▲2一 勧誘

 チャイムが鳴るのと同時に席を立ちたかったが、世界史教諭の興が乗ってしまい、7時限目は5分オーバーした。


 急いで教科書を鞄にしまい教室を出ると、柏木が頑張れよと声をかけてくる。何を頑張るのだろう。頑張った程度で変わる事象なら、端から問題にならないのでは。そう思いはしたが、軽く手を挙げて応えた。そういう些末なサービスの応酬が人間関係というものだ。


 二条ハンナの所属するⅠ組は、黒木さんのH組と共に新校舎の2階にある。竹刀袋を担いで階段を駆け下りる男子生徒を避け踊り場に出ると、黒木さんが立っているのを見つけた。壁を背に預け、両手を後ろに回している。向こうも僕を見つけ、小さく首を傾げて目を細めた。遅い、という無言の抗議と思われる。


「ごめん、世界史が長引いて」


 言い訳に興味はないのか黒木さんはⅠ組の方へ歩き始めた。僕もすぐに後を追う。


「ハンナさんまだ帰ってないけど、ちょっと不味いかも」

「どういうこと?」

「先客がいる」


 黒木さんは短く言った。

 I組の後ろ側の扉から中の様子を伺う。まだ何人か残っていた。前方窓際に女子生徒の固まりが見える。1人の生徒を5人で取り囲んでいるようだ。唄を歌いながら回るああいう遊びがあったな、と懐かしい記憶が蘇る。中心にいる女子生徒は金髪だ。彼女が二条ハンナなのだろう。


「ですから、その気はないんです」


 二条ハンナと思しき女子生徒が言った。落ち着いたトーンだが、意思の強さを感じられるはっきりとした口調だった。


「ねぇ、お願いっ、貴女が入ってくれれば全国制覇……は無理でも、地区予選突破が夢じゃなくなるの!」

「興味があるから仮入部してくれたわけでしょ?」

「一緒に同じ水道の水を飲んだ仲じゃない!」

「二日間だけですけどね」

「黙りなさい、青春は時間じゃなくて濃度なの」


 なるほど、これは確かに先客だ。目的がまる被りしている。今この場で僕たちが勧誘を強行したら、揉める未来しかないだろう。代表と思しき上級生が誘い文句を連発している。他の部員たちは逃がさないように壁の役割を果たしているようだ。一見下手に出ているようで粘性の高い手法である。


「ラケットを持っているから女子テニス部だね」


 自分でも無意味なコメントだなと思った。


「テニス好きで女装趣味の漫画研究会という可能性もあるけど、まぁ多分そう」


 背後の黒木さんから同じぐらい空虚な相槌が返ってきた。機嫌はすでにニュートラルへ戻ったようだ。


「僕たちも駒と盤ぐらい持ってきた方が良かったかな」

「アプリなら入ってるけど、使わないでしょう」

「入部を賭けて6枚落ちで将棋対決とか」

「部長なら言い出しかねない」


 黒木さんが言った。確かに高槻さんならありえる。あの人は地球上で起きている森羅万象あらゆる諸問題を将棋で解決できると信じている節があるのだ。だが、僕はそこまで偏っていない。将棋で解決できる問題なんて、甘く見てもせいぜい8割5分だろう。


「どうする? もう少し待とうか」

「いいえ、これはむしろチャンス。矢吹君、あの中に知っている女子はいる? 同じクラスとか」

「えっと、いない、かな。うん多分いない」

「少し不安な回答ありがとう。それならいける」


 そう言うと、黒木さんは僕を押しのけて扉を一気に引いた。ガラガラと大きな音が鳴り響き、Ⅰ組にいた全員がこちらを向く。


「お待たせハンナさん。遅れちゃってごめんね」


 黒木さんは堂々と言ってのけた。表情から感情を読み取りにくいので、突然現れた来訪者の言葉にテニス部員たちは驚き、判断が付かないといった様子で互いの顔を見合わせる。その一瞬の沈黙を受けて、中心にいた人物が声をあげた。


「あ、そう! そうでした、友達と約束があったんです! それでは先輩方、私はこれで失礼します!」

「あっ、待ちなさい! まだ話は終わって」

「オー日本語ムズカシイデース」

「あんたペラペラでしょうが!」


 強引に囲いを抜けて、中心にいた二条ハンナがこちらへ駆け寄ってくる。僕はその時、初めて二条ハンナという人間を正面から捉えた。


 女子にしては背が高い、と最初に思った。僕が少し目線を落とすぐらいだから身長は165センチあたり。膝が見えるスカートのせいか脚がとても長く見える。ブロンドの髪は肩まで伸びて、左右とも一部が三つ編みにされて揺れていた。目鼻立ちははっきりとして美術彫刻を思わせるが、好奇心旺盛な猫のように大きな瞳は生き生きとした青を宿している。一瞬、時間の飛躍を感じる程度には、綺麗だと思えた。


