第二十九話 「泥と水の神話」
「その問いかけへの答えは無数にあって、或いは一つキリだ。ナズミヅチとは、神を指し示す言葉だからね」
意味がわからないと、自分は首を振った。
けれど統司郎は、頓着することもなく言葉を重ねる。
話をするのがたのしくて仕方がないといった様子で、おしゃべりな作家は、言葉を綴る。
これは、神話なのだと。
「そうだ、こういったときは気分を出すといいだろう。つまり、枕詞はこうなるわけだ──遠い、遠い昔、或いは遙かな未来」
パチンと彼が指を弾いた瞬間、自分は幻覚に囚われた。
暗黒の宇宙空間。
星間宇宙へと投げ出された風太は、真っ赤に赤熱する星を視る。
「太古の昔、まだ地球が生まれたばかりの頃。この星に真っ先にやってきたのは、〝水〟と呼ばれる種族だった」
彗星が尾を引きながら、真っ赤な球体──原初の地球へと衝突する。
瞬く間に暗雲が世界を覆い尽くし、雨が降り注ぐ。
それはやがて海となり、星を満たした。
「〝水〟はこの星を気に入り、海に成り代わり、文明を築いた。おいおい、先史文明の跡なんて見つかっていないだろうって? ご指摘は正しい。だって彼らが作り上げたのは、形のない文明──精神文明だったのだからね」
海のなかを、姿のないなにかが泳いで回る。
無数の魚、クラゲ、鯨、或いはそんな分類もできないような存在達が、我が物顔で
いや──そうなのだ。
文字通りこのときの地球は、彼らのものだったのだ。
「各地に点在する、理想郷、ユートピア、天国として名の残る無数の伝説伝承は、この文明の名残だろうね。マハトマ、アルカディア、カダス、ヒューペルボリア、そしてムー……彼ら〝水〟は高度な文明を築き上げ、世界を支配し治めていた。それは平和な統治ではあったけれど」
しかし、ちょっとばかし退屈だったと、統司郎は微笑する。
「なにせ争いすらもない、争う必要もなくすべてが手に入る理想郷だ。望めばすべてが手に入り、魂の位階は天井知らずにアセッションを続ける。そんなもの、怠惰の極みだよキミ。だからね、新たな刺激が求められた。そうして望まれたから──やってきたのさ」
闇黒宇宙を両断する、新たなる漆黒の流星。
それは黒い炎を吹き出しながら、地球へと激突する。
「〝泥〟だ」
空中で爆散した流星は、無限量の黒い灰と化した。
それは滾々と海へと降り積もり、あらゆる海洋を汚染していく。
水の中、形もなく泳いでいた魂たちが、苦しげに身を捩り、のたうち回る。
「〝水〟は〝泥〟に曝露した。もちろん罪を暴かれたという意味じゃない。感染したんだ。言うまでもなく〝水〟は抵抗した。大いにしたとも。けれど奮戦もむなしく、感染は拡大し、そして──」
海の内部に、初めて影が宿る。
形を持たなかったいにしえのモノドモが、増殖するがん細胞におかされるようにして受肉する。
産まれたものたちは、次々に声を上げた。
それは産声。
悲鳴、肉体を得て初めて知覚した世界への、怨嗟。
「まあ、彼らにとってみれば、世界は相対的な地獄のようなものだったからね、そりゃあ悲鳴ぐらい上げる。僕にだって気持ちは想像できるよ。初めて吸入する大気に肺腑は焼け落ち、喉は爛れ、眼球は酸に反応して涙をこぼす。地獄だとも。そうして〝水〟と〝泥〟が混ざり合ったことで、この星に初めて、肉体を持った命が産まれたわけだ。それが僕たちの始祖、
統司郎は語る。かくして命は生まれ落ち、死を獲得したのだと。
「どんな命も必ず死ぬ。そういう定めができあがった。システムの構築だよ。この後も地球には無数の神様が下りてきて、好き勝手をやらかすのだけれど、その話はおいておこう。大事なのは、世界を泥と水が作り、今なお管理していると言うことだ」
そして。
「溶け合った泥と水は命に、交わらなかった泥と水はソラの果てと地のソコに別れ、世界を管理する。そしてこの、
ナズミヅチ。
その名前は、何度も聞いていた。
古すぎて意味のない言葉だと。
確かにその通りだった。
自分たちの前に現れていた怪異が、世界そのものの根源だったと言うのなら、名前になど何の意味もない。
命が産まれた瞬間からある理──死に抗うなんて、無謀にもほどがあって。
「……どうやら、キミは少し勘違いしているらしい」
「え?」
「水も、泥も、始祖さえも、我が身は可愛いし、我が子のことはなおのこと可愛い。だからね、命に危機が迫ればそれを助け、死を遠ざけるように働きかける。彼らは決して、純粋に邪悪な存在ではない」
じゃあ。
「けれど」
すがりつくような自分の思いを、統司郎は一蹴する。
「彼らは仮にも〝神〟だぜ? マクロでものを見ている奴らに、人間の区別なんてつくと思うかい?」
髪の毛一本一本の先っちょのように。
肌の上を這う小さなダニのように。
人間一人一人のことなど、泥も水も知ったことではない。
しかし、仮に個人を知覚して。
その人間がかなしみに──死に支配されようとしていたら?
「とうぜん、救いの手を差し伸べるだろう──病巣を切除するようにさ。なにせこれで、可愛い我が子なんだから。けれどやはり、ネックはある。神であることだ。もし人間風情が神に接触してしまったら、その情報量に耐えきれず破裂してしまうだろう。仮に破裂しなくても、魂が神に被爆してしまえば、あちらがわへ飲み込まれるのは秒読みだ。わかりやすい言い方をしようか? 触らぬ神に祟りなし──人間が神に触れれば祟られるのさ。キミも、その様子は散々見てきたんじゃないかな?」
彼の言うとおりだった。
そうやって、この世から消え去った。
死んだ。
見るだけで、触れるだけで訪れる死。
神の祟り。
怪異の本質。
こんなもの、どうすればいいというのだろうか?
……打つ手なしと言うことなのだろうか?
ぼくらの手では、誰も救えないと、そう言うことなのだろうか?
アリがゾウに踏まれたように、運が悪かったと諦めるしか──
「ところで、この絵本だけれど」
俯く自分に、統司郎が微笑みかけた。
その手の中では、結巳から託された絵本が、パラパラとめくられていている。
「いやに示唆的な内容だとは思わないかな? たとえば、お姫様たちは水の中に暮らしていて、幸せで」
……ある日黒い雪が降ってきて、病気になる。
「そう。そして、末期のお姫様の描写なんて、完全に人間の姿だよね?」
「つまり。何が言いたいんですか、あなたは」
「簡単だよ、後輩。この本はね」
彼は、じつにたのしそうな笑顔で。
真実を曝露した。
「世界の真理に触れた人間が記した、預言書なのさ」
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