第10話―増える目
「あなた、人間の世界に戻りたいとは思わないの?」
Pansyは答える相手を見定められず声が詰まった。
Pansy自身のスープ作りを手伝ってもらう間に、Irisという名前の人格が交錯していたからだ。
追放促進行為によって年長者を立てる未成熟のトビヒ族。
女衆の陰に身を潜める不出来な一体。
トビヒ族を代表するガーディアンとしての
偽善にかこつけて境界に踏み入りたがる反逆者候補。
どれがPansyにとっての
Pansy自身の気持ちに従った答えを見出すこと自体の方が百倍も簡単だった。
不正解がIrisに嫌われる材料になったところで、女衆でのPansyの立場がこれ以上悪くなることはないからだ。
「気を遣わないで。今グリーン・ムーンストーン様は眠っていらっしゃるから」
「そういう問題じゃ……」
Pansyの喉奥に風の異物が突き刺さった。どんな理由であれCocoを気にかけていることはIrisにお見通しだった。
Irisの本音を引き出すまでは、Pansyの独り立ちを助力となる保証がない。
「大丈夫よ、Pansyならどんな言葉でも耳を傾けるから」
Irisは両手でPansyの頬を包み、自身と同じ裸眼に距離を詰めた。
そこでPansyはこの場に最適な返答を見出した。
「わ、私には目が足りません」
「え、Pansy?」
Irisは両頬を包んだまま、親指の腹でPansyの両目下をなぞった。
「目ならあなた、ちゃんと二つあるじゃない。それとも実は片方見えていなかったりするの?」
「そういう意味ではありません」
PansyはIrisの察知を待たずに言葉の盾を産み続けた。
「故郷を出たとき、私は十二歳でした。向こうでは掟のことを法律と呼ぶのですが、その法律では報酬を得る仕事を禁じられている年齢です。将来働くために、仕事に見合った報酬を得るためにしっかり勉強する期間です。ここでは……知っての通り私には今後の生き方を決める判断材料が少なすぎます。さっき私が言った目とは、すべての物事を決める情報源のことです。私はまだ十分に見ていないので、この場で答えられないのです」
Pansyが息切れすると、Irisの両手が滑り落ちた。
「——よく分かったわ。あなたがOliveよりもずっと機転が利くことも、私がフラレたこともね。だからこそ余計にあなたの力になりたいの。だからこそ今日はもう一つ聞かせてね」
「何をですか?」
「っと、その前に」
Irisは川から水を汲み、鍋の火を消した。Irisが出張先で自分の世話という経験をしていなければ、沸騰に気付く前に鍋の水分がすべて蒸発するところだった。
「しばらく時間を置かないと、舌がマグマになってしまうわね」
「助かりました」
Pansyは表面の感謝とは裏腹に、Irisが鍋に被せるように水をかけてくれたら、と願っていた。穢れなき善意を見出せない限り、Irisが関わった料理を本人の前で食する気になれないからだった。
加熱前より半分も水分が減ったスープは本来の姿の群れに寸志すると心の内で決めて、Pansyはもう一度尋ねた。
「それで、結局何を知りたいのですか?」
「そうね、焦らしている場合ではないね。Pansy、あなたはどこまで変化を知った上で、グリーン・ムーンストーン様のお傍にいるの?」
「どこまで、とは? それも焦らすと言うはずですが」
Irisが年少者への対応を抑えた代わりに、Pansyは
ガーディアンですらない表情は、Pansyが偏見の対象でないこと以外は、何も読み取れなかった。
「このままだとあなたが濡れ衣を着せられるのは時間の問題よ。グリーン・ムーンストーン様のご意向を優先するならば、あなたはまず逃げることも選択肢に入れるべきだわ」
「Co……否、グリーン・ムーンストーン様のご意向だなんて口にするのは、逆にIrisさんこそ何をどこまで知っているのですか? あなたが出張でこの杜を離れている間、杜の子どもはもちろん、ガーディアンでさえ一人もグリーン・ムーンストーン様にお会いしようとしませんでした。私が母とこの杜に入った日、あなたは立場が上であるはずのグリーン・ムーンストーン様より、Oliveのお父さんを優先していた。Oliveですらたまに的を外れたことを言うのに、そのズレた自信はどこから湧くのですか?」
「それを言われたら……」
「——Pansy? いるのか?」
虚ろな声に応えるよりも先に、IrisがCocoの前に傅いた。
