第11話 左之吉の危機

(一)


 闇の中で光が揺れている。紅色、山吹色、橙色、浅葱……一つずつ違う色の光の連なりが、風に吹かれる風鈴のようにひらひらと揺れる。心が落ち着くような、静かな光だった。

 これは幻なのか。それとも、英太郎の目を通して、三途の川の人魂提灯の明かりが眼裏に映し出されているのだろうか……。

[……之吉! おい、左之吉……!]

「……」

 左之吉は、ゆっくりと目を開いた。焦りを滲ませた英太郎の声を、眠気に覆われた頭の内側でぼんやりと聞く。

[おい、しっかりしないか。気でも失ってたんじゃないだろうな?]

「……馬鹿、んなわけあるかよ。ちっと休んでただけだ」

 いや、本当に、少しの間だけ意識が遠のいて気を失っていたように思う。

 見上げれば、すぐ目の前には青い光を放つ大樹が天高く聳えたっている。そして、地面には、ぐねぐねとした木の根が網の目のように縦横無尽に這い回っていた。ところどころ腕よりも太い根が波打つように湾曲し、空中に持ち上がっている。

 左之吉は疲れ果てた余り、その根のひとつにもたれ掛かってしばしの間休息していたのだった。

 作衛門と戦った後は襲いかかってくる死神もおらず、青い靄もすっかり晴れた。森は不気味な程に、じっとりとした静寂に満ちている。

「英太郎、お前こそ、そろそろ限界なんじゃねぇのか?」

[……別に俺の方は大した事もねぇよ]

「んな事言って、お前は妖力の持ち合わせが少ないじゃねぇか。長くは持たねぇってさっき自分でも言ってただろ」

[……馬鹿にするなよ。俺はそんなに弱かねぇよ]

 むっとした、不機嫌な声だ。眉根に皺を寄せて仏頂面でもしているのだろう。なんとなくおかしくなって、頬が緩んだ。

 息を吸い込んで、立ち上がる。まだ足もとが少しふらついた。

 意地を張り合っていても、やはりもう心身ともに消耗しきって限界に近いのだった。自分も、そして、おそらく英太郎も。

 差し当たっての脅威は去ったとはいえ、早いところ片をつけなけばならない。

 根を避けながら歩き、巨大な木のごつごつとした木肌を見上げる。夢で目にした檜を、ふと思い出した。英了が閻魔大王像を造るための材にした、あの木だ。枝葉の間に咲いている透き通った花の花弁も、閻魔大王の目にするために英了が削り出した水晶の板を連想させた。

 そして、木の中に囚われているのは……。

――違う……何を考えているんだ、俺は。

 左之吉は、思わず平手で自分の頬をぺしりと打った。

――あの中にいるのは夕月だ。英了の娘なんかじゃない。今はもう関係ねぇんだ……あの夢も、英了の事も……。

 木の幹には、うっすらと影が浮かび上がっている。小さな、子供の影。

 ようやく根本まで辿りつき、幹によじ登った。夕月の影が目の前にある所まで登る。

 もうすぐだ。もうすぐで終わる。幹を壊して夕月を救い出せば、二人で帰る事ができる。三途の川へ。英太郎の元へ。

「よし……壊すぞ!」

 帯から抜き取った鎌の刃を打ち込んだ。

 コン、と乾いた音を立てて刃は幹の中に沈む。

 その刃を押し返すような振動が、不意に腕に伝わった。と、思う間もなく、木の幹がバリバリと縦に割れ、大きな黒い裂け目が表れた。木の割れた破片が雨粒のように顔に降りかかる。

「ゆうづっ……うわっ?!」

 再び、振動。木が、脈打つようにどくんっと震えた。はね飛ばされる。地面に落ち、木の根に背中をしたたかに打ち付けた。

[大丈夫か?!]

「くっ……何なん……だ……これはっ」

 激痛にもんどりを打って転がった。思えば、この森に来てから、いや、来る前からずっとさんざんな目にあい続けている。

「げほっ……げほっ……」

 悪態のひとつでも吐きたいが、すぐに喋る事もできず、咳込みながらなんとか起きあがる。

 その時、何やら獣の唸るような声がすぐ傍で聞こえた。

「え……?」

 左之吉は全身から血の気が引く思いで固まった。

 目の前にいたのは、獣とも人間ともつかない、禍々しい姿をしたあやかしだった。

 吊り上がった目は赤く爛々と光り、口の端からは尖った牙が飛び出し、両の手の指先から伸びているのは、不規則にねじ曲がったような形の長い爪。戦って相手の肉を抉り、傷付けるためにのみあるような、黒光りする爪だ。

[夕月……]

