第16話 殺セ

「佐伯さんはもしかして、5年間くらいの間の記憶が無いんじゃないかな」


 高坂がそう質問した時だった。車内にコツコツ、という乾いた音が響き、高坂と佐伯の肩を跳ねさせた。

 気づかぬ内に、佐伯側の車窓には腰を曲げてこちらに掌を見せる男が映っていた。高坂に数瞬、遅れて佐伯も男をその視界に認める。


「けーくん?」佐伯は窓を下げると、男に向けてそう言った。


 柔らかな暖房の効いていた車内に、秋の夜の寒風が忍び寄る。凍てついた風に佐伯は一瞬「うわ……っ」とボヤいたが、高坂は特に反応しなかった。いや、そんなことを機に止める余裕がなかった。と言ったほうが正しい。

 高坂の視界に外の男が収められた時から、“死神”が疼き始めたのだ。全身を内側から不規則に殴打される様な痛みが、高坂を襲う。釣鐘が耳元で何度も強かに撞かれているような、轟音が頭の中を掻き混ぜる。

 高坂がそれに耐えていると、外の男は異変に気付く事なく人懐っこい笑みを覗かせた。


智華ともかが近所のコンビニっていうから、暇だし探しにきたんだ」

「暇って……今、何時だと思ってんの!?」

「朝の4時だな?」


 あっけらかんとした男の様子に、佐伯は額に手を置くとため息を漏らした。


「はぁ……もしかして、また眠れなかったの? てことはさっきの電話も」

「そゆこと。もしかしたら智華も起きてるんじゃないかなぁー、と思ってさ」

「そんなんで電話しないでよ……もう、非常識なんだから。高坂くんもそう思う……よ、ね?」


 そう言って高坂の方を振り向いた佐伯の声は、徐に失われていった。

 佐伯の目には、黒い炎が突如現れた様に見えただろう。助手席に座る高坂の身体から、闇の中でもくっきりとわかるほど黒い靄がたちどころに上がり、天井へと向かって迸っていた。

 音も匂いも温度も感じない。ただその黒い靄から感じるのは純真たる恐怖。

 慄いた佐伯の喉から短い悲鳴が鳴る。


「智華ッ!」


 男は空いた窓から手を入れてドアを解錠すると、素早くドアを開けて車から佐伯を引っ張り出した。そして佐伯と高坂の間に男が腰を低くして立ち塞がるその瞳に怯えの色は無く、あるのは佐伯を守るという決意だけだった。

 高坂は“死神”による激痛の中、男の姿を僅かに確認した。

 ありえない……!

 男の頭上には何も見えなかった。正常であるはずのそれが、高坂に異常事態を知らせる。青い文字が。こんな事は初めてだった。


時任ときとう……啓介けいすけ」と、高坂は判然としない様子で言った。その声は微かに黒い靄を纏った時の様な匿名性の高いものとなっている。


 少しの間、男の頭上を見つめると燻んだ藍色の文字が、ぼんやりと時任 啓介という名前を示す。しかし、“残り時間”を示す数字は現れる事はなかった。

 その事物が導く答えはたった一つ。そして、高坂はにその答えへと辿り着いていた。確証は無いがしかし、確信があった。或いはそれは、“死神”がこっそりと高坂に知らせたものかもしれない。



 こいつは……時任 啓介は僕の両親を殺しただ……!



 巨大な風船が爆ぜる様な音が大気を揺らし、高坂は一瞬にして時任の目の前に跳躍すると、胸ぐらを掴むんで地面へと押し倒した。黒い靄の膂力による圧倒的な力と速度によって、コンクリートの地面へと受け身も取れずに叩き付けられた時任。視界にフラッシュが焚かされ、胃液が逆流して口から吐き出される。盛大にむせ返り、息を吸えない。苦しげな呼気が喘ぐ様に漏れ出し、掻き毟るように胸元の黒い靄に手をやる。

 高坂の跳躍による勢いで片方の車輪を宙にやっていた車が、ガタンと地面に戻る。

 高坂の乾いた心から、ふつふつと滾った負の感情が湧き出ていた。重油のようにどす黒く粘つきのある感情が、まるで麻薬のように急速に脳を侵していく。脳が徐に権能を手放していき、身体が身勝手に直情的な行動を取っていた。


 ころせ……コロセ、殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ…………!


 右手を時任の顔を覆うように当てる。“残り時間”を吸い取る為ではない。

 眼をくり抜き、鼻を折り、歯を全て抜き去り、舌を引き抜き、脳を掻き混ぜる為に。

 右手を纏う黒い靄を蠢かせ、時任に苦痛の限りを尽くそうとしたその時、


「高坂くん……!」


 佐伯のその絶叫に高坂は、黒いもやの蠕動を止めた。しかし、高坂の力が抜けたという訳ではなく、時任は高坂に胸倉を掴まれコンクリートに押し付けられた態勢で必死に佐伯に逃げるよう喘いでいた。


「ぐ、ぁ……っ智、華……逃げ……っ!」

「佐伯さん……」


 黒い靄をその身に7割程纏わせた高坂の輪郭が動くのが、朧げながらにわかる。しかしそこから発せられたのは、高坂のものとは思えないほどおぞましい、いくつもの声を混ぜ合わせたような匿名性の高い声だった。

 その声に後退りしそうになる足を、佐伯は叱咤するように一歩前へと出し、再び叫んだ。佐伯に目にはじんわりと涙が滲み、叫び声に連動して涙が零れ落ちる。


「高坂くんやめてっ! けーくんを離して……!」

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