ファントムシップ 〜幽霊船と亡国の姫〜

中村仁人

第1話「抜錨、自由の海へ!」

 ここではない別の世界——


 そこはモンスターたちの領域。

 人はモンスターの脅威に晒されながら暮らしていた。

 加えて、夜になれば死者たちが生者の血肉を求めて彷徨う。


 陸を往けるのは、剣や魔法に優れる冒険者や護衛を雇っている隊商のみ。

 それも常に危険と隣り合わせ。


 各国は賞金を懸けたり、定期的に討伐隊を出して安全確保に努めた。

 だが通商路は分断され、容易に攻め入れない険峻の地に住む少数部族を除き、モンスターに対抗する術を持たない人々は住処を奪われていった。


 陸を自由に往来できなくなった人類は、海に目を向けていた。



 ***



 ブレシア帝国——

 人々が食料豊かな平野から追われ、生活の場を海辺に移す中、帝国だけは陸の強国としてリューレシア大陸の過半を支配していた。


 かつて精強なブレシア騎兵を以って大陸に覇を唱えた典型的な陸軍偏重国家。

 現在は帝国陸軍騎士団と名を変えたが、中身は大昔から続く勇猛なブレシア騎兵そのもの。

 その武力のおかげで、モンスターから国土を奪われずにいた。


 武力と財力は表裏一体。

 強力な騎士団に守られた帝国は陸の交易で栄えていた。

 その後、交易の中心が陸から海に移ったことに合わせ、現在地ルキシオに遷都したという。

 この新しい都も栄え、どこを見ても人でごった返し、少しでも人通りがあればそこには露店が開かれていた。


 海を越えて連行され、いまは宮殿の一室に囚われている亡国の姫は窓の外に広がるその繁栄を眺めていた。

 長い銀髪とアメジストの目をした端正な顔立ちには物憂げな表情が浮かんでいる。


 彼女の名はエルミラ。

 海の向こうにある隣国、リーベル王国の王女……だった。

 、というのは帝国に滅ぼされたからだ。


 滅亡するまでリーベルは海洋王国だったが、その昔は魔法王国だった。

 ここの皇族や貴族が馬術を身につけるように、リーベルでは魔法を学ぶ。

 彼女も同様に幼少から魔法を学んでいたが、剣術の才能もあったので大人になる頃には一人前の魔法剣士になっていた。


 才能豊かで美しく、そして民に対して威張らない王女。

 彼女は国民から愛され、お飾りではあったが海軍魔法兵団長を務めていた。


 魔法を国是とする王国が力を入れ、王族を団長に戴く集団。

 門閥貴族たちが世襲により兵団のすべてを掌握し、才ある人が然るべき立場に就けない。

 こういう組織はどうしても腐っていくのだ。

 その腐敗が原因で王国は滅ぼされた。


 王国を滅ぼしたもの。

 それは敵の精鋭騎士団でも大艦隊でもない。

 腐敗によく効く毒——

 賄賂だった。


 平民から貴族へ、貴族から王家への不満。

 この国が抱える不満は限界を迎えており、賄賂がよく効いた。

 彼らにとっては大金でも、一国の代金としては二束三文。

 しかしその僅かな大金と引き換えに、リーベルは売り渡されたのだ。


 領海侵犯を見張っていたはずの巡回艦は帝国海軍の兵槽船とすれ違っても見逃した。

 将軍たちは演習の名目で、帝国海軍が目撃されないよう、航路予定海域から漁船や商船を追い払っておいた。

 こうして無傷のまま敵兵の上陸を許し、大臣も将軍も近衛隊の一部すらも買収されていたリーベルは国旗を下ろすことになった。


 買収された連中は君主制を廃止し、リーベル共和国の設立を宣言。

 王族たちは捕らえられ、主な者は悪政で民を苦しめた、と出来裁判の後に処刑され、王位継承順位が低かった者は平民にした上で流刑になった。


 エルミラは王女だったが、それほど王位継承順位が高くなかったので平民に落とされて島流しと思われた。

 だが身分は剥奪されず、流刑も免れた。

 とはいえ、いまの境遇が彼女にとって幸いとは言い難い。


 帝国の傀儡国家として始まったリーベル共和国だが、表向きは友好的な同盟国同士。

 その友好の象徴としてこの国の皇子と結婚させられるのだ。


 良く言えば政略結婚だが、実情は違う。

 共和国は属国として帝国に忠誠を誓う。

 彼女はその証として帝国に献上されたのだ。


 名前も年齢も知らず、彼女と会ったことすらない男がこれからその貢物を受け取る。

 皇位継承順位が第何位なのかわからないが、属国の姫をあてがわれるのだ。

 あまり重要な皇子ではないだろう。


 彼女はいまでも王女のままだが、それは帝国の都合による。

 皇族に嫁ぐ者が平民では釣り合いが取れない。

 帝国側の希望で王族の身分のまま海を渡り、いまは宮殿の一室に軟禁されていた。


 この部屋に通されてから、もう一ヶ月になる。

 その間、彼女に許されていたことはいまのように窓の外を眺めることと、本を読むこと。

 ただし名君を支えた良妻賢母の話や、帝国の輝かしい歴史について等、そんな本ばかりでうんざりだった。


 一応、侍女も付けられているが、世話係というより見張りに近い。

 同年代なら世間話で少しずつ打ち解けていけたかもしれないが、生憎と嫁いびりの意地悪婆さんのような侍女だ。

 何がそんなに憎いのか、エルミラの姿を見るとすぐに睨みつけながら皇族に嫁ぐ者としての心構え云々とどやしつけてきた。


 その拷問から解放されたのはつい最近のこと。

 逃亡の虞はないと判断されたのか。

 あるいは単純に飽きたのか、婆さんの方で用があるときしか部屋に入ってこなくなった。


 日中、教育係が帝国のしきたりや作法を教えにやってくるが、後は誰も訪ねてこない。

 一人を除いて。


 エルミラ以外誰もいなくなった部屋で窓の外を見ていると、後ろにその一人が現れた。


「お疲れ様」


 声をかけられて振り返ると、そこには緑髪の少女。

 いつも日課の花嫁修業が終わると現れる。


 部屋に出入り口は一つしかなく、意地悪婆さんが扉を開閉するときに見張りの兵士が見えたから、そこを通って扉から入るのは無理だ。

 第一、開閉音がしない。

 宮殿最上階の角部屋だから、こんな華奢な少女がよじ登ってくるのも無理だろう。

 だから〈来る〉のではなく、いつの間にか忽然と〈現れる〉のだ。


 護送船から降ろされるとまっすぐこの部屋に通されたのだが、少女はその日の内に現れた。


 彼女を見たエルミラは当初、幽霊だと気味悪がった。

 城や宮殿に怪談話はつきものだ。

 この宮殿でも不幸な最期を遂げた王族や貴族がいたはず。

 おそらくこの部屋に幽閉されていた少女なのだ、と。


 兵団長といってもお飾りで、何もできなかったが、魔法剣士としては真剣に取り組んできた。

 モンスター相手の実戦経験も積んでいる。


 しかし幽霊相手に有効なのは魔法ではなく、祈りの言葉。

 司祭ではないエルミラの祈りがどれだけ有効かわからないが、必死に思い出して唱えた。

 その結果は少女が困った顔になっただけで、成仏させることはできなかった。

 仕方がないので悪霊退散は諦め、話に付き合うことにしたのだった。


 少女の名はリルという。

 綺麗な緑髪が肩まで伸び、エメラルドのような目をした可愛らしい少女。

 歳は一〇を超えた位か。


 ——いつかの時代、そんな若い頃にこの世を……


 そんなことを哀れんでいると否定された。

 幽霊のような存在ではあるが、まだ生きている、と。


 生きているのに幽霊?

