第8話―杜の太陽が沈むとき

『Oliveを次のグリーン・ムーンストーンにするためにも、まずは俺が今代グリーン・ムーンストーンにならねぇとな。間違った奴に気に入られている間違った人間もどきがこれ以上つけ上がるのは正しくない』

 PansyがOliveの故郷に移り住んで以来、父親のMarronが三度の食事と同じ頻度で声に出している。

 Oliveは物心ついたときにはすでに、Marronがガーディアン仲間だけでなく人型の同胞全体の主導権を握っていると把握できていた。

 どちらかといえば母親のAzaleaに似て単身で物事を進めることが性に合っていたので、Oliveにできないことを平然とやってのける父親を尊敬していた。

 幼いながら、Marronがグリーン・ムーンストーンでないことが不可解だったほどだ。

 十歳の誕生日、MarronからCocoの世話係を命じられた瞬間は思考が巡らなく返事に困った。

 彼女が今代グリーン・ムーンストーンであることはAzaleaから聞いたことがあるが、Oliveは欧州の杜で生まれ育ったにも関わらず一度も本人に会ったことがないからだ。

 Oliveの曽祖父や祖父が存命のころ、彼女は全大陸の杜を監督しに巡回してMarronよりも忙しかったようだ。

 先代までのグリーン・ムーンストーンたちが築いたハナサキ族との同盟がなくなり、自らの四本足ですべてを見てきたので、彼女を知らずに生涯を終える同胞がいても不自然ではなかった。

 理由はMarron自身も知らないと言われたが、Cocoは年齢を重ね、拠点を欧州の杜に定めて以来人型への転身をしなくなった。

 どの同胞とも交流せず、上層部の指揮をも取らないが責任だけは受け持つ。何より歴代グリーン・ムーンストーンの中で唯一女性である。

 Marronの命であれば内容を問わず従いたい気持ちと、トビヒ族として任務一つで自身が恥をかきたくない拒絶とで迷い、その日一日水すら喉を通らなかった。

『お前が嫌ならばこの任務は放棄させる。俺の一人息子の方がずっとずっと大事だからな。Oliveを守るためだったら父さんは何でもできる』

 十歳になって二日目の朝、Marronは目覚めたばかりのOliveに語った。

 Oliveは寝起きが悪く、Marronの表情を物理的に確認できなかった。

 それでも耳孔に響く声と解いていた髪を梳く手指の温もりでMarronの想いに偽りがないと感じ取った。

 敬愛する父親に恥をかかせるくらいならば、と髪を梳く手を握りOliveが不名誉を引き受けることを懇願したことが昨日のことのように鮮明だ。

 それから二年、OliveはCocoをとして理解しようと最善を尽くした。

 初対面の彼女は子供が相手であっても不愛想だったが、何事も動じることがなくOliveの本心を見透かしていた。

『自分の意志で決められることであっても、父親への盲従を棚に上げて決定権を放棄するのか』

 二人きりになった途端彼女に言及され、その日はOliveの世話一切を受け付けてもらえなかった。

 この任務はOlive自身が引き受けると決めたことだ、と何日も訴え続けてようやく、彼女はOliveが採ってきた木の実と果汁を口に含んだ。

 あまりにも質素な給仕を繰り返すと、彼女は次第に水浴びの介助や体毛梳きまで許すようになった。

 Oliveの前でも昼寝をするようになり、ある日Oliveは目を閉じかけていた彼女に尋ねた。

『Coco様、失礼ながらCoco様は人型のお姿でお生まれになったのですよね。父から聞いたのですが、Coco様はなぜ何十年もの間、本来のお姿のままでいらっしゃるのでしょうか?』

 彼女はOliveの頭を余裕でかみ砕けるほどの大きなあくびをした。

『お前に流れるMarronの血は本物ということか。年を取るとな……色んなところが垂れて、しぼんで、皺やシミが消えなくなって、おまけに白髪が増えて不潔感が増す。これも聞かされていると思うが、私はアジア大陸の最東端出身で地毛が黒いからな。白髪とは髪質も感触も異質でな。この老いぼれでも一応死ぬまで女だから、みっともない姿は見せたくないし見られたくもない。お前が賢いことは分かっているが、女心までは不得手と見た。家ではAzaleaをも師匠にしたら良い』

 その直後彼女は昼寝に入った。

それから何か月経ってもOliveは女心を知ろうともせず、CocoもまたOliveにグリーン・ムーンストーンとしても、トビヒ族の一員としても彼女自身が抱える思いを一度も語ることはなかった。

 Oliveは純粋な知的好奇心のみによるものではないものの、彼女の本心を教えてもらえないことで、Marronの息子としても参謀としても役に立てられずに悔しい日々が続いた。

 同年代との交流がなく、Marronのように体格に恵まれたガーディアンになれる保証もなくトビヒ族の不名誉を抱えたまま生涯を終えることへの不安が募り、Oliveは十二歳になっても消化されないまま、Pansyと出会った。

