△5二 挑戦

「そういえば最近セットで見ないな、一年の頃から一緒だったが」

「文系と理系で選択授業が別れましたから。それでですよ」


 そう言って高槻さんはコーラに口を付けた。この場から離れたがっているようだったが、この機会を逃すわけにはいかない。


「一年生の頃からなんて、相当の仲良しですね」

「ああ、高槻が将棋部に入ってから一層仲良くなったんじゃないか。高槻が入学したての頃は、もっとやさぐれてたから」

「え、高槻さんがですか?」

「そうだぞ。部活に入らずに他校の生徒と喧嘩したりして、まぁいわゆる不良だな。結構問題児だったんだ、こいつは。まぁ今でも問題児だが」

「若気の至りです」

「まだ若いだろ」


 攻守交替といった様子で、纐纈先生が笑った。

 それにしても不良とは。高槻さんが? 部活に入らずに?


「最初から将棋部だと思ってました」

「私も」

 僕たち二人の素直な感想を前に、高槻さんが口ごもる。

「まぁ俺にも色々あったんだ」


 ふと宝さんから聞いた話を思い出す。高槻部長は奨励会に在籍していた事があり、早い段階で諦めたらしいと言っていた。辞めてしまった具体的な時期は不明だが、断念するタイミングとして中学から高校に上がるのは一つの区切りとしてありえるのではないか。もしかしたら、荒れていた理由もそこにあったのかもしれない。


「すみません、お待たせしました」


 ハンナさんが返ってきた。水で濡らしてハンカチで拭いたらしく、みぞおちの辺りをポンポンと軽く叩いている。


「おー、大丈夫だったか。服に染みが付いたら大変だからな。いやー良かった良かった」

「え? あ、そうですね。良かったです」


 大袈裟に両手を広げて出迎える高槻さんに、ハンナさんが戸惑いを見せる。後で説明しておこう。


「さ、あんまり長居しても先生に失礼だろ。将棋仙人も引退しちまってるし、公園に戻るぞ。纐纈先生どうもありがとうございました!」


 僕たちの返事を待たずに高槻さんが決めた。さっさと敷地を出て、僕たちに向き直る。分かりやすい逃げ方だ。


「あいつ、バルトシュと何かあったのか」


 纐纈先生がそっと僕の方に近寄り、小さな声で訊いた。


「喧嘩しているらしいんです。僕らは今それを探っている最中でして。先生、何かご存じないですか?」

「いや、すまないが初めて知ったよ。部内の話なら内村先生はどうだ」

「多分ご存じないと思います」


 内村先生は将棋部顧問の古文教師だ。滅多に姿を現さないので影が薄い。高槻さんやバルトシュ先輩に近しい人物には、二年生の先輩たちが一通りの聞き込みを行っているだろうから、新情報を得られる公算は低いだろう。