 怨みが強すぎるとなってしまうという生霊というやつか?

 しかし、そんなに深い怨みを抱えているようには見えない。

 よく笑うし、明るい子だ。


 生霊呼ばわりも否定されたが、だったら何だというのか?

 少女はそれに明答することはできなかった。

 自分のことがよくわかっていないようだった。


 さらに話を続けていくうちにわかったことは、彼女も連れてこられたのだということ。

 リーベルから一緒だったという。

 見張り付きだったが、甲板に外の空気を吸いに出てきたところも見ていた、と。


 大海原では逃げようがないので、確かにそんなこともあった。

 しかしいくら思い返しても、甲板に少女の姿はなかった。


 そういえば帝国への航海中、一緒に王国から接収した小型船を一隻、護送船の後ろに従えていた。

 もしかしたら、そちらに乗っていたのだろうか。

 だとしても衝突防止のために船同士の間隔が空いていたから、そんなにくっきり見えるはずはない。


 何にしても気味が悪い話だ。

 少女は不服そうだったが、幽霊だから透明で見えなかったのだろうと結論付けた。


 その後、エルミラは自分のことも話した。

 リーベルの王族だったことにリルはとても驚き、スカートの裾を摘んで恭しく一礼してきた。


 だが、そういうことはすぐにやめさせた。

 いまの自分は姫とは名ばかりの奴隷。

 共和国を一つの国として承認してもらう代価として支払われた身。

 姫扱いされると余計に惨めだった。


 以来、二人は名前で呼び合うようになった。

 それは今日も同様だ。


「来たか。リル」

「いよいよだね」


 いよいよ——

 二人の計画を実行に移すとき。


 日々の会話の中で、リルが記憶喪失の幽霊だということがわかった。

 わかっていることは名前と、リーベルから連れてこられたということだけ。

 何の記憶も身寄りもない少女の幽霊が他国に一人ぼっち……


 だから少女に尋ねた。

 家に帰りたいか、と。


「帰りたい。エルミラも一緒に帰ろう」


 王国はもうない……

 共和国は自分の家ではない。

 一体どこへ帰れというのか。


 苦笑するエルミラに少女は一喝した。


「それでもリーベルはリーベルだよ!」


 言われてハッとした。

 王女である前にリーベル人なのだ。

 国名がどう変わろうと、風景やそこで漁れる魚が変わるわけではない。

 故郷は故郷だ。


 彼女たちは帰国する計画を立てた。

 帝国からいなくなれば迷惑がかかるだろうが、それでも構わない。

 共和国に帰るのではない。

 リーベルに帰るのだ。


 リルを家へ返す。

 その後どうするかは終わってから考える。

 第三国に逃げて魔法の教師になろうか。

 あるいは魔法剣を操る傭兵になって諸国を転戦しようか。

 捕まれば父王の後を追わされるかもしれないが、それでもよい、と覚悟を決めたのだった。


 まずは帝都を出なければならない。

 リルは船で逃げよう、と提案してきたが却下した。


 リーベルと帝国の間に広がるセルーリアス海。

 渡るのに大型の帆船で二週間もかかった。

 リルは生霊なので作業はできないから、実質一人で操船することになる。

 一人で動かせる船など艀か沿岸用の漁船程度。

 そんな船で広い外洋に出るなど自殺行為だ。


 陸路を行くしかない。

 なんとか帝都を出て、他国で定期船か交易船を見つけるのだ。

 しかし、少女は頑として首を縦に振ってくれない。


 初めは子供の我儘かと苛立ちを覚えた。

 だが、あまりにも頑なに拒むので理由を尋ねると、なぞなぞのような答えが返ってきた。


「陸だと、あまり遠くまで歩けない」


 霊なのに歩き疲れたりするのか、などと無粋なことを言うつもりはない。

 国境まで距離があるので、どこかで馬を調達するつもりだったし、乗馬が苦手ならリルに合わせて馬車を探す。

 そう伝えても拒絶してくる。


「艀や漁船で一体どうやってあの海を渡る気だ?」

「リーベルから一緒に来た船で帰ればいい。いまも港に係留してあるんだよ」

「……リル、何度も言った通り、あの大きさの船を動かすには——」

「私一人でも動かせるから大丈夫だよ。いつもやってたし!」


 なんとなく発言の意味が理解できた。

 おそらくあの船はリルの親のものだったのだ。

 生霊になっても、舵輪を握らせてもらった思い出が残っていたのだろう。

 親の船を置いたまま遠くへは行けないということだ。


 この子の気持ちは理解できる。

 エルミラも海と共に育ったので、馬術に優れた騎士団相手に陸路を逃げるより、出来れば船で逃げたい。


 だが、気持ちだけで帆は動かない。

 舵輪を回すだけでは、船は動かないのだ。

 同じ海の民として心苦しいが、リルの船は置いていく。


 少女は最後まで不服そうだったが、陸路で国境を目指すことに決定した。



 ***



 ついに脱走計画を決行するときがやってきた。

 一ヶ月間大人しくしていた甲斐あって、エルミラは皇帝から夕食に招かれた。

 この機会を利用する。


 この招待は一緒に晩飯でも食わないか、というただの誘いではない。

 品定めだ。

 皇子たちの一人に当てがうつもりで連れてこさせたが、もし気に入れば自分の側室として迎える気なのだろう。


 息子の婚約者を父親が奪うなど、なんとも気持ち悪い話だが、こんなことはどこの王家でも時々ある話だ。

 こういうことは後々、国が揉める原因になるのだが、いまは部屋から出るきっかけを作ってくださった皇帝陛下に感謝していた。

 軟禁部屋には魔法封じの結界が張られていて、どうにもできなかったのだ。


「失礼します」


 扉の外から意地悪婆さんとは違う若い女性の声がする。

 エルミラは一旦、リルを部屋から退がらせた。


 入れ替わりに若い侍女たちが入ってくる。

 陛下の御前に相応しい身なりに整えなければならない。

 その世話をする侍女たちだ。


 長い時間、いろいろやられた。

 純白のドレスを着せ、化粧も施し……

 陛下好みに飾り立てられていく。


 お麗しゅうございます、というがまるで娼婦のようだ。

 貞潔と色気を兼ね備えよ、という皇帝の御意が込められているような姿だ。

 趣味が悪い。


 身支度が整うと、金属の手錠を掛けられた。

 部屋同様、これにも魔法封じが施されているようだ。

 その用心深さに心の中で舌打ちした。


 作業を終えた侍女たちは退室し、今度は兵士が二人入ってきた。


「ご案内いたします」


 エルミラは大人しくそれに従って部屋を出た。

 前後を挟まれながら通路を行く。

 踵の高い靴を履かされているので早く歩けない。


 おしゃれと同時に逃走防止にもなっている。

 手錠で魔法も封じられているし、万事休すだった……


 ……と、少なくともこの兵士たちはそう考えているだろう。

 しかし、彼女の魔法を封じ、剣を取り上げれば何もできないという考えは間違いだ。


 大人しく先頭の兵士について歩いていたエルミラだったが、履き慣れない靴のせいで不意に転倒してしまった。

 手錠で動きが制限されているため、すぐには立ち上がれない。


「大丈夫ですか? お助けいたします」


 言葉は丁寧だが、もたついている彼女に苛ついているようだった。

 後ろの兵士が上腕を乱暴に掴んで引き起こそうとする。


 そのときだった。

 上腕を掴んできた相手の腕を目にも止まらぬ素早さで捻り上げ、痛みに一瞬気を取られた兵士の頭を壁に叩きつけた。


 続け様、咄嗟の出来事に反応できない先頭の兵士に襲いかかり、金的蹴りをお見舞いする。

 あまりの激痛に、応援を呼ぼうにも声が出ない。


 さらに前屈みになった兵士の後頭部を掴むと、彼女自身の体重もかけて苦痛に歪む顔面を床に叩きつける。

 ゴンッ、という鈍い感触の後、ぐったり動かなくなった。


 リーベル海軍において、魔法使いは艦上で魔法発動に専念するが、魔法剣士は上陸部隊を兼ねていた。

 乱戦になることも度々あり、密集した状況では剣や槍などの長い得物より、短剣や格闘戦の方が有利な場面もある。

 そこで魔法であっても、剣だけでなく、格闘戦の訓練も積んでいたのだった。


 素早く兵士二人を倒したエルミラは剣を手に入れた。

 他にも探ってみたが、残念ながら手錠の鍵は持っていないようだった。


 ——手錠のまま皇帝に謁見させるつもりだったのか?