「グリーン・ムーンストーン様、お休みのところ大変失礼いたしました。このIris、ただいまアジア大陸の杜より戻りました」
「その声……ガーディアンの、Pansyを初めてここに連れてきた娘の一人か? そうか、遠くに出向いておったか」
「さようでございます。つきましてはこのIris、貴女様に謝罪させていただきとうございます」
Cocoは草の上に顎を乗せたまま、細長い溜息を零した。
「——何をだ?」
「すべてでございます。このIrisがこれまで申し上げたこと、貴女様への傲慢な態度、ガーディアンとして行ったことの懺悔を、示すべきどのような方法であれば貴女様のお力となれるでしょうか?」
「それは、本当にお前がするべきことか?」
「失礼ながら、なぜそのことをお聞きになるのでしょう?」
Cocoは顎の角度をわずかに変え、草に着けていたIrisの左ひざから背けた。
「お前は、お前の意志を全うすればよい。この老いぼれを立てる必要など……ない。意味は言うまでもなかろう」
「はい、グリーン・ムーンストーン様」
Irisは立ち上がり、Pansyにしなやかな背中を見せた。
「このお方のお食事を……違うわね、食事もどきを納得できるまで調べるといいわ。調べた結果が数少ない判断材料であっても、あなたにとって強力な目となるはずだから」
Irisは最後にPansyの顔を見ずに、木々の中に溶け込んだ。神跳草の弾力音は近くても、Irisの心が欧州大陸の杜に留まっていないと、Pansyは感じた。
PansyはIrisの腕を掴み引き留めるべきか迷っていた。Irisの立場を考慮してPansyと再会しなかったことにするべきだと、棘の生えた思考では理解していた。
それでもCocoとの関連を紐付けた謎かけを残されて、PansyはIrisを真新しい記憶から消せなかった。
「Coco様、朝ごはんの残りはどこに隠しているの? そういえば最近、いつもお腹を伏せているよね? 見せて」
CocoはIrisには雄弁だった口を隙間なく閉じて、Pansyにも顔を背けた。
「Coco様、女同士のここだけの秘密にしてあげるから。お利口にして、ね?」
Pansyが毛並みを撫でると、Cocoは観念してわき腹を傾けた。完全に腹を見せるまでの間、Cocoは口を閉じたまま嗚咽を抑えていた。
「ありがとう、Coco様。お腹、あとで綺麗に洗おうね。女の身だしなみだもんね」
Pansyがわき腹を撫でても、Cocoは頷かなかった。Pansyにかからないよう牙の隙間からむせる息を吐きだすので精いっぱいだったからだ。
「三、四……五、葉っぱのお皿がこんなに。Coco様、お腹洗ったら花の油も塗ろうね。こんな鼻が破裂しそうな
Cocoが一口
Pansyが異物に触れようとすると、Cocoは左の前足で手を振り払った。運動とすら呼べない一動きですら、Cocoは息苦しく喉を詰まらせている。
「——ちょっとだけ我慢してね」
PansyがCocoの左瞼を指で開くと、涙で柔らかくなった目ヤニをもう片方の手で払い隠れた色彩を覗き込んだ。
「そんな……!」
もえぎ色の色彩は水で
PansyはこれまでCocoが声のする方向で同胞の立ち位置を認識していたことに気付いた。
「でも、いつから? どうして?」
Pansy以外でCocoと深く関わったトビヒ族は一体のみ。
より親密なPansyに悟られず、確実にCocoを弱らせられるほどの器用な同胞といえば、一体と言わずとも名前が正確に思い浮かんだ。
「まさか、こんな酷いことを……」
そのとき、市井がある方向から薬草と肉の香ばしい匂いが木々の隙間に漏れていた。
「Marron、今日は何か祝うのか? Azaleaが張り切っているって、うちの嫁が言っていたぞ」
「何かどころか、祝うことばかりだ! 前祝いも兼ねると、そりゃあAzaleaも腕によりをかけるってもんよ。馳走の数だけおめでたいんだからな」
Marronの声は初対面のときと比べ物にならないほどに大きく張りがあり、気が大きくなっているのが分かった。その姿を見なくても、葡萄酒を大量に飲んでいることも木々が隙間から教えてくれた。
「そうだろうよ。今の今だってIrisを処分したばかりだしな。あいつ、出張から戻った途端生意気になりやがって。腕だけは将来見込みがあったんだが」
「まったくだ! 子ども好きも度が過ぎると、種族に見境がなくなるのかね。俺には理解できん」
「そういえば確かに矢で射抜いたのに、Irisのやつまったく血生臭くなかったな。俺らトビヒ族の中でもこんなこと滅多にないんじゃないか?」
