易だった。高槻さんにしては珍しい悪手というか、切羽詰まっていたというか。余程バレたくなかったのだろう。確実に棋譜が残っていて、3月20日に在学中の将棋部と関わりのある生徒は二人しかいない。もう卒業してしまった将棋部の生徒。内、勝利の女神と呼べる女性は一人。


「飛山都乃香さんですよね。卒業を翌日に控えた、当時の三年生」


 部活紹介の写真で左隅に映っていた。髪をサイドテールに結び、香車を掌の上に乗せた女子生徒。高槻さんとバルトシュさんの一つ上の先輩。彼女が棋譜を残した立会人だ。


「飛山先輩がその場にいたなんて、どうして分かるんだよ」


 熊田さんが驚いた顔で訊いてくる。


「棋譜の備考欄に、御前試合とありましたよね。将軍や大名の前で行われる試合というのはそのままの意味です。ただ呼び方が間違っていた。あれは殿様です。名前が都乃香だから」


 飛山先輩は、その勝負の意味を理解していたのかもしれない。二年生の誰も筆跡から彼女を連想しなかったように、意識的に無機質な字を書いている。自分の名前も欄には残さなかった。駄洒落めいた備考だけを残して。


「えっ、えっ、ちょっと待って、飛山先輩を卒業式の前日に呼び出して、私たちを排除した上で目の前で将棋を指したってことは――」


 宝さんが両手で口元を隠した。みなまで言わずとも、予想はつく。男子が裏庭や屋上に女子を呼び出したとしたら、それを決闘の申込みと受け取る人はいない。この場合も、一般的な推測が正解だろう。


「勝った方が、飛山先輩に告白するつもりだった」

「声に出すな。恥ずいから」


 二人とも俯いて、顔を隠している。その姿勢は難解な終盤に悩む棋士に似ていた。


「後輩に隠れて指したのも、普通の対局より熱が入っていたのも、そこで矜持が重視された理由も、それで説明できます。相振りになって、どちらも『飛』車にフられるよりは、相居飛車の方が縁起もいい」

「だからそれはバルが邪推だっつったろ」

「私は、そう言ったね。タカがどうだったかは知らないけど」


 バルトシュさんが肩を竦める。


「それでそれで、告白はどうなったんですか」

「流れたよ。俺は投了したし、バルはそれを認めなかった。その場は思い出対局っつーことで恙なく終わって、それきりだ」


 そして棋譜だけが残された。対局に勝利したバルトシュさんが、飛山先輩から受け取ったのだろう。翌日の卒業式は現在の二年生たちと一緒に、先輩を見送っている。

 親友同士が抱いてきた恋心に決着をつけるための一局は不完全燃焼に終わり、後悔と不満が二人の間に燻ぶり続けた。二年生たちが心配して仲裁しようとしても、仲直りして将棋部に戻れば、必ず喧嘩した理由を聞かれる。頃合いを見て、適当な理由をでっちあげる相談をするつもりだったのかもしれない。


「あ、もしかして高槻さんがコンタクト止めたのって」


 恐山さんが言いかけて、熊田さんが続きを引き取った。


「裸眼の方が格好良いと思ってたんすか」

「顔だけならバルさんの圧勝なのにねぇ」


 宝さんが追撃した。黒木さんが静かに同意する。そうかなぁ、とハンナさんは否定的だ。


「視力が落ちたからって説明しただろ。何だその顔は。おい、止めろ、だからお前らに言いたくなかったんだ」


 居たたまれなくなった様子で椅子から立ち上がり、高槻さんは足元に置かれていた鞄のチャックを開いた。中から青いファイルの塊を取り出して、部室の隅にある棚に空いていたスペースへ押し込むようにして戻す。行方不明だった棋譜ファイルだ。


「おいバル、お前、オープンキャンパスの予定表もう提出したか」

「いや、まだだ。出しそびれている」

「なら、出しに行くぞ。とりまとめが鬼頭に変わったんだよ。マスコミ対応とかで、まだ職員室にいるだろ」

「そうだね。いい加減に提出しないと、怒られそうだ」

「こんなもん各自で勝手に行きゃいいのにな」

「過去にトラブルでもあったんじゃないか」


 二人が喋るその姿は、まるで今日まで何事もなかったかのような自然さだった。飛山先輩の進学先は早稲田大学。オープンキャンパスの行き先を高槻さんが提出せずにいたのも、バルトシュさんが出しそびれていたのも、きっと同じ理由だろう。お互いに抜け駆けはなし。そういう協定を結んでいたのかもしれない。


「おい矢吹。あとお前らも」


 部室の扉を開け、外へ足を半歩踏み出したまま高槻さんがこちらを向く。バルトシュさんもその隣で僕らを見た。


「世話かけたな」

「ありがとう」


 二人とも涼やかな声だった。わだかまりを吹き消すような爽やかさがあった。


「あの、高槻さん、バルトシュさん」


 職員室へ去ろうとする二人を引き留める。歩き始めていた二人が戻ってきて、壁に手をかけながら上半身を見せた。


「なんだよ」「どうした」

「オープンキャンパスで飛山先輩に出会ったとして」


 一度、僕も言ってみたかったのだ。今なら許されるだろう。


「もしフラれたら、どんな風にフラれたのかだけ後で教えてください」

「うるせえよ」「余計なお世話だ」


 鼻で笑って二人は姿を消した。

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