その兎、絵描きを溺愛中につき。

ごとうろくらく

第1話

 空木楚良うつぎそら、20歳。大学中退で何とか拾って貰って入社した会社が、たった二ヶ月で倒産というのは何の冗談だろうか。


 たった3人の小さなデザイン事務所で社長も他の社員も人当たりが良くて、仕事的にも安定している様に見えたというのに。

 社長から土下座の勢いで謝罪をされたが社員2人のうちの1人が事務所の中身を全て盗んで逃げた、なんていうのは流石に如何ともしがたい。

 取引先への補填やらもそうだが、何より情報漏洩に対する様々な後始末の方が所長の身を削ったという方が正しかっただろう。

 セキュリティ対策が甘かったと本人は言うが、楚良に言わせれば最低限備えはしていたと思う。もし何かが足りなかったとしたら当該社員のモラルでしかない。


 元々仕事も減らし気味だったしねと温和な様子で告げた所長に文句は無いが、後始末が終わってしまえば無職である。

 短い安定収入だなあと思って居たら、その社長が保管してあった履歴書をそのまま超大手のデザイン会社の知り合いへと持ち込んだらしい。

 大手は仕事が大きすぎるし映像もあるから嫌ですなんて言おうとも思ったが、どうせ通らないだろうと思って居たら一週間も経たない間に面接をしたいから来てくれという連絡が来た。


 で。

 久しぶりのリクルートスーツなどに袖を通して、とりあえず自分が今まで手がけた仕事を纏めたファイルなどをビジネスバッグに押し込んで、少し緊張しつつ会社に出向いたのが多分今の職場の人間との初対面の日だ。

 そして、面接用のブースで課長だとかいう金髪の男性に机に額が付く勢いで頭を下げられたのも。


「……大変失礼ですが、今何と」

「悪い、本当にお前が面接に来るって忘れてた身で申し訳ないんだが…っ。入社前にちょっくら徹夜していってくれないか!?」


 本当に大変失礼ですがもう10回ぐらい言ってくれませんかね、と言いたい気持ちを我慢した。

 この会社のコンプライアンスはどうなっているんだろうか、とか、さっき机にゴンって言ったがこの人の頭大丈夫なのかな、とか。余りの言葉の衝撃に様々過ぎって、そしてつい頷いてしまったのが運の尽きだと思う。


 教育の暇なんか無いと皆が言うのに前の事務所はソフトなどは互換性がある筈と無理矢理押し込まれたが、実際の仕事は殆どが仕上がったものの校正やら何やらが中心だったからさして迷う事も無かった。

 まだ面接も終わっていないのに、首に来客カードがかかったままだというのに、気付けば死屍累々の事務所で朝を迎えていた時にこの事務所への入社は辞めた方が良かったと思うべきだったのだけれども。


 後でまた連絡すると分厚い封筒を持ってオフィスを出て行った金髪男にまあこれは上手く使われただけだなと思いながらも、大手の仕事も楽しかったなととりあえず死んだ様に眠りこけている社員の後始末と後片付けを必要最低限だけしてから帰ったのが超大手には受けたんだろうか。


 家で飼っている兎と共に次の職場でも探そうと求人雑誌を捲っていたところ、次の日に連絡が来た。余りにも急なものだったから課長本人からでなければ疑っていた所である。

 色々手順を吹っ飛ばして悪いが入社の手続きが終わるまでに関わらず、できる限り出てきてくれないかとか何とか。

 合否はどうなんだとか、人間としてどうなんだとか、会社としてはどうなんだと思ったが、出てきてくれではなく、くれないかという所に一応の着地点を見たので分かりましたと言ってしまったのが運の尽きなんだろうか。


 それとも、棚からぼた餅だったんだろうか。


 始まりは酷いものだったが、それでも今の職場に馴染む時間を省いてくれたと思えばそれなりに良い始まりでは無かったんだろうかと思う。

 大手デザイン会社デザイン課なんて本当に自分の経歴では望むべくもない様な花形だし、激務だというのは知っていた。

 入社しているのかしていないのかよく分からない、未だに社員証が『来客』なのに、何故か右上にうつぎ、とひらがなのシールがいつの間にか張られていた様な状況で。


 流石に中途は採用し難いだろうし、駄目なら駄目で次を探さなければならないので早くお返事が欲しいものだと思いつつもそのままずるずると月日が経って、来客用のカードがもうすっかり楚良のトレードマークになってしまった頃だった。