 ともかく、ないものは仕方がない。

 魔法は封じられたままだが、手錠のままでも剣は使える。

 さっそく手に入れた剣でドレスに切れ目を入れて横に裂く。

 邪魔だった裾を詰め、足が痛む靴も脱ぎ捨てると身軽になった。


「リル」

「ちゃんといるよ」


 さすがは幽霊。

 いつの間にか傍に佇んでいた。


「私が先に行くから付いてきて」


 リルが透明になって斥候役を買って出てくれた。


 ——幽霊とは便利なものだ。


 現れたり、消えたりを繰り返す少女についていきながら、自分も幽霊になれたら楽なのに、と思った。

 高位の魔法使いの中には不可視魔法を使える者もいるようだが、まだその高みに届いておらず、手錠で封じられているエルミラは大人しく誘導に従う他なかった。


 倒した兵士を物陰に隠した後、ヒタヒタと宮殿内を歩き回る。

 窓から見えた外壁はここからかなり遠い。

 もし見つかって警戒態勢を取られてしまったら、外壁の跳ね橋を上げられてしまうだろう。

 そうなっては打つ手がないので、正面突破はできない。

 通用口から穏便に出て行くしかない。


 二人は人の気配がすると隠れ、人目を避けながら一人でいる侍女を探した。

 ドレス姿では目立ちすぎる。

 気の毒だが侍女に眠ってもらい、衣装を拝借するのだ。


 使用していない部屋に隠れ、獲物を狙う肉食獣のように息を殺して待つ。

 通路の様子を窺ってまもなく、若い侍女が小走りに駆けてくるのが見えた。

 何も知らない彼女は、まったく警戒せず扉の前に差し掛かる——

 その瞬間、エルミラが獲物の侍女に躍り掛かる。


 首筋へ手刀一閃。

 さっきの兵士同様、悲鳴を上げる暇もなかった。

 ぐったりとくずおれた侍女を元いた部屋へ急いで引き摺り込む。


 程なくして、侍女姿のエルミラが何か大きな布を両手に抱えて出てきた。

 手錠を見られないように、部屋の中にあったテーブルクロスを畳んだものだ。

 剣の上にその布を被せるように持っている。


「行くよ。リル」

「うん」


 いくら侍女に扮していても正面玄関からは無理だ。

 絶対に呼び止められてしまう。


 そこで通用口を目指すことにした。


 途中、何度か士官らしき兵士とすれ違ったが、その度に頭を下げて道を譲った。

 緊張の連続だったが、特に怪しまれることなく一階通用口から宮殿を出ることができた。


 市街地に入り、ほっと胸を撫で下ろす。

 一ヶ月ぶりの外の空気は他国であっても良いものだった。


「やったね。エルミラ」


 リルが無邪気に喜ぶが、まだ油断できない。

 侍女の身なりは宮殿内では擬装になるが、市街では逆に目立ってしまう。

 警邏巡回の兵はうろついているし、ならず者に絡まれる可能性もある。


 幸い、日は沈み、夕暮れの残光が西の空に残るのみ。

 すでに辺りは薄暗く、隠れるのには有利だ。

 侍女の服も黒を基調としているのでうまく闇に紛れて城門を目指すことにした。


 エルミラはリルを伴って外壁へ急ぐ。

 残光も完全に消え去り真っ暗になれば、跳ね橋は上がり、城門が閉ざされてしまうからだ。


 喧騒が漏れ聞こえる酒場や宿屋の裏道をひた走る。

 一ヶ月の幽閉生活は確実に彼女の身体を鈍らせた。

 少し走っただけで軽く息が弾む。


 隠れたり、走ったりを繰り返しながら、二人は外壁が望める地点に辿り着いた。

 問題はここからだ。


 跳ね橋はまだ下りているが、城門を守る番兵が四人と外壁上にも複数人いるようだ。

 想定していたより人数が多い……

 これでは一人倒している間に応援を呼ばれてしまう。


 魔法が使えたとしても、この人数を一瞬で倒して突破するのは無理だ。

 また、用向きを伝えて穏便に通行するというのも難しそうだ。


 これから夜が更けていき、帝都の外はモンスターたちが活発になる。

 宮殿の侍女が一人、白布をどこかへお届けに行ってくるというのは無理がある。


 どこかで馬を拝借してきて強行突破するしかないか……


 そんなことを考えていたときだった。

 後方でけたたましく鐘が打ち鳴らされた。

 何事かと振り返ると、街のあちこちで同じように鐘の音が呼応する。

 城門の兵士たちにも聞こえたらしく、慌ただしくなった。


「あ……」


 エルミラは思わず呻いた。

 兵士の一人が同じように鐘を打ち鳴らして応え、他の兵士たちが城門を閉じてしまった。

 さらに外壁上でも松明の光がゆらゆらと走り回り、何か叫んでいる。


 声がひび割れていてよく聞き取れなかったのだが、すぐにその意味がわかった。

 門の外から鎖を巻き上げる音がする。


 ……跳ね橋を上げられてしまった……


 鐘は宮殿からだった。

 おそらく眠らせておいた兵士や侍女が目覚めたか、倒れているのを誰かが発見したのだろう。


 すべての門が閉じられ、帝都の中に閉じ込められてしまった。

 捜索隊の松明があちこちの暗がりを照らし出しているのが見える。

 すぐに立ち去らなければここにもやってくるだろう。


 でも、どこへ……

 思案しているとリルが目の前に姿を現した。


「こうなったら、港へ行こうよ」


 彼女の言う通り、艀でも見つけて一旦海に逃げるべきか。

 沿岸を漕いでいって、誰もいない浜に上陸し、改めて国境を目指すのだ。


 しかし、街を探しても見つからなければ、捜索範囲が港にも広げられ、艀がなくなっていることにもすぐ気付くだろう。

 そうなったら、海上と沿岸の捜索が始まってしまう。


 妙案が浮かばず、悩んでいるエルミラにリルは畳み掛けた。


「お願いっ、信じて!」


 真剣な眼差しだった。

 子供の妄想というには迫真すぎる。

 とはいっても、子供の話を完全に信じたわけではない。