「ありがとう黒木さん、助かりました」


 小声で二条ハンナが言った。黒木さんとハイタッチしてから、そそくさと廊下に出る。


「あんた、H組の黒木でしょう。あんたもハンナさんを勧誘するってわけ? 私たちが先に声をかけていたのに」


 女子テニス部のうち、ポニーテールの子が言った。黒木さんの顔見知りらしい。


「違うわ。私は彼女を部活動に勧誘したりはしない」

「科学部にも、将棋部にも?」


 ポニーテールの子が即座に訊く。これで「科学部には勧誘していません、将棋部に勧誘したのです」という論法は封じられた。僕は少し焦った。その論法で言い逃れるつもりなのではと想像していたのだ。


「もちろん、私は勧誘自体するつもりはない」


 黒木さんがしれっと嘘をつく。声色に微弱な変化すらないのが恐ろしい。


「騙されないわよ。ハンナさんとあんたが一緒にいるところ見たことないし」

「用事があるのは私じゃなくて、こちらの彼よ」


 そう言うと黒木さんは僕の袖を引っ張って、無理やり僕を前に立たせた。


「誰よ、その男子は」


 女子テニス部員たちの視線が一斉に僕へと集まる。品定めをされているような気がして居心地が悪かった。


「彼は1年B組、矢吹君。こちらの二条ハンナさんとお近づきになるために、是非二人きりで、可能なら屋上か校舎裏で伝えたい、とっても大事なお話があるから、どうかその場所をセッティングしてくれないかと泣きついてきた私の友人」

「な、それってまさか」「屋上か校舎裏でなんて」「そんなの一つしか」


 女子テニス部が後ずさる。別に後ずさる必要はないのでは、と思えるが僕もそれどころではなかった。


(黒木さん、その、え、どういうこと?)


 振り返って問い正したい気持ちが喉から溢れ出そうだったが、いきなり背中に激痛が走り僕の主張は封殺された。黒木さんが僕の背中をつねったのだ。暴力反対。


「私は彼の願いを聞き入れて、今日ハンナさんにアポ取りしていたわけ。さっきから聞いていたけど、ハンナさん入部する気はないみたいだし打ち切っても構わないわよね」

「いや、でも私たちは勧誘の途中で」

「待ちなさい吉崎」


 代表と思しき上級生が、ラケットを真横に伸ばしてポニーテールの子を止めた。


「黒木さん、だったわね」

「はい」

「私たち女子テニス部は青春を駆け抜けようとする若人たちを無理に引き留めたりはしないの。二条さん、無理に誘って悪かったわね。また気が向いたら、いつでも来てくれれば歓迎するから」

「あ、はい。ありがとうございます」


 廊下側に立つ二条ハンナが拍子抜けしたような声を出した。


「さ、行くわよ貴女たち」


 颯爽と代表の上級生が教室の前扉から去っていく。他の部員たちも後に続いた。

ポニーテールの女子が最後に残り、黒木さんに向き直る。


「黒木、あんた」彼女は一度僕を見た。「どんな風にフラれたかだけ、今度教えなさいよね」

「約束する」


 黒木さんは神妙に頷いた。その答えに満足したのか、彼女も教室を出て行った。どうでもいいけど、どうして皆僕がフラれる前提で話をするのだろう。


「いいんですか部長」「引き止めたら野暮ってもんよ」「私も彼氏欲しいー」「他に無所属の子いましたっけ」「F組に一人同好会の子いるよ」「じゃあ次はその子を狙うか」「今日はもう練習止めにしません?」「タピオカ行こうよ、駅前の」「あそこもう潰れたよ」「えー!?」


 過ぎ去ってみれば静寂だけが残る。春の嵐のような存在だった。僕は女子テニス部たちの背中を見送りながら、そんなことを思って、いる場合じゃない。


「待って黒木さんどういうこと?」

「作戦成功。まさかこんなにも上手くいくとは」


 ふう、とわざとらしく額の汗を拭うジェスチャをする黒木さんを睨んでみたが、意に介する素振りもなく「それじゃ行きましょうか」とさっさと階段の方へと歩いて行ってしまった。僕と、二条ハンナがそれについていく。

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