 英太郎が呻くように呟いた。

「まさか……」

 左之吉には信じられなかった。いや、信じたくはなかった。

 しかし、ざんばらに振り乱された髪の中で二本の角が鋭く伸び、玉虫色に光っているのが、紛れもない鬼の一族の証であった。

「嘘だろ……?」

 もし、このあやかしが夕月なのだとしたら……いや、おそらく、間違いなく夕月なのだろう。一体、何があったというのか。木に閉じこめられている間に。

 そして、これが夕月の真の姿なのだとしたら……。

 グウウウ、と夕月がうなり声を上げた。獣のように四つ這いになり、左之吉を睨む目には獰猛な敵意が宿っていた。

「夕月!」

 左之吉は叫んだ。

「落ち着いてくれ、夕月……俺だ! 俺の事が分からねぇとは言わさねぇぞ? 助けに来たんだよ。英太郎も……」

 言い終わる前に、夕月が跳んだ。

 あ、と思う間もなく、いつの間にか鼻の先に夕月の角があった。

 胸の辺りに焼けつくような熱さを感じる。一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 おそるおそる見下ろす。夕月の長い爪が、左之吉の胸を深く刺し貫いていた。


(二)


「左之吉……?! うっ……!」

 右の目に痛みが走る。視界が暗くなった。何も見えない。

 瞬きをする。

 深い青が溶け込んだ闇。人魂提灯の明かりが揺れている。足元の五つの盥の中で目玉達が泳いでいた。

 見慣れた、いつもの景色だ。だが、今見たいものはこれじゃない。

 英太郎は、再び視界を左之吉の目に合わせようとした。

「……っ!」

 刺すような痛み。集中力が散らされる。眼窩の奥に熱が疼いた。

 英太郎の妖力が底を尽きたのだ。己の視界と左之吉の視界を合わせようとしても、跳ね返されてしまう。

「ちくしょう……こんな時に……」

 英太郎は震える拳を握りしめた。

 最後に見えた光景は、変わり果てた夕月の姿。左之吉の胸に突き立てられた、鋭く長い爪。そして、血の赤。

「左之吉っ……夕月……」

 英太郎は呻くように二人の名を呼び、自分の無力を呪った。しかしたとえ、今、左之吉の目に再び自分の視界を合わせる事ができたとしても、何も出来る事はないだろう。……いや、今までとて何が出来ていたというのか。左之吉に助言するつもりが、徒に心を乱させてしまっただけだったかもしれない。作衛門の目を潰した事も、今となってはあれが正しかったのかどうかも分からなかった。結局、自らの手を汚し、辛い役目を負わなければならなかったのは、左之吉自身だ。

――俺は、また……大切な者を助ける事ができないのか……

 両手で顔を覆い、唇を噛みしめる。胸の奥が氷のように冷えていく。前にもこんな事があったような気がする。何よりも大切に思っていた者を失い、何も出来ず、ただ己を責め、絶望した。そんな事が、思い出せないくらい遠い昔に、確かにあった気が……。

――せめて、ここから動けたなら……! 左之吉達のいる所へ、今すぐ駆けつけられたなら……

 自分の身の上を今ほど強く疎んじた事はなかった。死神でもない、人間でもない英太郎は、この三途の川のほとりから動く事はできないのだ。

――一度でいい……この身をこの場所に縛り付ける、見えない戒めが解けるのならば、俺は俺の魂に換えてもあの二人を助けたい……!

 百年前、英太郎が罪を犯し、死神ではなくなってから、気がつけば傍に左之吉がいた。幾度となく喧嘩をし、反発し合いながらも、もはや何者でもなくなってしまった「目玉売り屋の英太郎」を孤独から救ってくれたのは、他でもない左之吉だったのだ。

 そして、先日、地獄の闇とともにやってきた夕月は、ずっと忘れていたような、温かい気持ちを英太郎に思い出させてくれた。不思議な愛おしさを感じさせる少女だった。あやかしに拐かされた夕月が一人で心細く、辛い思いをしていると考えると、それだけで胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。その夕月は、今、鬼の本性に飲み込まれ、姿形まで変わってしまっている。あのような姿になるまで、きっとさぞかし恐ろしい思いをしたに違いない。

――何か……手段はねぇのか……あいつらを助け出すための……

 英太郎は顔を上げ、縋りつくような気持ちで辺りに視線を走らせた。

 ふと、足下の盥の一つから、ぼんやりとした青い輝きが漏れ出しているのに気がつく。

「これは……」

 水の中をのぞき込む。一つの目玉の瞳が青い光を放ち、水底から英太郎を見上げていた。

「これは確か、この間、店に来た変な爺さんの……」

 英太郎は目玉を摘み上げた。老爺の語った言葉を思い出す。


――……どうせお前さんはこの場所から離れられない身なんだろう? しかし、その目玉を使えばどこだって行けるぜ。俺ぁ旅の神だ。旅の神の目玉は持ち主をどこへだって連れて行ってくれるんだ、お前みたいな半端者でもな……――


「旅の神の、目玉……」

 英太郎とて信じていたわけではない。老爺の事も、ただの下等なあやかしの類であろうと思っていたのだ。

 しかし、今の英太郎が頼る事ができるモノは、もはやこの目玉以外には何もなかった。

「爺さん……あんたがもし本当に旅の神だと言うのなら、連れて行ってみせろ、この俺を……この半端者の俺を、俺の望む所へ……!」

 英太郎は、腹の底から絞り出すような声で言い、己の左の目に指を差し入れる。力を込めて、眼球を抜き取った。

 