 小型船と言っても戦艦に比べれば小さいという意味で、その辺の民家より大きい。

 一人で動かせる代物ではない。


 だが、リルは現実と妄想の区別がつかない子供ではない。

 その子がここまで力説するのだ。

 きっと何かあるのだ。


 他に代案がないエルミラは一か八か、彼女に賭けてみることにした。


 繁華街の方が騒がしい。

 酒場や宿屋を一軒一軒改めているのだろう。

 木を隠すには森というから、その判断は正しい。


 だから人混みの中で人探しを頑張ってくれている間に港へ向かう。

 リルの船へ。



 ***



 港にはたくさんの船が停泊していた。

 その昔、帝都は内陸の平野にあったが、モンスターの増加と交易の中心が陸から海に移行していったことで衰退し、沿岸に遷都した。

 以来、帝都は大陸の玄関港として毎日たくさんの船舶が出入りしていた。


 二人が港にやってきたとき、特に警戒態勢を取っている様子はなかった。

 脱走者の追跡は役人たちの仕事。

 港湾警備兵は港と船のことだけ考えていればよい、ということなのだろう。

 職業意識が低いと言わざるをえないが、それも仕方がないのかもしれなかった。


 帝国は他国に遅れながら、ようやく海洋に目を向け始めた。

 遷都がその意思の表れだ。


 しかしそこに住む人間の意識が急に変わるわけではない。

 依然として陸の強国のまま、海を軽んじる風潮がある。

 おそらく、この国で海に関する職務は閑職なのだ。


 ——そんな士気の低い海軍に滅ぼされた海洋王国とは一体……


 落ち込む元王女を引っ張って行くように、リルが先頭を走って行く。

 毎日、少女は部屋まで訪ね、エルミラが就寝するときには船に帰っていた。

 だから停泊場所を迷うことはない。


 その場所は港の外れ、軍港区画にあった。

 遠目にあの小型船が見える。

 まるで眠っているように帆を畳み、静かに投錨している。


 エルミラにはその姿が帝国に鎖で縛られている自分自身と重なって見えた。

 女一人で動かせると思えないが、何か方法があるなら、ぜひ解放してやりたいと思う。


 しかしそうはいかない。

 港内はどこも手薄だったのだが、なぜかリルの船だけは見張りが二人立っている。


 ここにきて再び、城門と同じ問題に直面してしまった。

 見張り二人は離れて立っており、一人に襲いかかっている間にもう一人を逃してしまう。

 連続で仕留めるのは難しい。


 帆を張ったり、錨を上げたり……

 逃げた一人が応援を連れ帰ってくるまでにそれらを終えるのは無理だろう。

 エルミラは海軍の人間ではあったのだが、船の仕事について一通りのことしか習っていない。

 毎日航行に従事している熟練の水兵たちのようにはいかないだろう。


 これは決して王族だから特別扱いされていたのではない。

 兵科の違いによるものだ。


 陸の魔法使いと違い、海軍魔法兵の持ち場は主に甲板だ。

 魔法は高い集中を要するが、甲板は常に揺れ動き、急な高波が襲ってくることもある。

 しかも魔法が最も必要とされる場面は敵艦との交戦時。

 集中には向かない場所と状況である。


 せめて比較的安全な船室で魔法の詠唱を行えると良いのだが、交戦中に必要とされる魔法は目標を視認しなければならないものが多い。

 必然的に甲板で詠唱を行うことになり、砲撃や狙撃の危険に晒される。


 そのような状況下で魔法を完成させなければならないのが海軍魔法兵という兵科だった。

 だから海上での欠員に備えて魔法兵も一通りの訓練は受けるが、本業が疎かにならないよう、航行には関わらないのが基本だった。


 まさかこんな状況になる日が来るとは思っておらず、もっと船の仕事について訓練しておくべきだったと悔やんだ。

 だがいまは泣き言を言っている場合ではない。

 出航準備をする時間を稼ぐため、離れて立つ見張りをなんとかしなければならない。


 いろいろ考えてみたが、一人目に静かに忍び寄って片付け、それに気がついた二人目が声を上げる前に始末する。

 やはりこれしかない。

 普段なら一人を魔法で攻撃しながら、もう一人に斬りかかることもできるのだが……

 魔法を封じる手錠の鎖が恨めしい。


 しかしすぐには行かず、躊躇った。

 失敗すれば応援を呼ばれてしまう。

 だがモタモタしていれば捜索隊がここにもやってくる。


 強引でもやるしかないのだが、そんな早業が果たして可能だろうか、と自問自答していた。

 そんな気持ちを読み取ったのか、姿を現したリルが囮を申し出た。


「私が出ていけば一人は追いかけてくるはず。その間にもう一人をやっつけて」

「待て。危険だ」

「大丈夫だよ。すぐに撒いてくるから」

「おい、よせ!」


 夜の港は静かで何もなく、退屈していた見張りの耳は変化に敏感だった。

 たとえひそひそ声であっても聞き逃さなかった。


「誰かいるのか?」


 彼女たちが隠れている物陰に見張りの片割れが近付いてくる。


「それじゃ、あとでね」


 それだけ言い残すと、リルは子供の悪戯っぽく元気に飛び出していった。

 楽しそうに笑い声を上げながら、見張りたちの前を横切って逃げ去る。


「コラッ! どこから入ってきた!? 待てっ、止まれっ!!」


 こちらに近付いて来ていた方が、怒鳴りながら少女を追いかけていった。


 作戦に賛同したわけではなかったが、始まってしまったものは仕方がない。

 エルミラは残る一人に集中する。

 残った兵士は少女が逃げていった方を目で追っていて、こちらに気がついていない。


 港も市街地同様、石畳なので侍女の靴はコツコツと音がしてしまう。

 彼女は侍女の靴を脱いで裸足になると、ヒタヒタ忍び寄る。