 首から掛けた社員証に記された会社名は大学時代の皆の憧れの会社名が記されているな、等とふと思い出せば合縁奇縁というのは本当に存在するのだな等と他人事の様に思った。

 目の前のPCには仕様書やら企画書やら仕上がったデザインが横並びに表示されていて、惰性で握っていたペンタブの先が再びちょこちょこと動いて数字の一つを修正する。

 PCの端に並んだ付箋の一つが落ちかかっているのに気付いてそれを張り直せば、まるで羽の様に並んでいるな等と余計な事が過ぎった。


 忙しい、を仕事にすればこの様になるんだろうか。定時で帰れる事もあるが殆どがラッシュアワーを過ぎてからだし、大手なのに朝日を見たことが数回あるというのは何の冗談だろうと思いながらも、やりがいと言われればその通りだ。確かに体力勝負だとデスクにおかれてある兎の描かれたマグカップをペンで軽く叩いた。


「空木!」


 広いオフィスはガラス壁で営業部の方と仕切られていて、その中央にどちらからも入れる形で会議室が設えられている。その中に金髪の課長――――羽柴が入ったのが5分ぐらい前だったと記憶している。


 音の漏れないその作りに特に興味も無かったが随分難しい顔をしているのはガラスでは隠せない。


 名を呼ばれ迷いもせずに立ち上がった楚良が会議室に向かえば、そこにいた影は一つではなく僅かだけ瞳を細めた。


 自分の部署の人間では無い、だが楚良でさえその名前を知っている。営業部のエースであり、その部署の課長。名を一條貴之、整った容姿の営業職に相応しく爽やかな黒髪の男性は会社の女性達の憧れの的だったので近寄らない方が良いと記憶している人物だった。


「お呼びでしょうか?」

「今の仕事何時間で終わる?」


 失礼しますと規定通りに告げてから部屋の中へと入れば後ろでドアが自然に音も立てずに閉じた。

 入り口に一番近い椅子へと羽柴が腰を下ろし、それを横から見る形でドア付近に楚良が立っている。一條は丁度羽柴の近くの椅子から立ち上がった所。


 問いかけるその言葉尻に重ねる様に羽柴が声を掛けたのは余程の急ぎ、この手の対応にも慣れてきた。


「チェックだけですが量が多いので一時間半と見ていますが」

「20分ぐらいで終わらないか?」

「魔法使いでもない限り無理ではないですかね」

 自分が告げたのが30分程度なら兎も角、一時間をどこに置き忘れてきたんだと言わんばかりの声が掛かって思わず楚良が溜息と共に吐き出した。


「お前案外魔法使いじゃないか。表記差し替えなんだが三時までなら修正可能だって印刷所が言うんだが。2000項目超えてるんだよな」

「――――…午前ですか?」

「15時」

「そんな時間ではフリーでも私では…全員でやっても無理ではないですかね」


 ちらりと時計を見上げた楚良が残り時間の短さに思わず溜息を零すかと思ったがそれを回避、なるべく一條の方へと目を向けない様に言葉を紡ぐ。


「鳴海と一緒でも無理か?」

「鳴海主任は今、島根の案件を抱えているので動けなかったと思いますが」

「あー――――…やっぱり駄目だな、一條。全員でやっても15時までには上がらん」


 椅子へと大きく仰け反ったのは楚良と同じ様にスーツ姿ではなく、私服がデザ課の常だった。それを隣で立って見下ろしていた三つ揃いのスーツの男が、そう、と苦笑と共に言葉を返す。

 押しの強い無理難題ばかりの営業課でエースを名乗るのにしては、珍しく柔和な笑みだなと思ったのは、ちゃんと作業の工程を理解しているからだろうか。


「どこの仕事だったんですか?」

「先月上げただろ、ほら、仲居商事の。税抜きでいきたいんだと」

 その仕事には記憶があって確か税込みだか税抜きだかでとてつもなく羽柴が担当の営業ともめていたのを思い出した。

 羽柴は消費税が上がるか下がるか微妙な時期だし項目が多いし税率が変わったときにやり直したくないと言って居たが、上がらない方が濃厚だし其方の方が分かり安いと営業が強引にクライアントを口説き落として羽柴が折れた遣り取りが記憶にある。

