△6二 兄妹
月曜の朝は曇りだった。折り畳み傘が鞄に入れっぱなしなので心配要らないと言ったのだが、激しく降ったらいけないからと長尺の傘を持たされた。傘を杖代わりにして歩き、正門を潜る。他の生徒を見ると、傘の所有率は半分程度だった。
欠伸混じりで下駄箱に向かうと途中、自転車乗り場で偶然黒木さんを見つけた。彼女はシルバーフレームの自転車スタンドを立てたところのようで、振り返って僕を見つけると二回ほどまばたきをして、首を僅かに下げた。下に何か落ちているわけではない。彼女のローファが磨かれているというアピールでもないだろう。極めて簡略化されているが、朝の挨拶だと思われる。目が半分閉じていて、いつにもまして生気が感じられない。
「寝不足?」
「そう。今日、挑戦するから」
昨日のメールの内容は頭に残っている。前置きは必要なかった。
「作戦があるわけだ」
「日曜日の5局は、ただ負けたわけじゃない。傾向と分析のための布石に過ぎなかったの」
おお、燃えている。淡々と応える黒木さんの内側に秘めたる闘志が煮えたぎっているのが分かった。今日の大一番に勝ってしまえば、あの5連敗は贄に過ぎなかったと言い切れる。彼女は勝算のない戦いを挑まないタイプだ。かなり遅くまで研究を続けたのだろう。
「部室を使うから、授業後から一時間は入室禁止ね。あとで将棋部のグループでも連絡しておくけど」
「了解。図書室で待つとするよ」
「そうしてて」
会話はそこで終了した。僕たちの間で、勝利を願ったり祈ったりすることはない。将棋は対局者同士のもので、外から何かが届きはしない。信じられるのは、指している自分と相手だけ。それ以外は全て不純物だ。
* * *
勝敗の行方に僕が口を挟む余地はない。しかし、それはそれとして気にはなる。漫然と弁当の白米を口に運びながら、あと四時間で決着がつく分かれ道の先を想像した。
黒木さんが勝てば、高槻さんは全てを話すだろう。約束を破る人ではない。喧嘩の原因が判明し、将棋部全員でその解決に尽力する。そうなってしまえば、元々が親友の二人だ、意地の張り合いも長くは続くまい。僕は人間同士が皆理解し合うべきだとは思っていないが、誤解やすれ違いは擦り合わせる事ができるし、関係が改善されるに越したことはない。問題が解消されれば、ハンナさんも将棋部に入ってくれるだろう。
高槻さんが勝てば、黒木さんはもう表立って喧嘩の原因を探る事ができなくなる。残された将棋部員は僕一人となり、状況は悪化する。僕は選択を迫られるだろう。僕も高槻さんに挑戦するか、戦わずに見通しのたたない情報収集を続けるか。
「矢吹、お客さんが来てるぞ」
柏木の声で、僕の意識は教室に戻った。弁当は八割減っていて、さっきより時計の針が少し進んでいる。
柏木が教室の前扉に向けて顎をしゃくる。その先に恐山先輩がいた。長い前髪と白い肌から大人し気な印象を受けるが、その一方で制服をだらしなく着こなし、右耳にはピアスが光っている。不良というわけではない。単にそういうファッションの人なのだ。以前、没収されたとボヤいていたが、また付けたらしい。
「どうしたんですか、恐山さん」
一年生の教室をわざわざ訪れるとは余程のことだ。まして出不精の恐山先輩である。僕は前扉まで駆け寄って、すぐに尋ねた。
「宝とクマに言われて、新入部員獲得に奔走中らしいじゃないか。黒木からも、高槻さんに挑むって連絡があったぞ」
「ええ、そうなんです。金曜日に先輩たちからも色々と訊きました。恐山さんはいなかったですけど」
「保健室で寝てたんだ。事前に聞いてれば部室で寝てたんだが」
寝るのは決定事項らしい。
「それで、どうしたんですか」
「用があるのは俺じゃない。俺はただの案内役」
恐山さんが身を引くと、その背後にもう一人男子生徒の制服があった。制服がなければ彫刻と思ったかもしれない。ブロンド髪に青い目が、僕をじっと見つめていた。
「Miło cię poznać, Yabuki=San」
突如降り注いできた音を僕の脳は処理できなかった。外国語だ、ということだけ分かる。発言主は朗らかな笑顔で握手を求めてきて、僕はされるがままに手を握られた。
「えっと、バルトシュ先輩ですよね。ハンナさんのお兄さんの、その、Hanna's brother? Big brother?」