 そして背後から手刀で首筋を——


「うぐっ……!」


 一声低く呻くと見張りはその場に崩れ落ちた。

 エルミラは付近にあったロープで素早く縛り上げて転がしておく。


 あとはリルが戻ってくるだけ。

 先に乗っていてくれ、と言われたがすぐには乗り込まなかった。

 幽霊だから捕まることはないと思うが……


 少し待つが、戻ってくる気配がない。

 心配だが、いまは時を無駄にすることはできない。

 戻ってくるまでの間に出航の準備を整えておくことにした。


 少女が逃げ去った方角から小型船の方に向き直ると、船体全体が視界に入ってくる。

 海上ではいつも正面の姿しか見えなかったのだが、間近で見てようやくわかった。

 これは歴とした軍艦だ。

 甲板から小振りな砲口がのぞいている。


 海に魔法が持ち込まれて以来、各国軍艦は小型・快速化傾向にあった。

 どうせ大きくて頑丈な船を作っても、それ以上の魔法が飛んでくるのだ。

 ならば小型の方が低予算で済むし、少しでも速くできれば回避できる可能性が上がる。


 ——それにしても本当に小さい……


 目の前の船はそれらの軍艦より小さい。

 船種はスループというやつだろうか?

 漁船と比べれば大きいが、これで広いセルーリアス海を渡るのだと言われると不安になる。


 まず外側から見てまわった。

 何かが壊されていたり、取り外されている可能性もある。

 これからこの船に自分の命を預けることになるのだから、自分の目で確認するのだ。


 まず船首から——

 特に大きな傷はなかったが、船首像が気になった。

 シーツを頭から被っている幽霊のような像。


 ——何の像だろう?


 通常、船首には航海の無事を祈って縁起が良い物の像が取り付けられる。

 神や聖人、聖なる動物などだ。

 こんな神いただろうか、と思い起こしてみるが記憶にない。


 気にはなるが、他の箇所の確認を早く済ませなければならない。

 あとでゆっくり考えることにし、船首から舷側に移動する。


 マストは一本。

 いまは畳んであるが、帆走時は台形帆と三角帆を張るようだ。


 護送船は三本マストの横帆船だったので、外洋の強風を受けて相当速かったはず。

 こんな帆でよくぞ付いてこられたと感心する。


 特に異常は見当たらなかったのでさらに先を見ていく。

 船尾へ。

 そこで船名がわかった。


 ——変わった名だな……


 リルの親を悪く言うつもりはないが、普通は希望とか成功、もしくは大きなものに挑んでいく意気込みを表すような良い名前をつけるものだ。


 それがこの船は違う。

 船尾にはこう記されていた——

ファンタズマ幽霊」と。


 ——不吉な……


 エルミラは思わず眉をひそめた。

 酔狂な海賊が相手を威嚇したり、箔を付けるために不気味な船名をつけることがある。

 リルの親は海賊だったのだろうか?


 しかし船名を見て、船首像が何だったのか合点がいった。

 初見の印象通り、幽霊の像だったのだ。


 異常な感性である。

 海賊が意気がっているのでない限り、そう言わざるをえない。


「おまえ、幽霊なんて名前つけられて気の毒だったな」


 この船に対して少し同情的な気持ちになった。

 主人の姿はどこにもなく、他国の港で忘れられたように揺蕩う。

 まさに幽霊のような有り様。


 もし私たちが乗ろうと計画しなければ、このままここで朽ちて、船名通りの幽霊船になっていたのだろうか——


 そんなことを思っていたとき、船全体が魔力を帯びて微かに光り始めた。

 まるで眠っていたものが目を覚ましたかのように。


「どうして急に?」


 彼女自身が魔法の使い手でその中でも魔法剣士という立場。

 魔法剣士の特質ともいえるのが、魔法使いの手を借りなくても自力で剣に魔力を付与できることだ。

 物質に魔力を付与することの難しさを知っているからこそ、余計に驚いた。


 このような魔法を〈付与魔法〉というが、残念ながら付与した魔法は一定時間が過ぎれば消え去る。

 高位の魔法使いになると永続的に付与した〈呪物〉を製作できる者もいるが、それも剣や鎧程度の大きさのものだ。

 もちろん彼女には無理だ。


 魔法兵団の中に優秀な付与魔法の使い手はいたが、永続的にというのは無理で、彼女より持続時間が長いというだけ。

 付与状態を維持したければ、魔力が消えかける度に魔法をかけ直すしかない。


 だから船全体に付与魔法を施したければ、その船に乗っていなければならない。

 王国宮廷魔法使いでも、無人の船に遠くから付与することはできないはずだ。


 それに小型といえど、これは艦船だ。

 これほど大きな物体に一瞬で魔力を付与するのは彼らでも難しいだろう。


 だから目の前で起きている現象は不可解なのだ。


 ——誰が、一瞬のうちに?


 誰かそこにいるのか、と尋ねたい衝動に駆られるが、大声を出して見つかるわけにはいかない。


 エルミラは剣を握り直してタラップに足をかけた。

 声を立てず、自分の目で船内を探すしかない。

 そのときだった。


「いたぞっ! あそこだ!」


 瞬間的に声のした方を振り返る。

 声の主は捜索隊だった。

 市街地を虱潰しに探しても見つからず、とうとう港にやってきたのだ。


「……リル……」


 口惜しそうに待ち人の名を呻くが、いない者は応答できない。

 錨も沈んだまま、帆も畳んだまま……

 出航準備は間に合わなかった。


 ——斬り抜けるしかない!


 船は諦め、市街地に戻る。

 リルを見つけ、捜索隊をなんとか振り切って地下に潜るのだ。

 この規模の都市なら下水道があるはず。

 うまくすれば帝都の外に繋がっているかもしれない。


 ピィィィーッ!


