第31話 2020年9月2日―誰も知らない歌

 一、瑚子と陽子との表面上の関係において、利矢の同級生と利矢の母親として友好性を徹底すること。

 一、友里子を含むすべての人間の前では瞼で盲目を装うこと。

 一、杜に戻るまでは一切、感情に任せてグリーン・ムーンストーンの力を使わないこと。


 瑚子は陽子が出した条件をすべて受け入れ、服装を昭和の名残から平成の余韻へ変えた。

「利矢のTシャツ、肩幅がスカスカじゃないたい。ハーフ・パンツもベルト持って来とらんなら下半身露出狂になっとったし、あんたもそれなりに女の子やったったい。ただ重ね着にした私のタンク・トップ、胸に気休め程度の空気砲が入っとるけど……まぁ、気にせんでも良いんじゃないよかっちゃない?」

「そのクソか性格ば雪平くんが受け継いどるとですね。納得しました」

 瑚子の髪はうなじ上で一つに束ねていた。硬質の刷毛もどきは筋肉を圧縮した両肩と垂直に突き出たままだった。

「可笑しかね。去年は利矢に担がれといて文句ばかりぅとったとに。おさなさ丸出しの感情はどこで盗られてしもうたとやろうね? 今はこっちを見向きもせん」

「雪平さん、気まぐれのお節介やったかもしれんばって、こがんところで安っぽか芝居ば失敗させるとはハナサキ族そちらさんのプライドを崩すようなもんじゃなかとですか?」

 杜を出た瞬間から、瑚子と陽子は視覚障がい者と視覚介助人という二人芝居が始まっていた。

 瑚子は条件通り瞼を固く閉じ、陽子の腕を持ち普段の三分の一の歩幅で歩いている。もちろん大通りでは陽子が車道側と平行に進んでいる。

「—―そうね。たとえ気まぐれでもこの私が人の出産に立ちうたとやけん、あんたこそ友里子さんの前では親離れできん小娘を思い出してもらわんと。母親が要らん不安やストレスば抱えると、生まれたばかりの赤ん坊の成長にもうなかとさ。今回ばかりはただの女としてのプライドやけん、傷つけたらでけんよ」

「そいだけは感謝します」

 一年弱の間足にも馴染んでいた街並みが見られない分、見たこともない分娩室の様子が勝手に浮かぶ。

 聖マリアンヌ女学園の教師か生徒かは覚えていないが、二度目以降の出産であっても鼻腔から大玉のスイカを引き抜く痛みを超えると言っていた。

 初産であればその次元では済まないことも漠然と理解できる。瑚子の記憶違いであればその友里子は今年三十八歳で最初の実子を授かった。

 体に負担をかける要素に高齢が加わり、子どもを作った相手が付き添わない出産は友里子にとって、不安と恐怖という無数の爆弾を全身に植え付けられているようなものだったのかもしれない。

「田中友里子さんの面会に伺いました。今、授乳中ではありませんか?」

「雪平さん、もうお会いできんとおもぅとりましたよ! 田中さんもずっと待っとったけん、よ部屋に行ってやってください」

 妄想で瑚子の下腹部が金属製バットを振り下ろされたスイカを再現し、膝が震えていた。

 男を知らない瑚子なりに今の友里子に相応しい態度を考え、陽子に左腕を引かれている間にナース・センターにたどり着いてしまった。

 役に立たない両膝のコラーゲンよりもスニーカーの底の摩擦が大きかった理由に納得する。

 小学六年生時の利矢のお下がりだからだけではなかった。

「で、そン子は雪平さんの娘さんですか?」

「いやいや、こン子は私の子ンとじゃなかとですよ。実は田中さんの親戚でね、生まれつき目が見えんとにどうしてもどがんしても会いたかって聞かんくて。私が介助役を買って出たとです」

