三、ゆれるきんぎょそう

 夢原の事務所を出た俺とタカナシは、午後二時過ぎを示した時計に誘われるまま、近くのラーメン屋に入った。

 ニシムラ・リュウジの事件は今朝のニュース番組にだけ流れたらしく、今は時事問題のあれやこれやについて、コメンテーターがテレビの奥で熱く語っていた。

「なんか……状況が前進したのか、状況が停滞していることが分かっただけなのか、よく分かりませんね。あー、疲れた」

 カウンターに腰掛けるなり、タカナシが腕を伸ばしながら言った。両腕の関節や肩がバキバキと音を鳴らした。まだ二十代だろうに、俺より年寄りみたいだ。

 ついでに首を回したタカナシは、壁に貼り付けたメニューを一望する。俺もメニューを眺めながら、今までのことを整理した。

 ニシムラ・リュウジは『自分の気持ちを確かめたい』という理由で、夢原にマップの作成を依頼した。俺とタカナシ、そして作成者である夢原は、『マップには縛られていたものに対する開放感はあるものの、高揚感はない。それどころか、もの悲しさすら感じる』という見解でまとまった。

 発達障害の姉の世話から解放されたのだとしても、マップを破り捨てた理由が分からないし、タイミングも辻褄も合わない。

 さっきは失踪した被疑者は開放感に満たされ、どこかでのうのうと生きていることに対して、一抹の怒りと危機感を覚えたが、これもタイミングを考えると、やはり辻褄が合わない。

 となると、問題は事件前日ではなく、事件当夜に集中する。あの夜、あの二人に何が起こったのか。

 ニシムラ・リュウジが確かめたかった『自分の気持ち』が、俺と同じものだとしたら。

「タカナシ。お前に兄弟はいるか?」

「いえ、一人っ子です。ちなみに言うと母子家庭です」

 注文し終わったタカナシに話しかけてから、はたと気付いた。俺はタカナシの、部下以外の顔を知らなかった上に、失礼なことを聞いてしまった。

「そうか。聞いてすまなかったな」

「全然構いませんよ。ウチの両親はどっちも血の気が多くて、売り言葉に買い言葉で円満離婚しました。どちらも手は上げませんでしたけど、口喧嘩とか、中指を立て合って牽制し合うとかは日常茶飯事でした」

 あっけらかんと「そのおかげで離婚裁判は短期間で終わりましたけど」と言う、タカナシの神経の図太さと、上司にも臆しない態度の理由が分かった気がした。タカナシの話のどこに『円満』の要素があるのか、過ぎたことは詮索しないに限る。

「急にどうしたんです?」

「今回の件は姉弟絡みだからな。なんとなくだ」

「じゃあ、次はおじ様のご兄弟のお話が聞きたいですねー」

 後ろから夢原らしき声が聞こえたようだが、空耳だと信じて塩ラーメンを注文した。

「シクシク。タカナシさん、おじ様にスルーされました……私、なにか失礼なことしましたか?」

 泣き真似でタカナシにすがる夢原もそうだが、「今日のホズミさんは虫の居所が悪いんですよ」と平然と返すタカナシもタカナシだ。この二人はどこまで似ていれば気が済むのか。

 三度目の嘆息の後、仕方なく夢原を見遣った。

 水色のジャンパーに白いタートルネック。裾に白いボアが付いたショートパンツ。黒い編み上げブーツを履き、髪は束ねずにおろし、頭にうさ耳のような水玉模様のバンダナを巻いていた。

「おじ様、どうです? 可愛いでしょ?」

 さっき浮かべていた微笑みとは真逆の、醜悪な笑みを前に自分の顔が引き攣るのが分かった。タカナシは夢原の笑みに気付いていないか、お得意のスルーで「可愛いですよ」とコメントしたが。

「んふふ、ありがとうございます。おじ様はいかがですか?」

「自分で自分のこと可愛いって自覚のある奴に、今更『可愛い』って言ったって意味がないだろ」

 注文の塩ラーメンが来たので、割り箸を割って早々に食べ始めた。

「本当、今日のおじ様は虫の居所が悪いですねー」

 人のことを仕方がない子みたいに言うなと思いながら、タカナシの隣に座ろうとする夢原に釘を打つ。

「夢原。飯は単品で頼めよ。トッピングはなしだ」

「えっ、なんでですか!? ここのラーメン屋さんは初めて来ますけど、メイン料理よりトッピングの方が美味しかったらどうしてくれるんですか!」

「どうもしねぇし、店に謝れ」

「それ分かりますよ夢原さん!」

「お前は黙って食ってろ。巡査部長昇格祝いだ」

「ありがとうございます!」

 タカナシは注文した豚骨ラーメン(チャーシューと味付け煮卵のトッピング付き)の前で箸を割り、夢原から羨望の眼差しを受けた。収拾が付いたところで、俺も飯にしよう。

 伸び始めた塩ラーメンに箸を伸ばしかけた時、懐の携帯が震えた。着信は、シバタ課長。

 タカナシに一言伝え、店の外で電話に出た。

「はい。ホズミ」

『ああ良かった。被害者のニシムラ・ハナが意識を取り戻した。昼飯時ですまんが、大至急タカナシと一緒に病院へ行ってくれ』

 電話越しの課長は息が荒く、事態の急転に慌てているようだった。了解、と短く答え、店に戻る。

「課長がなんと?」

「被害者が意識を取り戻したそうだ。すぐ病院へ行くぞ。夢原は俺とタカナシの分のラーメン食って大人しくしてろよ」

 タカナシがトッピングだけ口に放り込むのを見ながら、俺はカウンターに紙幣を数枚置いてコートに袖を通す。ようやく事件が動き出す。被害者の証言が取れれば、被疑者の居所も掴めるかもしれない。