 捜索隊の一人が呼笛を吹いた。

 まもなく兵士たちが殺到してくる。


 捕まれば、いままでより厳重に監禁されるか、逃亡を図った罪で処刑されるか、あるいはこの場で……


 ——短い人生だったな……


 エルミラは天を仰いで大きく息を一つ吐き、覚悟を決めた。


 ——リーベルの王族として潔く戦って死のう。


 しかし、自分で決意した内容の滑稽さに気がついて苦笑する。


 彼女の母は平民上がりの侍女だったという。

 ある日、父王に見初められて側室になった。


 王家内での身分は母親の実家の力に比例する。

 物心ついた頃、周囲にいたのは、異物を見るような目で疎外してくる兄弟姉妹たちや、母をいじめる正室や側室たちだった。

 父は同じでも彼らは〈家族〉ではない。


 母とは幼い頃に死別した。

 心労が祟ったのだろう。

 そうなると余計に〈家族〉というものが遠くなる。


 だから居心地の悪い家を出て海軍に入った。

 だが、そこでも魔法兵団長の座に飾られて丁重に疎外された。


 家族からは平民と蔑まれ、平民からは王族と奉られる。

 真の王族でもない。だからといってまったくの平民でもない……

 虚なお化けのような王女だった。


 それが危機に瀕したいま、「王族として——」と咄嗟に浮かんだことに驚き苦笑したのだった。

 その間にも捜索隊と彼女の距離は詰まっていく。


 エルミラは大きく深呼吸をし、正眼に構えた。

 相手は多勢。

 広い場所では囲まれてしまうので、ここで迎え撃つ!


 捜索隊を睨み、乱戦に備えて気合と集中を高めているときだった。


「エルミラ! 早く乗って!」


 声はファンタズマの甲板から——

 リルだった。

 いつの間に!?


 頭は混乱したが、身体は素早く応答してタラップを駆ける。

 乗船したエルミラは休まず、いま通って来たタラップを蹴り落とそうとする。


「降りてこい! 一人で動かせるわけないだろっ!」


 怒声がはっきり聞こえる距離まで捜索隊が近づいて来た。

 その声はリルの耳にも届いているはず。

 だが、これから出ていく海の方を向いたまま、気にもしていないようだ。


 ジャリリリッ——!


 突如船首で錨鎖の巻き上げが始まった。

 リルではない。

 船の中央に立ち、海を見たままだ。

 誰も触っていないのに勝手に巻き上げられていくのだ。

 その怪奇な光景に思わず、タラップを蹴落とすエルミラの足が止まった。


 怪奇現象はそれだけでは終わらない。

 続いて帆も勝手に展帆されていく。


 次々と起こる怪奇現象の前にさすがのエルミラも放心状態になってしまった。

 おそらくこれらを起こしているのはリルだろう。

 なんらかの魔法だと推測するが、かなりの大魔法だ。

 それを宮廷魔法使いでもない少女がやっている。


 ——少女の姿をしているが、実は齢数百歳の魔女なのか?


 そんな疑いが頭に浮かぶ。

 しかしそれを遮るように怒声が割って入ってきた。


「無駄な抵抗はやめろっ!」


 さっきより大きくはっきりとした怒鳴り声が鼓膜を叩き、エルミラは我に返った。

 ついに先頭の兵士がタラップに到達した。


 呆けていたことを後悔したが、もう遅い。

 彼女は蹴り落とすことを諦め、剣を構える。


 船首では錨の巻き上げが完了して静かになったが、代わりに今度は後ろで金属同士の激突音が鳴り始まった。

 騒々しかったが気にせず、リルは淡々と何かに指示を出し続ける。


「ウンディーネ」


 彼女が呟くと、傍に水色の小さな少女が現れた。

 水の精霊だ。

 名を呼んだだけで精霊を呼び出す——

 相当高い魔力がなければできない芸当だ。


 二人は振り返り、タラップ上の戦いを見守る。

 いや、何かを待っているようだ。


 一方のエルミラは防戦に忙しく、リルの連れが現れたことに気がつく余裕はない。

 すでに二人倒して海に落とし、いまは三人目に取り掛かっていた。


 早く倒さねばと気が焦る。

 こちらを女と侮ってくれているので剣技が通用しているが、重装兵が来て盾を横一列に押し込んでこられたら防げない。


 必死にタラップを守ろうとするが、多勢に無勢。

 徐々に後退りしていき、あと一歩で甲板に戻るところまで押されてしまった。


 それを見ていたリルが傍の精霊に指示する。


「左舷、水流用意」


 ウンディーネはコクリと頷いた。

 ファンタズマはいま左舷側を接舷し、タラップを渡していた。

 その下で水が静かにうねり始めたのだが、戦闘に夢中な双方は気づかない。


 精一杯堪えたが、ついにエルミラが甲板に戻された。

 まさにその瞬間——


「噴射!」


 というリルの号令を合図にウンディーネが小さくうねる水面に魔力を集中した。

 その途端、左舷側に白波を立てながらファンタズマの船体が勢いよく右にズレた。

 面舵を切って前進したのではない。

 右へ平行移動したのだ。


 リルは指示した本人だから踏ん張ったが、予告されていなかった者たちはそうはいかない。

 エルミラは甲板に尻餅をついて右舷まで転がって止まった。

 乗り込もうとしていた兵士たちは——


 ズズズッ……ガタンッ!