(三)


「ちくしょう……消えたく、ねぇな……」

 左之吉は、今にも消え入りそうな声で呟いた。夕月の爪に抉られた傷からは、真っ赤な血が止めどなく噴き出し続けている。

「英……太郎……おい……見えてる、か?」

 痛みに耐えながら呼びかけるが、返事はなかった。ついさっきまで、すぐ傍にいるかのように感じていた英太郎の気配は完全に消えている。おそらく、英太郎の妖力が切れたのだろう。

 これで良かった、と左之吉は、朦朧とする意識の中で思う。今の夕月の姿を英太郎にこれ以上見せずに済むのなら、その方が良いのだと思えた。

「夕、月……」

 無駄と分かりつつ、名前を呼ぶ。夕月はやはり答えない。倒れた左之吉の体を組み伏せて、相変わらず血に飢えた獣のようなうなり声を上げていた。自分の名前すらもう何も分かってはいないようだった。

「ゆう、づ……」

 もう一度名前を呼ぼうとしたその時、夕月の体が、ふっと左之吉の体の上に覆い被さってきた。

 次の瞬間、首筋に焼ける熱さを感じた。

「あっ……がぁ……ああああああぁぁ!」

 激しい衝撃を伴う痛みが全身を駆け巡り、左之吉は身を捩りながら悲鳴を上げた。夕月が鋭い牙を立てて、左之吉の肩口に噛みついたのだ。

「あ……うあああ……あ……」

 体全体がばらばらに引きちぎられそうな痛みの中、呻き声を上げる。体が熱い。おそらく、血が炎に変わる前兆だ。

 鬼は、死神に刑罰を与える役割を担う者でもある。鬼の爪も牙も、死神の肉体だけではなく魂それ自体を傷つけるのだ。

 消えたくない、消えたくない、と左之吉は思った。勝手な事だとは分かっている。数え切れない仲間達を、そして無二の親友までもこの手で消し去ったにも関わらず、自分はまだここに「在り続けたい」と思っている。それが身勝手な事であるのも本当なら、消えるのが怖いと思う事もまた左之吉にとっての真実だった。

 左之吉は、自分でも知らぬうちに、右手に握った首刈り鎌をゆっくりと持ち上げつつあった。

 この鎌で夕月の首を切り落としたなら。

 そうすればきっと、左之吉は助かる。いや、左之吉が消えずに済むにはそれしか方法はない。

 夕月を救いたい一心でここまで戦ってきた。しかし、助け出したはずの夕月は、もうかつての夕月ではなかった。

――もう……夕月は俺のこの手で、消さなきゃならねぇ……。

 左之吉は、自分の首元に喰らいつく夕月の頭の上に鎌の刃をかざした。

 今、この刃を夕月の首に突き立てれば……今度こそ全てが終わる。悪夢のようなこの時間も、この痛みも、全て。

――だが……

 左之吉の手の動きが止まった。

「夕、月……俺は、おま、えの事……結構、好き、だっ……たんだぞ?」

 お辰の部屋で初めて会った時の、泣き出しそうな顔を思い出した。

 左之吉の手を握りながら見上げてきた真剣な顔。

 英太郎の店で、一生懸命に人魂提灯を作っていた姿。

 仕事に連れて行ってやると言った時の嬉しそうな笑顔。

 英太郎に結ってもらった髪を見せて、はにかんで俯いた顔……。

 左之吉の手から力が抜ける。

 開いた掌から鎌が滑り落ち、土の上に無造作に転がった。

「夕月……」

 左之吉は両腕を夕月の背に回した。残った力の全てを込めて夕月の体を強く抱き締める。

 夕月は顔を上げ、左之吉の腕から逃れようとして暴れた。手を振り回して抵抗し、その弾みで指の爪が左之吉の脇腹に刺さり、食い込んだ。

「ぐっ……ああっ……」

 左之吉は呻き、身を仰け反らせた。だが、意地でも夕月を離すまいと、腕の力は緩めなかった。

「夕月……ごめん……俺が……助けにくるの、遅かった、から……怖かったんだろ?」

 左之吉は夕月に語りかけながら、その頭をゆっくりと掌で撫でた。

 夕月が束の間、動きを止めた。喉からはグルグルと唸るような声が聞こえるが、それ以上暴れる気配はなくなっていた。

「夕月……もし、お前が無事に帰れたら……英太郎に、また……髪を結って、もらえよ……」

 左之吉はそう言い終わると、夕月を胸に抱きしめたまま、ゆっくりと息を吸った。体の中が熱い。事によると、もう魂が燃え始めているのかもしれない。体の内側から燃え上がった火は、あと少しすれば、左之吉の体も魂も焼き尽くしてしまうのだろう。

――最後に一目、お辰に会いたかったなぁ……英太郎にも……

 意識が遠のく。体に宿る全ての感覚が痺れ、消えていく。

――あばよ……さよなら

 唇は動いたが、声にはならなかった。

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