「そいはそいはお疲れ様やったですねぇ。先にテーブルで休めますが、どがんしますか? 私が案内するけん、時間は遠慮せんで良かですよ」

 陽子は看護師の提案に手のひらを見せた。綿菓子の糖分でべたつかないように静かに圧したことで、看護師は瑚子がテーブルの座席に当たらないよう隣を歩いた。

 他の見舞い人は、出産を経た女性への称賛と新しい命に骨抜きにされていた。盲目の他人など一つも関心の要素が無かった。

 母乳を求める声のアーチを潜り抜け、瑚子と陽子は一室に踏み入るよう促された。

 看護師は友里子の新しい姓を呼ぶだけで、瑚子に振り向くことなく次の持ち場へ向かった。

 パンツ・スタイルの制服が靴下のもみ洗いと同じ音で擦れていた。産婦人科の職場は人手不足と多忙が重なっているのだと瑚子は思った。 

「田中さん、赤ちゃんは元気やろうか?」

 陽子は瑚子から手を離さずに部屋の扉を閉めた。母親だけでは四人部屋だったが、運良く友里子と腕の中のお包みの二人だけだった。

「ねぇ、窓のカーテン閉めて良か? こんままだとうた気のせんやろうけん、そうやろう?」

 ここで初めて陽子が瑚子の腕を離し、友里子の許可を待たず薄手の白いカーテンを中央に集めた。

「どがんなっとると? だって瑚子ちゃんは……」

「雪平さんに手伝うてもろうたと。ほら、だと思うように動けんけん。そいに約束はよぅ果たしたが良かやろう?」

 瑚子が指さした裸眼は、友里子の視界では動揺と恐怖の類が見えなかった。

 瑚子が単独でベッドに近づくほど友里子は眼球に涙を溜めることができなくなり、顔面を埋めたお包みのガーゼで瞼を擦った。

 感情を堪える喉が人工喉仏の移植に近い違和感で声が出ず、お包みが「あ語」で代弁した。

「顔ば見て良かかな、弟……そいとも妹やろうか?」

 瑚子にとって友里子の存在価値は月を跨いでも変わっていない。

 友里子は涙を吸収したお包みごと瑚子に見せ、部屋のドアを塞ぐように控えていた陽子が赤ん坊の性別と抱き方を教えた。

 瑚子は指示に従い、左手全体で首を支え右腕を背中に回し包んだ。

「こン子が弟、うちのたった一人の……温かいぬっか。こいが命なんやね」

 米麹をお粥より長く煮込んだ匂いが、瑚子の土臭さを呑み込んだ。

 二度目の「あ語」が瑚子に向けられ、友里子は涙を詰まらせた声で息子を呼んだ。

光樹みつき、生まれてきてくれてありがとう……何があっても瑚子姉ちゃんが守ってやるからねせんね

 瑚子が光樹の盾となる対象は決まっている。裏切者として友里子を敵視するトビヒ族はグリーン・ムーンストーンとして庇護する義務も無ければ、異種族のハナサキ族の援護など論外だ。

 瑚子は純血のため、危害を加える人間から守るのは母親の友里子に任せる他にない。

 力が完全に覚醒した今では、人間のふりをするどころか友里子の足を引っ張りかねない。このことはあえて声に出さなかった。

 トビヒ族とハナサキ族を巡る日本社会の現状を、友里子は理解している。嗚咽が治まっても瑚子の身体的特徴をつぐむことに徹した。

「瑚子ちゃん、こっちにおいでこんね

「光樹、おっぱいの時間?」

 瑚子の腕中から離そうとすると、光樹はトビヒ族の裸眼に伸ばした腕で弧を描き始めた。

 解釈しなくても「あ語」は瑚子と離れたがらないことが室内の女性三人に伝わった。

「瑚子姉ちゃんのおっぱいはこまかけん、いっちょんお腹のいっぱいにいっぴゃぁならないのならんとよ

 これまで自身の性的コンプレックスを口にしたことはないが、瑚子の自虐心は利矢に中傷された憤慨の千分の一にも満たなかった。

 泣き声で裸眼を看護師に暴露されないように、小刻みに震える両腕で胸元に引き戻した。

 友里子はベッドの隣に立つ瑚子の背中に両腕を回した。

「ありがとう、瑚子……お姉ちゃん。私の大事な宝物」

「ママ、うちこそありがとう。光樹を産んでくれて。瑚子のママは本当に凄かばい」

 友里子は顔面で瑚子の胸元にすがりつき、光樹はマシュマロ一粒すら収まらない左手で友里子の前髪を掴んだ。

 マシュマロより柔らかく瑞々みずみずしい手だった。

「そいでママ、雪平さんに教えてもろうたばってん、出産から大体四十日で退院するとやろう。そん後はどがんすると? 絹代きぬよママが加勢してくれると?」

 瑚子の中では、光樹の実父が友里子と育児も家事も共有しないと断定されていた。陽子の情報が正しければ、黙祷げんばくのひの翌日に産気づいたことになる。

 友里子は村雨家において決して元夫の正晃に威張り散らすタイプではなかったが、家庭内では伸び伸びしているように見えた。

 仮に正晃との子どもを授かっていたとしても、正晃も瑚子も妊娠二か月目であっても単独で買い物に行かせる真似はしなかったはずだ。

 村雨家の言動はあくまで予測や想像に過ぎないが、現実では光樹の実父は他の男であり正晃が許さないことが友里子の身に起こった。

 そうなれば瑚子の元・義祖母である絹代が経験者としても身内としても唯一の頼りだが、友里子は出来立てのカレーをかき混ぜる重みで首を横に振った。

「今ならすぐに保育園に預けられるし、お祖母ちゃんに甘えんでも大丈夫よ。仕事だってよ復帰せんば食べていけんけん。そいよりも瑚子ちゃんが今一番かけん、何も気にせんで良かと」

 これまで発言を最小限まで控えていた陽子が瑚子を呼んだ。

「私との約束破ったらでけんよ。手伝いたか気持ちは分かるばってか、光樹くんの世話どころじゃなかろう?」

 陽子は病室の入り口から一歩も動かなかった。廊下の新米ママや看護師に聞かれても支障の無い言葉で戒め、その意味は友里子にも察知できた。

「――そいはうちが光樹と二人きりの時間なら問題無かってことやろう?」




「利矢に……にどがんぅたら良かと? こん一人のためだけに、頭痛薬の段ボールが何箱あっても足らんばい」

 渾身の演技が崩れた瞬間だった。

 観客は無論、友里子と光樹だ。

 光樹は友里子の震える瞳孔にすら「あ語」で歓喜の歌を披露していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る