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4月16日(Mon)


 秘書の朝は早い。

補佐を務める上司の出勤前に出社するとまず今日の上司のスケジュール確認、届いているメールのチェックと郵便物の仕分け作業、上司への最優先報告事項をまとめる。


2ヶ月前に会長秘書として入社した日浦一真を除けば、秘書課の末席は三岡鈴菜だ。

新卒で配属された経理部から総務部の秘書課に異動して二年目の春、鈴菜は今日も誰よりも早く出社して、上司の快適なビジネス環境作りをサポートする。


 チームの全体ミーティングを終えると、鈴菜は愁に呼び止められた。


『午後から見える前芝まえしばグループの福井社長に出す茶菓子を夢幻堂むげんどうで買って来てもらえる?』

「はい。福井社長でしたら、いつものフルーツ大福でよろしいでしょうか?」

『いいよ。俺も三階に用があるから下まで一緒に行こう』


夢幻堂は銀座にある老舗の和菓子屋。夢幻堂のフルーツ大福は甘いもの好きの福井社長の好物だ。


 出掛ける支度をして愁と共にエレベーターホールに向かった。


 今日も彼のスーツはシワひとつなく、革の靴も綺麗に磨かれている。洗練された身なりや所作は、一流企業の会長秘書の立場に相応しい。

前を歩く愁の広い背中に今すぐ手を伸ばして抱き着いてしまいたい。経理にいた頃から密かに憧れていた木崎愁と今こうして同じチームで仕事ができる日々は夢のようだ。


「土曜日は、その、お忙しいのに引き留めて申し訳ありませんでした」

『お母さん陽気な人だね。話していて楽しかったよ』

「うるさいだけのオバサンでお恥ずかしいです」


エレベーターに乗り込み、鈴菜は一階と三階のボタンを押した。鈴菜と愁以外は誰もいない密室に無言の空気が流れている。


「フルーツ大福、福井社長が好きなミカン大福があればいいんですけど……。個数限定なのでいつも午前中に売り切れてしまうんですよ」

『果物とあんこの組み合わせの何が旨いのか俺には理解できないな』

「それが意外と合って美味しいんですよ。でも私もいちご大福くらいしか食べたことがないんです」


 せっかく二人きりなのだから愁ともっと個人的な話をしたかった。けれどフルーツ大福の話題もこれ以上は広がらず、他に適当な話題も思い浮かばない。


続かない会話でもなんとか彼と話をしていたい。困り果てた鈴菜の脳裏に今朝目にしたニュース映像が再生された。


「木崎さんとお会いした土曜日の昼間に立川で殺人事件があったんですよ。ニュースにもなっていたんですが、ご存知ですか?」

『ああ……道でパトカーや救急車を見かけたよ』

「殺されたのは闇金の人達だったみたいです。拳銃で撃たれていたって。私達がいた場所のすぐ近くで事件が起きていたと知ってびっくりですよ」

『君やお母さんに被害がなくて良かった』


 向けられた微笑混じりの言葉に鈴菜の心臓が大きく跳ねた。愁は同僚の身を案じただけ、ただそれだけ。

わかっていても期待してしまう。優しい言葉をかけてくれる真意を探ってしまう。


今なら言えると思った鈴菜の口が開きかけた瞬間にエレベーターが三階への到着を無情に告げる。


『買い物よろしくね』

「……はい」


 三階で愁と入れ違いに入ってきた社員の群れに押し込まれた彼女は、エレベーターの隅で小さな溜息をついた。

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