第37話―未来のために

「光樹!」

 光樹のお包みがコンクリートから離れると二本の腕が巻き付いていた。

 瑚子が陸上を辞めて一年以上経ち、肌の日焼けが引いている。それでも瑚子の肌よりも黄味が薄く、纏う筋肉も細長い無数の筋のようだった。

「学校にんごとなってからずいぶんバケモノらしくなったね。村雨瑚子、雪平利矢」

 オール・バックのポニー・テールは遠目で色素の溝が見えるほど傷んでいないが、以前より鋭い眼光で黒の光沢が霞んで見えた。

「チョウさん、光樹ば離して! 今日から施設ここの子になってもらわんばとに」

「私、ここのスタッフよ。アルバイトやけど」

 瑚子のかつての同級生・チョウは深夜色の裸眼で顎で答えた。ガソリン油が滴るほど浸した網を眼に直接重ねたように、引火しかねない感情を露にしていた。

「約一年、危ない橋を渡ってまであんたのことも調べて良かったばい。あんたらバケモノは遅かれ早かれ人間ば捨てたり殺したりする。村さ、いや田中友里子が不倫相手の子どもば諫早市内で産んだら、必ずここへ辿り着く。そこん男と一緒にね。そん前に私がここで雑用アルバイトばして、正規スタッフの信頼ば得とった。そいけんか、こがんして他のスタッフにはクーラーの利いた部屋に閉じこもってもろうとる。流石に、あんたらバケモノが気候までおかしくできるなんて予想外やったけど……まぁ何事も行動せんと自分のプラスにはならんよね」

「光樹はチョウさんば傷つけることなんか一つもいっちょんしとらん。首も座っとらん赤ん坊ば盾にしたところで、叔父さんは戻ってんばい。そいとも光樹が叔父さんの生まれ変わりだって思いたかと?」

 瑚子には真似できない確実を狙う計画性の高い行動、利矢を上回る固執と粘着のある根回しを明かされた。

 覚醒前の瑚子であれば、お包みを剥いででも光樹の頭と腰を引き抜いていたかもしれないが、今では狼狽がすすきの揺れる音にまで鎮まり血流は秋の夜風となっていた。

「聞き方ば変える。チョウさんはバケモノになりたかと? 人間として無意味なモンば盲信するか、あるいは脇目降らずに誰かの命ば奪うか。一度殺したら種族なんて関係無か、正真正銘のバケモンばい」

 瑚子の横で白金の翼を剥き出しにしたまま構えるハナサキ族ではない。瑚子自身が背負ったばかりの前科は、チョウでなくても人間も犯す可能性が十分にある。

「無意味? 人間より劣っとるその目で見下さんで。私は正義よ、悪を滅するのは当然のことばい。何ようるさかね、私とやっと巡り会えたのになして泣くと? 味方やろう?」

 光樹は日焼けよりも赤い顔で泣き叫んでいる。四肢で宙を撃ち、チョウを拒む。

「光樹はこいから生きて、色んな出会いが待っとる。チョウさんのごと国外ば渡るかもしれんし、友達もできて恋もして……苦しかコトば乗り越えてその先も幸せも手に入れる未来がある。光樹は一生うちのコトなんて一度も思い出さんやろうし、うちだってそれ以上のことなんて最初から求めとらん」

「あんた、自分の弟もどきさえ良ければ、他の人間がバケモンに殺されても構わんってこと? その崇高な偽善も所詮は自己満足するためだって分かっとるとばい」

「うちはチョウさんのコトも言うとるとけど」

 光樹は声を張ったまま、瑚子へ腕を伸ばした。水ようかんのような足で不快な体温を蹴っている。

「チョウさんのコト大事か思うとる人は周りにいっぴゃあ居るとばい。諫早市にも実家の台湾にだって……頭の良かけん、英語や色んな国の言葉で会話できる友達だって数えられんごと増えるかもしれん。光樹のことでその可能性ば自分で潰してしもうたら、もう誰もチョウさんの笑顔ば見られんごとなると、なして分からんと? うちを産んだ女性だって、一度も夢に出てきたコトの無かとに、泣いて拒んどる光樹盲信を離さんでおられると?」

「知ったコトばぬかすな!」

 チョウはエプロンのポケットからアウト・ドア・ナイフを取り出した。

「身内が目の前で殺されてヘラヘラ笑って生きるとは、人間の心じゃなか! あんたの人間ごっこはただの時間潰しやったとやろうし、私が直々に教えてやるばい。今ここで」

 チョウは光樹をコンクリートに置き、腹部と垂直にポイントを構えた。

「選ばんね! この赤ん坊とあんたの偽善の死か、私の薄っぺらい未来の消去かを。言っておくけど、どっちを選んでも私は最後まで人間だ」


 白金の羽根が舞うと、瑚子はチョウの真意を悟った。

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