「うわあああっ!?」


 ファンタズマが右にズレれば当然タラップは外れてしまう。

 上に乗っていた兵士たちは全員白波残る暗い海に落ちていった。


 後方で待機していた兵士たちは難を逃れ、どこかへ走り去っていった。

 二人は捜索隊から無事に逃げることに成功した。


 しかし安心するのはまだ早い。

 彼らは逃げたのではなく、応援を呼びに行ったのだ。


 報せが届けば、港口城門の砲台がすぐにこちらを狙ってくるだろう。

 その射程圏内を無事に抜けられても、哨戒中の沿岸警備艦隊が急行してくる。

 追い詰められている状況に変化はなかった。



 ***



 艦船は横に平行移動するようにはできていない。

 危うく横転するかと思われたが、ウンディーネの巧みな力加減によって船は無事だった。

 ファンタズマからタラップを落とした水の精霊は、役目が終わったといわんばかりに姿を消した。


 水流が止まってもまだ惰性で少しズレ続けていたが、リルは帆を見上げた。


「シルフ」


 またも名前だけで薄緑色の少女の精霊を呼び出した。

 今度は風の精霊だ。

 彼女はウンディーネのように顔の横ではなく、帆のところに現れた。


 呼び出されたシルフも先程の水の精霊同様、了解と頷く。

 頬を膨らませ、そして帆に向かって力一杯息を吹き出すような動作をしながら透けるように消えていった。


 直後、帆が前方に向かって一杯に広がっていく。


「ありえない……」


 不可解な驚きの連続だった。

 目の前で現実に起きているのだから認めるしかないのだが、エルミラの理解が追いつかない。


 いま、海から陸に向かってまっすぐ逆風が吹いている。

 どんな帆であろうと、風を正面で受けたら出航どころか、後ろに押し流されてしまう。

 なんとか横か斜めで風を受けるようにしなければ、前に進めない。

 教官からそう習った。


 しかし、その教えを嘲笑うかのようにファンタズマはシルフの順風を帆一杯に受け、逆風に向かって走り始めた。


 呆気にとられて帆を見上げているエルミラを気にせず、リルは船尾に走る。

 港の奥まったところに停めてあったので、まっすぐに出航することはできない。

 港口まで舵を切りながら進まなければならないのだ。


 舵輪に辿り着くと手慣れた様子で取舵に回し始めた。

 それに連動して帆も意思があるように自分で向きと開きを調節して、小さい半径で回頭できるよう手伝う。

 姿は見えないが、さっきのシルフだろう。


 回頭が完了すると逆に回して舵を戻す。

 左舷に港の一般区画が見えてきた。

 船たちが川の字になって眠っている中を静かに進んでいく。


 一方、帝都はかなり騒がしい。

 さっきから笛や鐘の音、松明を縦や横に動かしたり、円を描いたり……

 一つ一つの詳細はわからないが、リーベルの捕虜が船で逃げたと知らせ合っているのだろう。


 城壁上でユラユラと見回りをしていた松明も等間隔のまま動かなくなった。

 等間隔が意味するのは、そこに大砲があるということ。

 すでに砲撃準備は完了し、こちらを狙っていることだろう。


 艦砲と違い、大きさも重さも気にしなくてよい地上の大砲はかなり遠くまで撃ち出すことができる。

 ところが、とっくに射程に入っているはずなのに撃ってこない。


 エルミラたちにとってありがたいことだが、見送ってくれているわけではない。

 すぐ近くに他国の船が停泊しているのだ。

 それも沢山。


 砲弾がそこまで届くというだけで、精密に命中させられるわけではない。

 いま撃ち込んだらそれらの船に当たってしまう。

 下手をすれば国際問題に発展しかねない。

 だから撃てないのだ。


 どうせ脱走船が外洋に出るには港口を通るしかない。

 砲兵たちはそこに照準を合わせている。

 船の群れから出てきたときが砲弾の雨を浴びせるとき。


 安全どころか絶体絶命。

 エルミラは少しずつ近づいてくる港口が地獄門に見えてきた。


 ——一体どうする気なのか?


 城壁砲台から船尾に視線を移すと、リルは舵を握りながら帆に向かって何か呟いていた。

 ここからは聞き取れなかったが、一瞬現れたシルフが頷いていた。


 そして、ファンタズマは最後の転舵に入った。

 舵輪を右へ回し、面舵を切る。

 ググーッと船体が右へ傾き、最小半径で回頭する。


 あとは港口まで直進するだけ。

 そこに待っている運命は自由のセルーリアス海か、海の藻屑か。

 まもなく停泊船たちの盾から抜け出る……



 ***



 砲兵隊は焦る気持ちを抑えて、機会を待っていた。

 この国から逃げたければ自分たちの前に出てくるしかない。

 だから必ずそのときはやってくる。


 そしてすぐにそのときはやってきた。

 まずは船首——

 続いて舷側、船尾と露になっていく。


 港のあちこちに焚かれた篝火のおかげで城壁からでもその姿をはっきりと確認できる。

 脱走船はまだ港口まで到達していないが、砲兵隊は直ちに砲撃を開始した。


 砲弾は撃ってすぐに届くものではない。

 動く相手に撃つ場合、着弾する頃にいるであろう未来位置目掛けて撃っておくのだ。


「てえええぇぇぇっ!!」


 いまは何もいない海面——

 しかし着弾時にはちょうどファンタズマが通りかかるであろう位置目掛けて、砲口が火を吹く。


 ドンッドドドッドドンッ——!!


 雷のような一斉射撃!

 その轟音が帝都の夜空に鳴り響く。


 脱走船がどういう原理で逆風に直進できるのか不明だが、砲兵隊にとってはあまり重要なことではない。

 とにかく風に乗って順走している帆船として仕留めればよいのだ。

 距離と風向き、それと相手の速度から未来位置を予測し、そこに砲弾の雨を届ける。

 それだけだ。


 いつもここから船の出入りを見ている。

 風も距離も見誤ることはない。

 帆船である以上、いまから帆を畳んでも急に止まることはできない。

 もはや運命を受け入れてまっすぐ進み、全弾受けるしかない。


 ——予測した未来位置に入ってきて必ず命中する。


 次弾装填を急ぐ砲兵たちだったが、初弾で仕留めたという確信があった。


 対するファンタズマは総帆展帆のまま。

 全速で進み、着弾予定位置へ船首が差し掛かる。


「やったぞ! ざまあみろ!」


 命中は確実。

 砲兵たちから気の早い歓声が上がり始めた。

 その中で弾着観測の兵だけは冷静に望遠鏡で標的を捉え続けていた。

 そして——


「着だぁぁぁーんっ…………」


 間延びしているのではなく、砲弾がいよいよ着弾することを周囲に報せる大事な合図だ。

「着弾」と予告し、命中の瞬間に「いま!」が続く。


 …………


 歓声が静まり、命中の報告を待つ。

 片手の指で数えられるほどの短い時の中、いまか、いまかと待ち侘びた。


 …………?


 いつまで経っても「いま!」が来ない。

 おかしい。

 どうしたのかと騒つき始め、観測兵に注目が集まる。


 彼は目から望遠鏡を外して呆然としていた。

 まるで幽霊でも見たかのように。


「報告!」


 見かねた隊長が、外れたなら外れたと報告するよう一喝した。

 我に帰った観測兵は呻くように報告した。


「全弾……命中せず……!」


 しかし隊長は彼を「馬鹿者!」と叱りつけた。

 新兵ではあるまいし、そんな着弾報告などない。

 次射の修正をするために、着弾位置が近かったのか、遠かったのかを報告しろということだ。


「方位良し、距離良し……修正の必要は……わかりません」


 報告を受けた隊長は意味がわからなかった。

 方位・距離が良いなら修正の必要はないはずだし、そう報告すれば良い。

 それが「わかりません」というのはどういうことなのか?


 不明瞭な情報は指揮官を苛立たせる。

 報告を終えて再び呆然としている様もさらに怒りを誘う。


 どういうことなのか詳細を報告せよ——!