 人間の世界で生まれ育ったと見受けられるPansyは同胞に関しては無知だが、Oliveを敬遠する同年代のような稚拙な思考の主というわけではない。

 Oliveと共通して親思いだが、自分の意志を持ち第三者にはっきりと伝える。Oliveに対しても遠慮がなく、説明への理解度が高いくせに個人指導を中断させない日はない。

 何より度胸があり、Cocoの本来の姿に驚きながらも人間の食べ物ケーキを食べさせた。

 杜の子どもたちのなかでは唯一Cocoに懐いたが、弱い立場を利用して媚びることは一度もない。

 Cocoもまた贔屓と庇護に明確な線を引いた上でPansyを可愛がっている。

 人間の世界を見てきた者同士、通じるものがあるのかもしれないと気付いてから、Oliveはあまりにも年上過ぎるを取られた気持ちで複雑になった。

 同時に、恐らく人間の血も流れているPansyをどうしても嫌いになれない自分にもいら立つようになった。

 所用でCocoの側を離れる際、女衆から孤立するSakuraを見かけても、本来の姿のしもべが昼寝している程度にしか感じなかったが、もしもPansyが同年代の同胞に苛められているところを目撃したらと思うとOliveの何かが沸騰した。

 二つの想いを認めたくなくて葛藤している間に、Oliveの覚醒が始まった。

 匂いを発し、誰も入ってこない自室では転身ができるようになった。世代が変わるうちに人型で生まれたトビヒ族は同胞の前で転身しなくなったが、今でも次期グリーン・ムーンストーン候補の判断基準として、転身する力は重要視されている。

 植物を操る力こそ現時点では見込みはないが、今のところ葛藤を続けるOliveの関心の対象ではない。

 Pansyの十三歳の誕生日が近づくとOliveの性的成長も顕著になりMarronに相談しようか悩んでいるところで、久々にMarronと口を利いた。

『Olive、の処分を始めるぞ。そのうちの一体をお前に任せたい』

 窓から月光を浴びるMarronは無機質な表情だが、自尊心の高さは小石一つ分も崩れていなかった。

『はい、あの……父さん、とは? そもそも僕がやって良いことなのでしょうか?』

 Marronが誰を指しているのかは察知したが確信はなかった。人間もどきのSakuraとPansyを「体」単位で数えるトビヒ族は一体もいなかったからだ。

 それとも何の罪もない同胞に手をかけ息子であるOliveをも道連れにするのかと思うと、Marronの精神衛生が心配になった。

『こんなときまで謙遜になるな。自分の子どもに遠慮されて喜ぶ父親なんていないだろう?』

『ごめんなさい。父さん、それで一体とは誰のことを……?』

 月光がMarronの裸眼の色彩を際立たせた。

『お前にはご老女、Cocoを任せたい。腕力が足りなくてもお前の知恵があれば方法なんていくらでもあるだろう。というか、これはお前にしかできない』

『——そんな、父さんは僕を買いかぶり過ぎです』

 Oliveは高熱で嘔吐するよりも喉が詰まり息苦しくなった。

 確かに知恵においてはどの大人にも負けない自信があり、だからこそ簡単に手を汚せるOlive自身と目の前で苦しみながら息絶えるCocoを想像したくもなかった。

『お前にこれ以上負担をかけたくないんだ。今まで本当にすまなかった。俺を許さなくても良い。俺が異端の二人を処分したところで何の償いにもならないが、せめてそれだけでも俺にさせてくれ。お前がグリーン・ムーンストーンになるまでもその後も、俺を後ろ盾にしてくれ』

 ただの親ばかな父親と正義のガーディアン、狂気に心を抜き取られた抜け殻の顔が一秒ごとに乱れることなく入れ替わる。

 Oliveは父親面する成人男性の正体が見えなくなり、自身の中にて息子を愛してやまないMarron、Oliveに反発ばかりするPansyが闇に溶けた。

 CocoのみがOliveの心臓にのしかかり、現実世界では存命であるが牙を剥き開眼したまま硬直した姿で闇を体毛に吸収していた。

 Olive自身の意識まで闇と一体化しつつあるCocoに奪われまいと四肢が痙攣している間、Marronは空の耳孔に洗脳を注いだ。

 体はそのまま眠り、翌朝目覚めるとOliveはCocoを憎み切れない自身を疑い続ける日々が始まった。

 Cocoが口にする果汁に毒性エキスを混入する際、一日一滴の量でも満たされない心と極限まで盛る量を抑えようと勝手に動く四肢がシンクロせず、Cocoに変化が見られないことで一層苛立った。

