第32話


「あ、松木さんまだ起きてたんですね」


濡れた髪のままバスタオルを肩にかけたパジャマ姿のヒカルがそこにいた。

一瞬、その姿を見るのがとても恥ずかしく感じた。


「あ、うん、なんだか眼が冴えちゃって」

「一回喫茶店でウトウトしたからかえって目がさめちゃったのかもしれませんね」


「そうかもしれないね。

ヒカルちゃんはもう眠いだろう?

気にせず眠ってね」

「ん~、なんだか私も目が冴えちゃった感じです。

あ、冷蔵庫のビールもらっていいですか?」


そういうと、ヒカルはさっきコンビニで僕が買ったビールを冷蔵庫から出し、プルトップを起こすと一気にのどに流し込んだ。


「ふ~、やっぱ風呂上りはビールですね」

「おっさんか?」


「あははは、突っ込まれた」

「まぁ、突っ込むよね。今のは」


一気に空気が和んだ感じがした。

正直、何も気にしていないようなフリはしていたが、お互いに男と女で、一晩をせまいワンルームの部屋で過ごすことに何かしらの後ろめたさや気後れのようなものは感じていたはずだった。

それが今のくだらない一言でスッとお互いの肩の力が抜けた気がした。


「あのぉ、松木さん」

「ん?なんだい?」


「松木さんて今彼女本当にいないんですか?」

「え?あぁ、本当にいないよ。

もう、いい年なのに困ったもんだよ」


「そんな。

松木さんならすぐいい人できそうなのに」

「そういうのってやっぱ縁っていうのかな。出会いとかってなかなかあるもんじゃないよ。

特に俺みたいに会社と家の往復だけのサラリーマンじゃ世界が狭いからね」


「私じゃ……ダメ……ですか?」


消え入るような声でヒカルが言う。


「え?今なんて言ったの?」

「あ、え、あの……私じゃダメですか?って言ったんです」


「あ、えーと、ありがとう。慰めてくれてんだね」

「違います!」


突然のヒカルの大声に驚いた。


「あ、ごめんなさい。私最初にお店に松木さんが来た時にすぐピンと来たんです。『この人だ』って。

それこそ縁を感じたんです」

「いや、何を言ってるんだ」


「聞いてください!本当なんです。

それから実際にお話しして私のつたない歌を本気でほめてくれて……、やっぱりこの人だって。

あ、すみません。勝手なこと言って。でも、素直な気持ちなんです」


「ヒカルちゃん……すっごくうれしいよ。

俺も実はヒカルちゃんのことが……魅力的で、本当は酒なんて弱いのに、ヒカルちゃんに会いたくて、今日も店に行ったんだよ」

「ほんとですか?!」


そう言うとヒカルはその大きな瞳を輝かせ、全身で喜びを表した。


「うん、本当だよ。

でも、俺はもう30も過ぎたおっさんだからね。

ヒカルちゃんはまだ二十歳だし……つり合いがね」

「そんなの関係ないです!私、松木さんのこと……好きです」


「えっ?でも、彼氏は?」

「実は……少し前に別れたんです。

初めて自分から別れを告げました。

松木さんのことを、好きになってしまったから……」


そういうとヒカルは僕の上にいきなり覆いかぶさってきた。


「松木さん……好きなんです。

私じゃダメですか?」


今にもぶつかりそうな距離にヒカルの顔があり、その大きくうるんだ瞳は僕の目をまっすぐに見つめていた。

そこまでされれば、男の本能を呼び覚ますのに十分なシチュエーションだった。


僕は、そのままヒカルの体をグッと抱き寄せ、ヒカルの唇に自分の唇を重ねた。


おそらくは数秒という短い時間だったはずだが、その唇を重ねている間が永遠のような錯覚に陥った。

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