咄嗟に英語が出てこない。ああ、三年間の中学英語の無力さよ。
バルトシュ先輩と思しき人物はニコニコ笑ったまま、僕の手を離そうとはしなかった。僕が助けを求めて恐山さんの方を向くと、突然恐山さんが蹲り、身体を震わせた。
「どうしたんです?」
「悪い、耐えきれなくて」
身体を起こした恐山さんの目に涙が浮かんでいた。その原因が痛みや悲しみでないのは、噛み殺しきれない口元の緩みで分かった。
「もういいでしょ、バルさん」
恐山さんの言葉と同時に、ふっと僕の手を握る力が消える。再び向き直ると、対面の人物は柔和な微笑みを湛えていた。
「初めまして矢吹君、三年の二条バルトシュです。妹が迷惑をかけているみたいで、本当に申し訳ない。昨日ハンナに詰め寄られたんだけど、その時に色々と聞かされてね、一度君に会ってみたくなったんだ」
流暢な、と表現する必要もない程に完璧な発音だった。
僕が苦々しい顔をしているのを察してか、恐山さんが目尻をぬぐいながら僕の肩をポンと叩いた。
「俺も去年やられたんだ。まぁ将棋部の伝統行事だと思ってくれ」
「ハンナに悪い虫がついたらと心配だったんでね、つい悪戯を」
バルトシュさんは肩を竦めた。その仕草さえ映画俳優のようで様になっている。この人は女子にモテるだろうな、と思った。
「んじゃ、俺はこれで」
「え? 帰っちゃうんですか」
恐山さんが立ち去ろうとしたのを、僕は慌てて引き留めた。いきなり引き合わされても、何を喋ったらいいのか分からない。僕は迷子の子供のように、恐山さんの袖を摘まんだ。人を紹介するなら責任もって最後までいてください、という無言の抵抗だった。
「今日、黒木が挑むんだろ。俺はもう負けてるから、話に入れないんだよ」
「ごめんね、恐山」
「バルさんもそう思うなら、さっさと仲直りしてください」
「返す言葉もないよ」
そのやりとりを見て、僕は摘まんでいた袖を離した。恐山さんはこちらを顧みもせずに廊下を歩み去っていく。
「中庭で待ってるから、ご飯を食べ終えたらおいで」
どうやら恐山さんが柏木に声をかける前に、僕の姿を見ていたらしい。バルトシュさんはそれだけ言うと、僕の返事を待たずさっさと行ってしまった。廊下を往来する同級生たちが皆、すれ違いざまにバルトシュさんを横目で見ていくのが分かる。僕は座席に戻り、残りの弁当を急いで胃の中に入れた。
「今の、二条ハンナの兄貴だろ。矢吹なんかやらかしたのか?」
柏木が面白がって訊いてきたが、僕には「さぁ」としか答えられない。
「さぁ、って。何の用事だったんだよ」
「それをこれから話に行く」
「ははん、そういうことか。やっぱりあれかな、俺の妹に手を出しやがって許せん、みたいなさ。決闘かもしれん、手袋を叩きつけられるぞ」
「手を出してない」
「冗談だよ怒るな怒るな」
「怒ってもいない」
揶揄いがいのない奴だ、と思われているのだろうが、こんな短期間に何度も遊ばれては適わない。僕はなるべく無愛想に対応した。もっとも、柏木に対してはいつもそうなので表面上の違いはない。
弁当箱を片付けて、教室を出る。昼休みの終わりまでまだ二十分はあった。食堂や図書室から戻ってくる生徒たちの群れを避けながら中庭に向かう。
昼休みの中庭のベンチは女子の固まりが占領しているイメージを持っていたが、時間が遅いからか一つのグループしかいなかった。一台のスマホを三人で覗き見て、きゃあきゃあと黄色い悲鳴を上げている。バルトシュさんは端にあるベンチに腰掛けて待っていた。僕の姿を見つけると手を振った。
「お待たせしました」
「こちらこそ。急かしたようで悪かった」バルトシュさんが腰を浮かして中心から少しずれて座り直す。「早速だけど、コーラとポカリはどっちが好き?」
手品のように差し出された二本のペットボトルのうち、ポカリを選んでから僕は同じベンチに座った。最近、先輩に飲み物をご馳走になってばかりだ。日曜日は高槻さんではなく、纐纈先生だったけど。
「私たちの問題に君たちを巻き込んでしまって申し訳なく思っているよ。私もタカも三年生だから、どっちみち一学期が終われば引退だ。去り行く者のために時間を使ってほしくない」
「僕はそう思いません。あと二カ月半というなら、高校生活だってたったの三年です。先輩たち程じゃないでしょうけど、僕や黒木さんだってバルトシュさんと一緒に将棋ができたら楽しいですよ。きっと」