 そう言えば昨日、やっぱり税率が変わると発表があって少し気にはしていたが。


「良いニュースと悪いニュースがあるんですが、どちらから聞きたいですか?」


 もう一度時計へと目を向けた楚良のその様子に首を傾げた羽柴が見やれば、同じ様に彼女もまた首を傾げていた。


「何だ藪から棒に。どうせなら悪い方から聞かせてくれ」

「今のチェックは課長にお任せしますので、倉庫に行ってきても良いでしょうか」

「一時間半の仕事を俺に押しつけるつもりか!?」

 ぎし、と音を立てて椅子から立ち上がった羽柴に、ええと楚良があっさり頷いて腰辺りで腕を組む。


「で、いいニュースってのは俺の残業代が稼げるぐらいなんだが」

「全部ではなくていいです、帰って来るまでで。仲居商事のお仕事なら、税抜きと新税率の税込みを併記してチェックが終わったデータを倉庫に投げ込んだ覚えがあるんですが」


「お前神だったのかよ」

 違います、等と楚良の口から自然に漏れて動きに黒髪が軽く左右に揺れた。


「端数が出る場合と出ない場合と、どの位視覚イメージが変わるのか見てみたかったのでこの間お借りしたんです、新税率だと綺麗に0並びだったので0が目についてしまうかなと。課長が税云々を言っていたのを思い出して」

「それで2000項目もやったのか。お前化け物だろ」

「神か化け物かはどうでも良いんですが、正規のデータではないですし他の誰のチェックも入っていなかったので倉庫の大箱に投げ込んでしまったんですよね。一時間あれば見つかるとは思うんですが…」


 あの状況は羽柴も知っているとは思うが、とてもではないが片付けのされている箱ではないし下手をしたら割れているなんて可能性もあるのだけれども。


「お前がチェック済みだと言うならこっちは10分もあれば充分だ。確かなのか?」

「徹夜が見せたリアルな幻だったという不運さえなければ」

「やっぱりお前を採ったのは間違いじゃなかったな。おい、うちの女神が何とかしてくれるらしいぞ?」

 まだカードが来客なんですけど等と危うく口から漏れそうになったが撤回して、調子が良いですねとさらりと零しておいた。


 どちらがより酷いかというのはさておいて、部署の扱いがあんなもので、空木の羽柴に対する遣り取りもそれに慣れてきているのは間違いがない。


 見れば一條が立ったまま楚良の方を見下ろしていた。顔が良い男は苦手である、しかも営業の女性社員から半ば脅されて近付くななんて言われて居るしなるべく自発的に近付きたくない。


「データを探すなら僕も一緒に探すよ。大箱って…何?」

「倉庫の一角にある業務用の人の入れそうな収納ボックスです。服が汚れますから一人で大丈夫ですよ、時間が勿体ないので行ってきますね」

 軽く頭を下げてその親切を断った楚良が、きゅ、とスニーカーを鳴らして小走りに近い速度で会議室を抜けた。


 途中自分のデスクの脇に置いていたノートPCを小脇に抱え、デスクトップの画面に羽柴にも分かり易い様に必要なデータを出して置く。

 羽柴も忙しいからどの程度やってくれるかは謎ではあるが、隣の席の主任の鳴海がちらと視線を上げて特に何も言わなかった。多分偏屈な方なのだろうと思うが言葉少なく締まった色使いを得意とする人間で楚良はその才能も含めた人となりを嫌いではない。


 少し出ますと報告代わりに告げればその片手がひらりと振られてそれだけ、楚良の項で結ばれた黒く長い髪が揺れてそのまま急ぎの足取り。

 資料室、倉庫、まあ魔窟の様な場所だ。楚良はデータの墓場だと思っているし、何処に置いたかの記憶はあっても上から上から重ねられているのに違い無いし。

 軽く走る形でエレベーターへと滑り込み、地下のボタンを押した。無駄に長いその時間で本当にぬか喜びで無い保障はないんだと思う。


 大箱の中なんてただ形式的に取ってあるというよりは、ゴミにするのが何となく憚られるから放り込んでおくという程度のものでしかない。今の様に勉強用だったり、途中で仕様の変わったもの等、雑多に放り込まれている。