 そう怒鳴りつけようとしたときだった。


「隊長!」


 近くにいた砲兵の一人が叫ぶ。

 何事かとそっちを見ると、どこかを指差している。

 視線で指し示す先を辿っていくと、そこには無傷の標的船が。


「な、なに……?」


 隊長も観測兵同様、呻くしかなかった。

 もはや呆然とする彼を叱ることはできない。

 自分も思考が停止してしまった。


 観測兵が見たもの。

 それは標的船の急停止だった。


 船首が着弾予定位置に差し掛かったとき、前方に向かって膨らんでいた帆が急に後方へ膨張した。

 同時に船首前方で大きな白波が立ち、船を押し留めた。


 結果、風と波の力で標的船はその場にピタッと止まった。

 だから方位も距離も完璧だったが、全弾外れたのだ。


「……なんだ? あの船……」


 帆はシルフの仕業と元々吹いていた逆風のおかげ。

 白波はウンディーネの仕業だった。


 そうとは知らない砲兵たちは気味が悪いと騒ぎ始めた。

 幽霊船なんじゃないのか、そんな船に撃ち込んだら祟られるんじゃないか、と。

 教育を受けて迷信と現実の区別がつく士官と違い、兵卒は迷信深い者が少なくない。

 目の前であんな不気味な操船を見せられては無理もなかった。


 迷信が現場を飲み込みつつあった。

 だが隊長は一喝し、その悪い流れを断ち切った。


「第二射急げっ!」


 拭えない縁起の悪さを感じつつも、隊長の命令には逆らえない。

 みんな砲兵隊の本分を全うすべく、作業に戻っていった。


 現場崩壊を防いだ優秀な隊長。

 彼をいま支配していたのは怒りだった。

 あんなふざけた躱し方——!

 必ず一発当てて皆の目を覚ましてやる、と遠く順走を再開した標的船を睨む。


 どうやら煙幕を焚いているようだった。

 的を絞らせない狙いのようだが、無駄なことだ。

 せっかくの煙が逆風に流されている。


 さっきの動きには驚かされたが、どうやら船長は愚か者だったようだ。

 こちらは精密に当てるつもりはない。

 煙幕の先頭部分に向かって撃ち込むだけだ。


「狙う必要はない。ばら撒け!」


 第二射は撃沈するための砲撃ではない。

 とにかく一発当てて皆の目を覚ますのだ。

 少々変わった動きができるというだけで、あれは断じて幽霊船などではない、と。


 各所から発射準備完了の報告が上がる。

 敵も無意味さを悟ったのか、速度を上げて煙幕から完全に出てきた。

 すべての用意が整い、隊長は指揮刀を高く掲げた。


「第二射、てえええぇぇぇっ!!」


 指揮刀を振り下ろすのと同時に、すべての砲列が一斉に火を吹いた。

 砲弾は風を切り裂くような唸り声を上げながら飛んでいく。

 第二射は拡散して撃たせた。

 未来位置だけでなく、急停止も予測して現在位置にもばら撒いた。

 必ず一発は当たる。


「着だぁぁぁーんっ…………」


 再び着弾の予告が城壁上に響く。

 撃ち終わった砲兵たちの間には、幽霊船に当たるのかという不安と、幽霊船に当てて祟られないだろうかという不安が漂っていた。


 さっきのように、ざまあみろと騒ぐ者は一人もいない。

 静かに次を待つ。


 程なく、望遠鏡を構えていた観測兵が叫んだ。


「いまっ!」


 やったか!?

 やれたのか!?


 第三射を準備する手が止まり、それぞれ城壁から身を乗り出しながら幽霊船に注目した。


 観測兵は命中と報告した。

 ただし全弾ではない。

 未来位置に向かって撃ち込んだ砲弾が命中したのだった。

 当然、現在位置の方に飛んで行った分は外れだが、それで構わない。

 幽霊船相手に全弾命中させようなどと、欲張ってはいけない。


 この世ならざる者に対して自分たちの手段がまったく通用しないわけではない。そのことについて安堵の歓声があちこちから上がる。

 隊長の作戦は図に当たり、迷信が打ち破られるかと思われた。

 ところが……


「お、おい! なんだあれ!?」


 目を見開いている砲兵の見ている先を一緒に辿って見ると、幽霊船がいなくなっていた。

 波は立っていないが、ちょっと余所見している間に沈没したのか?


 ——撃沈成功?


 騒いで見ていなかった者たちは呑気なことを言い出したが、目撃していた者たちがそれを否定した。


 第二射は確かに命中したのだ。

 船首から船体中央にかけて複数貫通していった。

 だが、材木が砕ける音も沈没もせず、スゥッと幻のように消えてしまった……


 常識では考えられない現象だった。

 それとも幽霊船の撃沈とはこういうものなのか?

 皆が沈黙していると、思わず誰かが呟いた。


「終わったのか?」


 しかし、誰もその疑問に答えることはできなかった。

 幽霊船と戦った者などいなかったし、ましてそれを撃沈した話など聞いたことがない。


 いや——

 答えられる者が一人だけいた。

 正確には一人ではなく、一隻か。


 問いに対して「いいえ、終わっていません」と返答するように、ファンタズマが煙幕の中から飛び出す。

 それを見た砲兵隊は城壁上で総崩れになった。


「やっぱり幽霊船だったんだ!」

「祟りだぁーっ!」


 口々に叫びながら城壁から逃げ出していく。

 目を覚ますどころか、逆に幽霊船だと確信が深まってしまった。

 逃げ出す者と放心状態で動けない者とで混乱状態に陥り、第三射どころではない。


「止まれっ! 持ち場を離れるなっ!!」


 隊長がなんとか秩序を取り戻そうと声を枯らしているが、一度傾いた流れは変わらない。

 その間にファンタズマは増速し、砲台の射程圏より離脱することに成功した。


 リルが煙幕を焚いた後に精霊たちに指示していたこと——

 それはシルフとウンディーネの力で急停止することだった。

 加えて、闇の精霊シェイドを呼び出し、ファンタズマそっくりの〈影〉を作らせた。


 あとは砲兵たちが見た通り——

 煙幕から飛び出してきた〈影〉を脱走船と信じ、第二射を撃ち込んだ。


 誤信されるほどそっくりだったが、所詮、影は影。

 水面に映る月影のようなもの。

 砲弾が命中しても壊れはしないが、幻影だとバレる。


 幻は本物と見分けがつかないからこそ生きるのだ。

 だから、本物かどうか確認されたとき、その幻は死ぬといえる。

 砲弾で確認されたファンタズマの影が、大勢の目の前で消えたのはそういう理由だった。


 真相は単なる精霊召喚。

 精霊使いが精霊を召喚してその特性に応じた仕事をさせた。

 これだけだ。


 それを複数同時に操るリルは凄かったが、帝国も精霊使いを三人集めてくれば同じことができるだろう。

 幽霊船の怪談でもなんでもないのだが、パニックに陥った砲兵たちが冷静になるのは無理だった。


 城壁上ではまだ大騒ぎが続いている。

 その喧騒を背に、エルミラとリルは帝都を後にした。

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