「おじ様」

 慌ただしく身支度をする俺の耳に、夢原の声が凛と届いた。

「ご武運を」

 夢原の目はいつも真っ直ぐで、相手を射貫くというより、優しく包むような母性を感じないでもなかった。感じないでもないということは少しは感じているということで、断じて、けして全部そうだとは思っていない。

 ただ、俺も無益な殺生とやらは避けたいと思っているので、「ああ」とだけ返したが。


 病室での阿鼻叫喚は、無益な殺生とやらに入るのだろうか。

 俺とタカナシが被害者のニシムラ・ハナの元へ駆けつけた時には、被害者は鉄製のベッドフレームに自分の腕を打ち付けたり、手近のティッシュ箱を投げたり、看護師の制止を振り切って立ち上がろうとしたり。

 暴れている間中、彼女は弟の名前を叫んでいた。

「リュウちゃんっ、リュウちゃんどこにいるの! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ、あたしが悪いの! あたしが生まれてきたらリュウちゃんはっ、リュウちゃんはっ!」

 狼狽している他の看護師に聞くと、目が覚めてからずっと錯乱状態に陥っているのだという。

「ニシムラさんっ、ニシムラさん落ち着いてください!」

「リュウちゃん! リュウちゃんリュウちゃんリュウちゃんっ……リュウちゃ……」

 弟の名前を叫びながら、最後には力なく崩れ、彼女は膝を抱えてグズグズと泣き始めた。

 気分が悪い。腹立たしい。俺は奥歯を噛み締め、眉間に皺が寄せた。被疑者、ニシムラ・リュウジに今の彼女を見せてやりたかった。首根っこ引っ掴んででも。刑事であることを忘れてぶん殴ってでも。

「ホズミさん。もしかして……」

 状況を察したタカナシが俺に耳打ちをする。前言撤回。癖は強くても、有能な部下は持つものだ。

 首根っこ引っ掴むことも、個人的な感情でニシムラ・リュウジをぶん殴ることも、刑事である俺にはできない。

 それ以前に、暴力的なやり方では、この事件は解決しない。タカナシより先に前に出ると、被害者、ニシムラ・ハナの前に立った。

「ニシムラ・ハナさん。昨夜のことを教えてください。あの夜、あなたと弟さんに何があったのか」

 彼女はまだ目を覚ましたばかりだからと、看護師の制止が入ったが、タカナシがうまく収めてくれたようだった。

 被害者は膝から顔を上げると、「リュウちゃん? リュウちゃんがどこにいるのか知ってるの!?」と俺に食ってかかった。

「現在捜索中ですが、今のところ手がかりがありません。あなたの証言にかかっています。お辛いでしょうが、思い出せることから話してください」

 彼女の嗚咽の上に俺の声が乗った。俺の言葉が終わると、彼女の嗚咽だけが病室に響いた。

「リュウちゃん……リュウちゃん、は……あたしに言いたいことがあるって言って……」

 ニシムラ・リュウジは事件前日に夢原の作成したマップを入手しており、昨夜の時点で自分の気持ちを確認済み。俺の読み通りであれば、すぐ彼女に自分の気持ちを伝えただろう。

「もし……もし、姉さんのこと、愛してる……って言ったら、どうするって?」


 驚くような、息を飲む音がした。俺は無視して質問を重ねる。

「それで、あなたはどう答えましたか?」

 俺の質問に、被害者は力なく項垂れた。

「そんなことっ、言われたことなくて……なんて、答えていいかっ、分からなくて。頭の中が真っ白になっていたら……リュウちゃんが、持っていた紙を破って、出て行っちゃって……あたしっ、なにがなんだか分からなくて! またパニックになって、気が付いたらここで寝てて……」

 隣室の住人も証言していた。ドアが激しく開いた音と、何かがぶつかる音が数回。ニシムラ・リュウジが部屋を飛び出した音と、パニックになった彼女が、自傷行為や部屋の物にあたった音。

「弟さんが紙を破り捨てた後、あなたと弟さんは、なにか言いませんでしたか?」

 隣室から聞こえたという、二人の言い争うような声。たとえば、パニックになった彼女が口走った言葉を、ニシムラ・リュウジが否定して叫んだとか。

 俺の質問にハッとなった彼女は、顔をくしゃくしゃにして涙を流した。

「あっ、あたしなんてっ、あたしなんて生まれてこなきゃよかったのに! お父さんにもっ、お母さんにもっ、リュウちゃんにもっ、迷惑かけなかったのに! でもっ、リュウちゃんに、『そんなこと言うな!』って、言われてっ……あたしっ、リュウちゃんから、愛してるって言われてっ、嬉しかったのに……どうしようっ、リュウちゃん……」

 俺は、この日初めて深呼吸をした。肩の力を抜くように、やはりそうだったかと、自分で自分に納得するように。

 彼女に付き添っていた看護師に謝罪すると、踵を返して病室を後にする。後からタカナシの足音が追ってきた。

「ホズミさん。あのっ、被疑者が加害者に伝えたことって」

「タカナシ。もうあの二人を被疑者だの加害者だのと呼ぶな。これは事件じゃない」

 やっぱり事故ですねっ、と言うタカナシの声が自然と弾んでいた。これは事件ではないが、今は精神面苦痛を与えられたことから、傷害事件に発展する場合もある。それも、二人が話し合って決めることだ。俺達は裏方に回って動いていればいい。

「あとはニシムラ・リュウジが戻ってくればだが」

 俺がエレベーターの下ボタンを押すと、タカナシが「捜さなくていいんですか?」と聞いてきた。

「ドラマであるだろ。犯人は、必ず現場に戻ってくるってな」

 別に対したことを言ったつもりはないのだが、タカナシから拍手をもらってしまった。

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