 地下の入り口の警備室で鍵を貰って暗い廊下の奥へと歩きその扉の前へと立ち、迷いもせずにロックを解除した。

 古い錠は開くのにも手応えがあって開かれた扉の先は埃の香りと漆黒。ドア横のパネルを手で探り、光を灯すと同時に続く様に閉まる扉の音。


 思わずその中の様子に溜息を吐きだし広い部屋の中へと歩を進めて棚の合間を泳ぐ。本なのかファイルなのかよく分からない紙の詰め込まれてある棚が目的ではなく、高い棚のせいで光の届かない壁際が目的で、幾つか並んだ大きな箱にデザ課、とマジックで書かれてあった。


「空木さ、ん――――?此処にいる?」


 さて、と、その大箱の前に立って後ろの棚に立てかける形でノートPCを置いた楚良が一度大きく深呼吸をして咳き込んだ所で不意に扉の開く音と、そして声。

 棚で入り口の方は見えないが、その声は先程聞いたばかりのそれだ。


「此方です。何かありましたか?」

 入り口の方へと向かおうかと足を引こうとしたが、それよりはドアの閉じる音と部屋の中に踏み込んで歩く音の方が早かった。

 棚の合間を歩き、そして直ぐに楚良の居所を見つけたその長身に視線を向ければ、暗く汚れた部屋には相応しからぬ、きっちりとワイシャツを上まで閉じるネクタイとズボンと揃いのグレンチェックの濃い色のベスト。


「二人で探した方が早いと思うから」

「本当に汚れますよ」

「予備のシャツは持ってきてるから大丈夫だよ。……これ?」

 子供なら2,3人。大人でも中で足を縮めれば楚良ぐらいならば寝転がれそうなその大型の箱に一瞬その形の良い瞳が潜められて、ええ、とまた小さく頷いた。


「これですね。先月なのでまだ中身は入れ替えてないですし、この中に入れた記憶しかないので大丈夫だと思いますが」

 上がすのこになっていてそこから皆が要らないデータを投げ込んでいくから、その合間から見える箱の中身は影になっている。

 多分上の方まで詰まっているだろう、自分が投げた頃にはここまで上ではなかった様に思うが、多分横の法務やら何やらの箱が一杯になったので此方に入れられているのに違い無い。