「そうかもしれない。いや、その通りだね。良い事を言うなぁ君は」
「どうも」
褒められてしまった。まだバルトシュさんの人となりが正確に掴めないが、優しい常識人という二年生の総意に偽りはないようだ。なるべく率直な意見をぶつけた方が良い気がして、僕は質問することにした。
「あの、どうして僕に会いに来られたんですか?」
「さっき言った通りさ。昨日ハンナに怒られたんだよ。君と、もう一人の女の子と一緒にタカと公園に行ったと言われて、理由を訊いたら私たちの喧嘩の原因を解き明かすためだと言われてね。それで、何というか、悪いなぁと思ったんだ。それだけ」
そう言うとバルトシュさんはコーラを飲んだ。喉が立体的に動き、ぐんぐんペットボトル内の量が減っていく。
「今日、そのもう一人の女の子、黒木さんというんですけど、その子が高槻さんと指すんです。黒木さんが勝ったら、全て話してもらう約束で」
「私はその黒木さんの棋力は知らないけど、高校生のレベルなら、間違いなくタカが勝つよ。あいつは異常に強い」
「でも、絶対ではないはずです。実際、バルトシュさんも勝っていますよね」
僕の言葉に呼応するように、バルトシュさんの目が見開かれた。対局の結果が知られている理由を考えたのだろう。すぐに結論に達したらしく「ハンナか」と短く言った。
「研究もあったけど、それでもあの一局だけは、私に神が降りていたんだ。だから、あの棋譜では確かに私が勝っている」
「神様が降りた?」
「勝利の女神が私に微笑んだということ」
「どういう意味かよく分かりませんが」
「あそこに書いてあることが全てだ。それでも、お互いに納得はいかなかった。だから、こんなバカバカしい諍いが続いてしまって、君たちまで巻き込んでいる。喧嘩の理由なんてね、当事者以外からすれば大体が取るに足らない。戦争から個人間のものまで一緒さ」
それでも当人たちにとっては譲れない線が存在する。言外に含まれた意味は容易に汲み取れた。
「だからまぁ、もしその子が負けて、その後で君が敗れても、そこまで気にする必要はない。うん、そうだ。心配してくれなくても大丈夫だよ、と言いたかったんだ。一応私たちも、歩み寄ってはいるから」
「そうなんですか」
バルトシュさんは視線は中庭の花壇に向けられたまま動かない。
「そう。今、一勝一敗なんだ。次にどちらから指し始めるか、意地を張り合っているだけさ」
「一勝一敗? それはどういう――」
僕の質問を遮るように、予鈴のチャイムが鳴った。
「そろそろ時間だ。矢吹君、会えて嬉しかったよ。ハンナが部活に入るかどうかはあいつが決めることだけど、折角同じ学年だし、仲良くしてやってくれ」
バルトシュさんは立ち上がり、僕の手を取って固い握手をした。訊きそびれた質問を繰り返そうかと思ったが、握られた手の力強さが答えを拒否しているように思えて、僕はそのままベンチに取り残された。
神様が降りてきて、勝てた。歩み寄ってはいて、一勝一敗。
正確な意味は分からないが、ずっとお互いに無視を決め込んでいるわけでないことは分かる。文字面だけを捉えれば、あの対局を一局目として、二局目があったのだ。そして、今度は高槻さんが勝った。第三局があるとするなら、その結果を持って互いのわだかまりが解けるのかもしれない。
次にどちらが指し始めるか、意地を張り合っている、とバルトシュさんは言った。どちらが先に謝るか、という意味だろうか。勝敗の行方ではなく、第三局を申し込むこと自体が、仲直りの申し出に近いのかもしれない。
将棋の一局目と二局目は、先手と後手を入れ替える。三局目があるなら、先後は振り駒で決まる。駒を振る人がいないなら僕たちがやりますよと言いたかったが、それでは駄目なのだろう。事情を知らない者たちが騒ぎ立てても意味はない。
いつの間にか隣のベンチにいた女子たちも消えていた。どこかのクラスは次の授業が体育らしく、通り口からわらわらと体操服姿の生徒たちが出てきた。彼らは皆、一様に空を見る。曇天は厚みを増し今にも雨が降りそうだった。
五時限目は英語だ。僕も急がなくては。
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