「何してる、早く行くぞ」

「あ、はい」


 部長の手招きに応じ、僕は纐纈先生に一礼して敷地を出た。


「先生、さっき洗濯機の下に――」


 振り返るとハンナさんが纐纈先生に何か耳打ちしていた。何だろうと気になったが、あとは黒木さんに任せて、僕は高槻さんを追った。


 ずんずんと来た道を引き返す高槻さんの背中から、不機嫌が揮発している。少し迷ったが、あえて気遣いは無視し、率直に意見をぶつけてみる。


「高槻さん、どうしてバルトシュさんと喧嘩したんですか」

 僕の言葉に高槻さんが振り返る。黒木さんとハンナさんは先生の家から出たばかりで、まだ少し距離がある。僕と高槻さんの目が合い、しばらくの沈黙があった。


「知りたければ俺と一局指せ。勝ったら教えてやる。負けたら二度と詮索するな」


 二年生の先輩たちが出されたのと同じ条件が、僕の前に提示された。

 指すとなれば本気を出すだろう。プロを諦めたとはいえ、元奨励会員。純粋な棋力では比較にすらならない。


「では質問を変えます。バルトシュさんは、どうして部長に勝てたんですか?」


 それはあの棋譜を見、熊田先輩から話を聞いてから浮かんだ疑問だった。バルトシュ先輩の棋力は、熊田先輩曰く、僕たちと同程度だという。それならば、高槻さんが勝つ方が自然だ。勿論、段位や級が違ったら低位の者が高段者相手に絶対に勝てないわけではない。トッププロと呼ばれるA級棋士でさえ、年間勝率は7割あれば上々である。バルトシュさんが高槻さんに勝ったところで、それが特筆すべき異常というわけではない。


 しかし、あの棋譜は部内のカレンダーで休みと定められた日を選んで秘密裏に指された将棋だ。状況からして、遊びで指されたものではないのは明白。勝敗の結果に意味がある対局で、高槻さんが油断するとは思えない。まして、親友との大喧嘩するに至るような、何かしらの事情が存在するのだ。本気で対局に臨んでいたと考えられる。


「矢吹、お前どうしてそれを」

「棋譜を見せてもらいました。家でバルトシュさんが眺めているのを、ハンナさんが撮影したそうです」

「あいつ、まだそんなもん持ってたのか」


 未練がましい奴だ、と高槻さんは呟いた。その言葉からは毒も怒りも侮蔑も見いだせない。むしろ、親友に向けたからかいと皮肉が混ざったものに思えた。


「棋譜はそこに残されたものが全てだ。あいつはあの時、俺より上手く指した。それだけだ」


 高槻さんはそう言うと、再び公園へと歩き始めた。もうこれ以上の問答は無意味だと背中が語っている。真相を知りたければ勝ってみせろ、ということか。


 今の僕に勝算はない。けれど、勝ち目がないから戦わないなんて腑抜けている。対局中はいつだって最善手だと信じて指しているのだ。後から検討して、それが結果的に最善でなかったとしても、相手と向き合っているその瞬間だけは、指し手はそれを神の一手だと信じている。そんな妄信の積み重ねが一局の将棋になるなら、僕は自分の将棋が勝つ可能性を信じるべきなのかもしれない。


「高槻さん、何か言ってた?」


 気が付くと、後ろに黒木さんがいた。その隣に立つハンナさんを交互に見ながら、僕は感想を述べる。


「高槻さん、もう怒ってはいないんじゃないかな。棋譜を見た話をしたけど、そんな感じだったよ」

「もう感情が風化してしまったという意味ですか?」


 ハンナさんが不安げな声を出した。


「そこまでは分からないけど、激しい感情はなさそうだった」

「でも、バルトシュ先輩は落ち込んで部活に来ていないわけでしょ」

「もしかしたら、兄が何かしてしまったのかも。合わせる顔がない、というか、気まずくて責任を感じていたり」

「他には何か言ってた?」

「いや、そこで打ち切られた。あとは真相を知りたければ対局で勝て、って。先輩たちと同じだね」


 二年生の先輩たちが行き着いて、そして、越えられなかったハードル。先輩たちだって三者三様でそれなりの棋力だ。それでも全敗した。


「私、挑戦してみようかな」


 黒木さんが独り言のように呟いた。


「このままじゃ永久に謎のままだろうし。一回だけなら、非公式戦だけど勝ったことあるの。手加減されていたのかもしれないけど、あの人だって無敵なわけじゃない」


 ハンナちゃんにも早く入部してもらいたいし、と言って黒木さんはハンナさんの腰に手を回す。抱き締められた当人はくすぐったいですよと笑っているが、体格差があるので駄々っ子がお母さんに甘えているように見えなくもない。


「私が負けたら、その時はよろしくね」

「それは次は僕が対局して勝てってこと? それとも真相の追及を一人で頑張れってこと?」

「矢吹君が最善手だと思う方」


 難しい問題を平気で投げてくる。きっと、ソフトで何億ノード解析したってその答えは出てこない。

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