 正規データならば綺麗な形で保存されるが、勉強用に持ち出したものなんてこの扱いでも過分だ。


 箱の金具を押し上げてそのまま蓋を開いて壁際へと凭れさせた楚良でさえ、その中を見て溜息を吐きだし、一條も少し躊躇した様だった。

 それも当たり前だ、ゴミ箱状態で放り込まれたディスクがバラバラになって重なっている。


「ケースを開いて、中に青い付箋の貼ってあるディスクがそうです。黒マジックで仲居テスト、と書いてあってシャチハタで空木が捺してあります」

「分かった。じゃあ始めようか」


 軽く腕を捲って躊躇無く箱の中へと手を伸ばした楚良に習う様に、男がシャツの袖を折り返す。

 先程は上着を纏っていたが今はベストに白いシャツ姿だから、本当に汚れてしまうというのに。


 薄いディスクの一枚一枚が中身の見えないケースに入っているし、それどころかケースにさえ入っていないものまであるし、紙も問答無用でねじ込まれている。


 埃の香りなのか、それとも紙の匂いなのか、余り良い香りでもないし。


 まるでゴミ箱だと楚良が思いながら手の届く段ボール箱へと腰を落ち着けた楚良に習う様に、軽く下を確かめてから一條も座り込んだ様だった。


「君の仕事もあるのに本当にご免ね?」

「急ぎの仕事は頂いていないし課長が請け負って下さったので大丈夫ですよ。しかし、どうしてこんなに時間がタイトに?」

 確かに印刷所の絡みはあっただろうが、もう少し早ければこんなことにはならなかったと思うのだけれどもと言外に含ませたが、楚良の視線は上がらなかった。


「僕のチェックミス」

「部下のフォローも大変ですね」

 自分のせいだと漏らす一條に顔さえ上げずに告げた楚良に、一瞬だけ男の視線が其方へと向いた。本当に一瞬の事で楚良さえ気付かない間にそれが下ろされる。

 羽柴との遣り取りや営業の担当者を正しく記憶しているのだろうなのがその短い言葉からでさえ理解できた。


「羽柴が君の事褒めてたよ、器用な子が入ったって」


「徹夜が出来るかどうかだけなら器用なんですが、それ以外は言われる程では。ただ、私には望むべくもない職場なので、本当に有り難いとは思っているのですが」

「元々前園事務所にいたんだっけ」

 次々と手元にディスクを積み上げながら、ケースを開いては閉じるを繰り返して居れば指先が乾いてきたと余計な事が過ぎった瞬間に、一條の口から前の職場の事が漏れれば今度は楚良の視線が上がる。


 入れ違いの様に、また一條が気付く前にそれは直ぐに落ちてしまった。

「幾つか仕事を下ろしてたから知ってるよ」

 知っていたのかと彼女が問う前に話題の提供の様に唇から漏れる。成る程羽柴の下請けの形になるのかと思えば、本当に良く彼が採ったな等とも過ぎった。


 本当に残念だ等と一條が告げればそれには同意する、是非再開してほしい等というのは彼の社交辞令なのだろうか人付き合いの乏しい楚良には判別がつかないので、当たり障りの無い会話を選んで返して行く。


 箱の中央付近まで調べれば積み上げられたディスクが辺りに幾つもの塔を作っていて足場さえ見つからない程。


 一度スマホを取り出して時間を確かめたのは残り時間を正しく知るためで、後30分で見つかるんだろうかと立ち上がって中を覗き込んだ楚良の隣に、緩んでいたネクタイへとさらに指を入れながら並んだ一條が同じ様に中へと視線を落とした。


「一條課長って兎を飼ってらっしゃるんですね」

「えっ」

 さらりと楚良が漏らした言葉に思わず一條が目を丸くしてその姿を見下ろす。何で、と、口にしようとした瞬間、嗚呼!と大きな声がその女から上がった。

 腰高の箱へと腹を付ける形で片足を浮かせつつ、楚良が中から一枚のディスクを半開きになったケースごと引きずり出した。


「ありました!!ありましたよ、一條課長!!」


「え、あったの?えっ?」


 一瞬虚を突かれた形になった男の隣でケースを開き、読み取り面を確認する。付箋を剥がして立てかけてあったノートPCの側まで塔を避けながら歩いて、片腕で支えながらその画面を開いた。


「開いていたので…無事であれば良いんですが」

 直ぐにスリープから立ち上がった画面を見つめながらドライブ部分を開いてディスクを丁寧にセットし、祈る様な瞳でその中身を見つめる楚良の手元を同じ様に一條が見つめた。

 画面に直ぐにファイルが展開され、その中身を確かめる。


「あたりです!データも無事みたいです。――――課長に持って行って下さい、すぐにチェックもしないと」

 再びドライブを開いて片手で器用にノートPCを閉じた楚良が足下へと置き、近くの塔から空のケースを1枚取り中へと納めた。

 そして隣の男へとどうぞとばかりにそれを押しつける。


「此処は片付けておきますので、課長に届けて頂いてもよろしいですか?」

「嗚呼――――…うん、ありがとう。本当に助かるよ」

「お礼は無事に納入が終わってから、で」

「そうだね、……あの」


 さて此処の片付けはもう一度中へと全部纏めて放り込むべきか、それとも少しは片付けるべきかと一條から視線を外した楚良が溜息を吐いている様に掛かった声は戸惑いがちで、何とばかりに楚良が首を傾げた。


「嗚呼、いや。何でもない。本当にありがとう、直ぐに届けさせてもらうね。片付けまで手伝いたいけど直ぐに出なきゃいけないから」

「全部放り込むだけですから。良い結果になるといいですね」

 僅かに微笑を浮かべた楚良に有り難うともう一度零した一條が腕をまくり上げた格好のまま棚の中を急ぎ足で過ぎて行く。角を曲がる時に一度振り返ったのが何故か名残惜しそうに見えて、何を言いかけたのだろうかと楚良が首を傾げたままで居たが、それで予想が付く訳でもない。