「あいつも最終候補の一人だったから、そういう意味では何の不思議でもないかもしれん。ま、女の身で半人前ガーディアンの立場に甘んじていたことだけは褒めてやらないと、あいつや両親も報われないだろう」
木々の狭間では男たちが犯した罪に反し、葡萄酒は宴の臭いに変わり杜の空気に充満していた——正義をはき違えた狂気で。
Pansyと関わった者が殺害されたのは二度目だった。人間の世界ではAoiが、欧州の杜ではIris、Pansyと別れたばかりだった。
Pansyの赤毛一本分より細いスパイスの残り香は、Marronや彼を取り巻く男衆が嘘をついていないことを証明していた。
「ったく、あのヨボヨボババァは四本足から転身する力も残っていねぇってのに気張ることよ! あれが生まれたせいでトビヒ族の秩序が狂っちまったのを分かっているはずなのに、未だに族長の座にしがみついていやがる」
「曾祖父さんの話だと確か両親は生粋のトビヒ族だったらしいが、覚醒には恵まれない血筋らしいな。唯一当時の最終候補だった祖母さんはあれが生まれる前に死んじまっているし。そんな環境で覚醒したところで、何も教わらずに育ったもんで暴走しまくったんだとよ」
「その話ならば俺も聞いている。ま、族長になったのは十八歳のときだっていうし、あの若さと認識で地上の杜全体と境界線の安全を持ち返した腕前は
「むしろ、当時は今とは別の意味で常軌を逸していたそうだから、同胞は渋々従っただけってことだろうな」
「そういう意味では俺たちは平和な時代に生きているな。だってそうだろ? あれはもうすぐご先祖様と再会できるんだぞ」
「だからって同じ土の中で眠れねぇけどな」
男衆が葡萄酒を飲み呼吸するたびに、彼らの性根が体ごと腐敗していることが分かった。
立ち並ぶ木々に隔たれているPansyだが、精神は男衆が肩で風を切る市井の中心に引きずられていた。
人間のテロ首謀者とほとんど変わらない思考に、Pansyは全身で嫌悪を感じた。
特定の宗教を妄信する人間と、一定の条件を満たしている自身に陶酔するトビヒ族。
異教徒であれば殺傷や強姦など人権の廃棄処分を厭わない男、女が自身の上に立つことを嫌う男衆。
神の御言葉という名目で狂言を正論とする上層部、過去の功績よりも同胞の汚点に着目する下衆。
神と自称する者はどちらも、Pansyの神ではない。
むしろ双方をこの世に野放しにする時点で、神の存在を信用できなくなっていた。
欧州大陸では幾度も一つの宗教につき複数の宗派で対立した国々の歴史が残っている。
大陸ごとに政府管轄が区切られた現代においても、個々の宗教観念でいがみ合う民は大勢いる。
人間の世界と大差ない環境で孤独にされたこと、大切な存在を傷つけられたと思うと、PansyはMarronたちに血塊を吐き付けたくなった。
「そうそうMarron、これは最優先で決めた方がいいんじゃないか?」
「ん、大至急ってことか」
男衆の一人がMarronの肩を抱いた。彼の肌はアーモンドの皮色だが、その場にいる誰よりも酔いが回っていることがはっきりと見えた。
「ったりめぇよ! あれがくたばるってことは……なぁ?」
「ああ、まだ息の根が止まっていないとはいえ、いつまでも実質の族長が不在だとまずいだろ。早く決めないとな」
「——は?」
Marronを纏う空気が急速に冷え、同胞を見下ろす眼差しがそのままされていた。
「え、何? お前らが族長にでもなれると思っていたのかよ?」
「Marron、どういうことだ!」
男衆は皆杯を投げ捨て、Marronに詰め寄った。
「ま、お前らには説明よりも証明が分かりやすいかもな」
「どういう意味だ! 上から目線なのも大概にしろよ、Marron!」
「どうも何も、別に俺自身が族長になるとは言ってねぇのに、血の気が多いこった。俺はな、あくまで代理だ」
「単刀直入に言えよ! ガーディアンの権力者だからって調子に乗るな!」
男衆の一人は、身近な木々が揺れるほどの声量で怒鳴った。Marronは他者の激昂すら楽しんでいて、自身より背の高い男を見上げるも人差し指で顎の下を撫でて鼻で笑った。
「だから今から証明してやるって言っているだろう? うちの天才、Oliveがよぉ」
その瞬間、Pansyの死角で何かが光り無機質な臭いが背中を突いた。
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