△6四 電話

 やがて、弱々しい駒音の後、部室の中で椅子が床に擦れる音がした。終わったのだ。今、将棋部の部室の中で、高槻さんと黒木さんの勝敗がいずれも不確定の状態で重なり合っている。扉を開けて観測するまで、その結果は確定しない。


 扉がゆっくりと開かれる。僕たちが中を覗き込むと、そこには高槻さんがいた。部室の奥で、黒木さんが背を向けて駒を片付けている。


「なんだお前ら、待ってたのか」

「あの、勝敗は」

「俺が勝ったよ。矢吹も、今から俺とやるか?」


 高槻さんが訊く。その瞳に興奮の色はなく、何事もなかったかのように穏やかな表情だった。冷や汗も、焦りも見えない。


「いいえ、僕はまだ」

「そうか」


 まだ。まだ。まだ。それは、いつだ? 名人になってから挑む気か?

 僕の中にある無数の僕の意思が、自分に罵声を浴びせてくる。先延ばしにしていたら、三年生は引退してしまう。好手は待っていてもやってこない。自分の手で、作り出すもの。


「近いうちに挑みます」


 気付けば言葉が先に出ていた。


「おう、せいぜい磨いとけ」


 傘忘れたんだよなぁ、とぼやきながら高槻さんは僕の前を通り過ぎていった。


「俺、高槻さん。矢吹は黒木の担当な」

「分かりました」


 唐突に分担が決まった。熊田さんは高槻さんを追いかけて行ってしまう。僕は部室に入り、駒を片付け終わった黒木さんの背中越しに声をかけようとして言葉に詰まった。残念だったね、どうだった、なんて慰めを欲しているとは思えない。根本的に、敗者に掛けるべき言葉は存在しない。


「憎い」ぽつりと黒木さんが呟く。

「……中飛車左穴熊が、憎い」

「相振りになったんだね」

「矢吹君は振らないから分からないかもしれないけど、石田流に構えて高槻さんが穴熊に潜る寸前で斬り合って、私が有利だったの。その瞬間は、勝てると思った。上手く誘導できたから。経験はあったし、変化も覚えていたのに」


 将棋には、気が付いたら負けていたなんてことが往々にしてある。一手一手頭を振り絞って、相手と同じ駒を使って互いを削り合っているのに、いつの間にか差がついている。終盤の大逆転もあるが、それ以上に序盤からマラソンのように地道な手の積み重ねが絶望的な差を作り出して勝敗が決まる事の方が多い。


 黒木さんが悪いわけではない。研究も加えて、恐らくは中盤まで完全に近い手を指し続けた黒木さんを、高槻さんの棋力が上回っただけのこと。それだけのことなのだ。それだけのことだからこそ、僕には何も言えなかった。


「ごめんなさい矢吹君、大見栄きったくせに、このざまよ」

「そんなことは」

「いいの、安い同情はいらない。指をさして嗤ってちょうだい」


 黒木さんが立ち上がって僕の方に向き直る。


「いやいや」

「いいから」


 真面目な顔で催促する黒木さんを前に、僕はぎこちない笑みを作った。人差し指を曲げ、黒木さんを見下ろす。欺瞞に溢れた慰めよりも、人工的な屈辱が癒しになることだってあるのかもしれない。


「ははは――ッ痛ぁっ!」


 脛を蹴られた。


「何が可笑しいの」

「理不尽過ぎない?」


 僕を何だと思っているんだ。八つ当たりにも程がある。

 脛を抱えながら遺憾の意を込めて黒木さんを見上げる。僕はその瞬間に息をのんだ。彼女の目に大粒の涙が浮かんでいる。見てはいけないものを見てしまった気がして、僕は痛みに耐えるふりをして再び俯いた。本当の痛みに耐えている人の前で、偽りの痛みを演じ続ける。


 いつも無表情な彼女が感情を露わにするところを初めて見た。僕も黒木さんも、しばらく黙ったままだった。少なくとも僕は彼女が落ち着くまで、顔を上げられない。お姫様に忠誠を誓う棋士のように跪いたまま、自分に託された使命を考える。