 心が読めれば良かったのだけれども。


 全部纏めて放り込むのはとりあえず辞めよう、感謝を表す為にそれなりに片付けようと丁寧に詰め直して見れば半分ほどの高さになったのでそこで満足。スマホを見ればまた30分ほどが過ぎていた。

 埃を払っても黒く擦れた様な汚れは残ってしまっていて、まあ退社時には上着でも着れば良いだろうと適当に考えた。

 手だけを洗って戻ってみれば、羽柴が嬉しそうに手招いている。


「終わったんですか?」

「修正部分も無かったからな。これからはお前に全部校正を頼む事にする」

「辞めてください時間がいくらあっても足りないではないですか。…仕事、やっていただけたんでしょうか?」

「鳴海に押しつけておいたから褒めてくれ」

「ちょっと辞めてください殺しますよ」

「冗談だ、あらかた終わってる。お前たまに過激だよな――――普通一條と二人きりの作業なんてもっと心躍って上機嫌になるものだろ?」

「殺した後で埋めて差し上げます。高そうなワイシャツが埃まみれでしたよ、だから一人で良いと行ったのに、人前に出るのが仕事の方を汚してどうするんですか」


 勤続日数の割に随分気安いのは全てこの部署のせいだ。楚良だけではなく、皆が羽柴には気安い口を聞いて死ねだの殺すだの言うのも最早恒例だった。

 新入社員だとか新人だとかいう丁寧な扱いは、初日の徹夜強要で部署全体から失われてしまった。楚良はあの日からもう彼らにとっては貴重な戦力である。


「課長の服を汚せなかったのが心底心残りです」

「そんな可愛い口をきく空木に新しい仕事をやったからメールを確認しておいてくれ」

「今日は帰れるんですか?」

「ちょっと今日が終わるぐらいで何とかなるさ」


 本当に羽柴は爽やかな笑顔でクソみたいな事を言うとは楚良の口からは漏れなかったが、多分聞いていた人間は全員が同じ事を思うのに違い無い。

 軽い溜息と了解しましたを一緒に口に出した楚良がデスクへと戻れば画面に幾つか修正が入っていた。チェックマークは下まで埋まっている。


 人となりがどうこうは言及できないが、やはり羽柴の技術とセンスには脱帽する。隣のデスクをちらりと見れば鳴海が机に突っ伏していた。

 課長に真横に居座られてちょっかいでも掛けられたのか、片付けられていたファイルが乱れていて悪い事をしたと思う。

 メールを開けば営業部からの修正依頼メールがそのままコメントもなく転送されていて、思わず気が遠くなるかと思った。コメントがあった所でどうせ冗句が書き連ねているだけだと思ったのでこれはこれでありだなと考えておく。この位のポジティブさがないと羽柴の下では多分働けない。


 ふっと視線を巡らせれば自分の机の端に重ねてある書類の合間に小さな紙を見つけた。

 見れば表に一條貴之と記されていて引き出してみれば名刺だと直ぐに理解に及び、何でとその裏側を確認せば今日の礼がしたいから仕事の終わりの時間を教えて欲しいという風な事が書かれてある。


 ああいう人は断られるかもしれないとは思わないんだろうかと思いつつ、それは書類の合間に角も出ない程きっちりと納めて気付かないふりをしておいた。

 会社の女性社員に見つかるととても煩い。


「空木…ガムあるか」

 気付きませんでしたという体で行こうと心に決めた瞬間、隣から死にかけの声が掛かって顔を向ければ突っ伏していた鳴海が身体を起こした所だった。

「この間のは食べきりました?ブラックブラックで良いでしょうか」

 昨日まで彼のデスクにもあったと思ったが、余計な詮索には答えが返ってこない。引き出しの中程に詰めてあった食べかけのガムボトルを取り出して蓋を開き其方へと差し出せば、ボトルごと取られた。


 最早通例で気にさえしない。


「今度返す」

「ピーターラビットの限定タンブラーがポイント交換にありました」

「………溜まってたらな」

 彼のコンビニユーズはヘビーである。それで幾つかおこぼれを貰った事を思い出し、今回も期待をしておこうと思った。


 さて、じゃあ始めようかと息を吐き出してキーへと手を置く。ちら、と視線を上げればガラス壁の向こうに営業課、その課長の席は空席で楚良は小さく溜息を吐いた。

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