 CocoがPansyの遊び相手になっている限り、毒殺の罪を人間もどきのPansyに簡単に擦り付けられるにもかかわらず。

 Cocoに耳を傾けスケッチ・ブックに世界を与えるPansyが眩しくて、それでも完全に嫌いに離れなくて、Pansyの近くにいること自体が心苦しくなった。

 Oliveは同年代に敬遠されることに慣れ、成人しても同胞と距離を置く生活は変わらないと一種の諦めもついている。

 一方で自身が誰かを嫌いになることが苦痛で仕方がなかった。

 Oliveを取り巻く者を一体も失いたくない思いと、身近な女性に恨まれる覚悟とで揺れるうちに、Cocoの口数が減った。

 自身の手で命を削っている罪の重さと相まって、不完全な自身が存在していること自体に潰されかけた心を抱え、両親に隠れて本来の姿に転身し杜の木々に隠れる日々が始まった。

 本来の姿の方が移動しやすいと気付き、人型の潜在意識を捨てられると過大な期待を抱くころ、Sakuraが杜を去った。

 身なりを整えたSakuraに対し、Pansyは癖で余計に広がった赤毛を揺らし寝間着姿で追いかけていた。

「ママ、待って! 私何も聞いていないから、荷造りなんてしていないの。夜明けもまだなのに、どうして勝手に行っちゃうの?」

 子どもたる者は家長に従うべき。家庭概念は杜も欧州での人間の世界も共通している。

 Sakuraの意志一つでPansyまでもOliveから離れようとすることで怒りが沸き上がり、四本脚の爪が神跳草の表面に食い込んだ。

「Pansyは大人になるまで杜に居なさい」

「どうして? ママが出ていくのに、私一人でここにいる必要がある? ママは私のことが嫌いになったの? 私、お裁縫もお掃除も上達するように頑張るから! ゼリーくらい一人で作れるようになるから! 絵ばかり描かないでママのお手伝いするから、ちゃんとするから! ねぇ、置いていかないで!」

「Pansy! 家に帰りなさい!」

「嫌よ、私もに帰る!」

 杜の入り口に向かう母子を追いかけ、Oliveも脚力で足音を消しながら追いかけた。

 顎を開かず牙だけを露わにし、逃げるかもしれないPansyの寝間着を噛み捉えられるようにと構えた。

「Pansy、ママの言うことが聞けないの!」

「聞けないよ、ママはこんな意地悪なこと言わないもん!」

「いい加減になさい!」

 Sakuraの充血した目と焦点が合っても、Oliveが揺らぐものは何も感じなかった。

 大人しい女性の激しい一面を知ったという、すでに飽きてしまったエキスの化学反応の発見した瞬間に似ていた。

「大丈夫、Pansyは杜でも上手く立ち回れるわ。欧州以外の杜なら、Olive以外のお友達ができるかもしれないし……何よりPansyにはパパと同じ心の強さがあるもの。でもね、ママにはそんな強さがないから、パパに会える世界に戻ることにしたのよ」

「でもパ……パパ、は」

 Pansyはわずか二文字を発するだけで戸惑っていた。

 人間の血をも受け継ぐからこそ、杜で父親の存在を明かしてはならないことを弁えているからだ。

 Oliveは何度かPansyのスケッチ・ブックを一目見たことがあり、描かれている男性が父親のAoiだと薄々感じていた。

 腹を出して昼寝するPansyが何度も囁いているのを十回以上耳にした。

 人間としか思えないAoiは今でも受け入れられないが、父親に守られている身として、Oliveは亡父を想うPansyまでも否定する気になれなかった。

 Sakuraを前に涙を堪える姿は、未だ手を差し伸べられずにいる寝顔に酷似していた。

「パパ、こっちに来てから一度も夢に出てきてくれたことないじゃん! テロで危ないから隠れてってことじゃないの! パパ、ママのこと大好きだったの知っているくせに、どうして私でも分かることが分からないの?」

 SakuraはPansyの頭上で右手が彷徨い、四方に広がる髪の毛先の一つに爪先を引っかけた。

「確かにテロは暴力で物事を思い通りにしようとする人たちが起こすものだから、一般市民には解決しようがないわ。でもねPansy、何がその人にとって一番恐ろしいことなのかは他の誰もが決めつけられないの。テロよりも恐ろしいものがある人なんて、欧州の大陸だけでもありふれているわ。テロはあくまで恐れるものの一つなのよ……少なくともマ、私にとっては」

「——パパに怒られても知らないからね」

 覚悟を決めたPansyはSakuraの手を振り払い、背を向けた。Oliveは木々を囲う大きめの神跳草に身を落とし、未発達の角を幹からはみ出ないよう体の角度を変えた。

 その後は聴覚のみが頼りとなり、SakuraがPansyを抱きしめたのか否かは確認できなかった。

「十三年前、ママの娘に生まれてきてくれてありがとう——さようなら」


 Sakuraの気配が薄くなっても、Pansyは泣き止むことがなかった。

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