「ありがとう。もういいよ」


 黒木さんに言われて顔を上げた。なるべく彼女の顔を見ないように、棋書や公式戦の棋譜が入った棚の方に歩み寄る。


「昨日メールしたけど、あの棋譜を書いた人を探すのは自分でも良い作戦だと思うんだ」

「でも、筆跡しか手掛かりはないでしょう。将棋部に名前付きで棋譜を残しているとも限らないし、その場限りの人かもしれないじゃない」

「それでも、やらないよりマシさ。それに棋譜を書ける時点でまるっきり素人じゃない。他の部活の人が遊びに来ていたのだとしても、他の棋譜も残した可能性がある」

「うん、そうかも。見つけられたら儲けもの」


 黒木さんが目を袖で擦り、本棚のところに来た。少し回復したようだ。なるべく会話を続けた方が意識が紛れるかもしれない。


「ハンナちゃんに連絡するの、気が重いな」

「僕からしようか?」

「いい。自分でする」

「今日は委員会があるんだっけ」

「そう。文化祭実行委員」

「まだ一学期なのに」

「班決めとかあるんだって」


 ハンナさんからは参加できそうにないと事前に連絡をもらっている。不在だったのは、かえって良かったかもしれない。


 将棋部における過去の公式戦やイベントでの棋譜は、ファイルされて棋書の下にまとめられている。はずだった。おかしい。いくら探しても見慣れた薄緑のファイルが見つからない。


「変だな、そっちにない?」

「ううん。どこにも。あんなもの誰も触らないはずだけど」


 棋書やルールブック、部活案内は見慣れた配置だ。賞状も盾もズレた形跡はない。それなのに、過去の棋譜が収められたファイルだけが消えていた。ファイルがあるべき場所には、仕事のないブックスタンドが寂しそうに立っている。


「誰かが隠したのかも」

「やっぱり、特定できる情報があったんだ。もう少し早く気付いていれば……」


 過去の公式戦の棋譜ファイルについて、僕は存在として知っているだけで中身を真剣に見たことがない。4月に二度行われた公式戦では、新しいファイルに自分で書いた棋譜を挟みはしたが捲りはしなかった。それが今になって悔やまれる。


 結局、この後でもう一度部室内を捜索したが、棋譜ファイルは発見されなかった。もはや気分一新して将棋部の活動を始めましょうという気にもならない。あった事といえば、宝さんがやってきて結果を聞き、頑張ったねと言って黒木さんの頭を撫でたぐらいだ。一応、棋譜ファイルの行方を訊いてみたが、宝さんも知らなかった。やはり、情報隠滅のために持ち去られた可能性が高い。


 気付けば時間が経っていて、世界は完全な灰色に染まっていた。雨音はまだ鳴りやまない。将棋部の部室の中だけが、白い蛍光灯の人工的な光に照らされている。今日はもう帰ろうかという雰囲気になったその時、スマホの着信音が鳴った。思わず自分のものを取り出したが、僕ではない。黒木さんのスマホだ。


「ハンナちゃんからだ」


 一瞬のうちに覚悟を決めたらしく、黒木さんは通話ボタンをタップした。


「もしもし、ハンナちゃん。あのね、高槻さんとの勝負の件なんだけど……あれ、もしもし、ハンナちゃん、聞こえる?」

「どうしたの」

「分からない。車が走っている音がする。もしも-し」


 黒木さんは声をかけ続けた。向こうから電話が来たのに、応答がないのは妙だ。


「もしもし、あっ……切られた」

「繋がらなかったの?」

「ううん、音は拾えていた。電話の向こうに誰かいたみたい。スマホを手に取る音がして、チッって舌打ちが聞こえたと思ったら、通話が終わったの」


 黒木さんが深刻な表情でスマホを見つめる。通話時間が表示された画面が示すものは、今まで繋がっていた不可解な通話の証拠だ。


「凄く、嫌な感じがする。何だろう、これ」

「とりあえず掛け直してみたら?」

「そっか。そうだね」


 黒木さんがタップしてコールをかける。今更になって気付いたが、電話ではなくアプリ通話のようだ。


「……繋がらない。ね、変だよこれ。ハンナちゃんのスマホから掛かってきたのに、どうして車の音がして、誰も出なかったの。いきなり切られちゃうし」

「舌打ちした人が、ハンナさんの可能性は?」

「違うと思う。そういうことをする子じゃない。それに苛立って、焦った感じだったの。あれは別人」


 黒木さんが不安そうな目で僕を見た。明らかに動揺している。ただでさえ不安定だったところに、謎の電話がかかってきたのだ。僕は思考を巡らせて、この状況を説明できるストーリーを必死で探した。


「ハンナさんが落としたスマホを、誰かが盗んで持っていったのかもしれない。その人が誤って操作して通話してしまった可能性だってある。まずハンナさんを探そう。まだ校内にいるかも」


 口にしながら、僕はその可能性が希望的観測でしかないことを理解していた。考えたくはないのに、どうしても思考は一つの可能性に行き着いてしまう。あえて言葉にしなかっただけで、黒木さんも最初にそれを疑ったはずだ。


 二条ハンナは誘拐されたのではないか。

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