第29話 2020年8月9日―交わらぬ鐘

 木々の隙間に穴が開き、一包みの風呂敷が神跳草の上で転げ回った。

「おい番人、服ば持ってきてやったけん、ありがたく受け取れ」

 白金の羽毛がペールオレンジに変色し、すべて肌に吸収された。

「雪平利矢、相変わらず口の減らん男やね。獄中のトビヒ族まで手懐けて流石ばい」

 瑚子の右半分のプリーツスカートには、人間の日常生活ではあり得ないほど傷んでいた。

 獣の爪痕と木枝が貫いた痕跡で、衣服としての機能をほとんど失っていた。

 上半身も泥と草のエキスが染み、ローファーの底は完全に剥がれていた。

「俺が子供のときや母さんのお下がりやけど、文句言うなよ。色々見繕う時間が無かったとって」

「そんならあんたらも、今は空の穴に?」

「ニュースであがんこと言われたら、そりゃあ人間も必死になるやろ。最近賞金まで出すようなことも、政府が発表したけん。とくに田舎は仕事が限られとるし、今年の新型肺炎の損害を埋めたかやろう。もっとも第一密告者は学生やけど」

だいがチクったって、あんたは先に手ば回すやろ。うちには逆らってばかりの杜の連中も人間の振りばしとる奴らも、あんたの助言には素直に従ったたい。おかげで新たな殺人鬼が出らんかったけん良かけど」

「全員では無か。他県は大方避難しとるのは分かっとるやろうけど、長崎県には未だ自ら息を潜めているトビヒ族だってる。誰が説得しても人間の世界から一歩も動かん頑固者がな」

「そこまで人間になりきりたかなら、長崎県にっても良かたい。人間に危害ば加えん限り、うちが強制するもんでも無かろうもん」

「—―連戦で気性が荒くなったか。口調と雰囲気が一致しとらんぞ」

 アナウンサー・須子見の報道から九日が過ぎた。

 その間杜の境目では神跳草が勝手に選別した。本来の力にまったく恵まれない者は神跳草に弾かれ、人間界での死を覚悟せざるを得なかった。

 神跳草が受け入れた者は杜に慣れた順に覚醒した。

 現時点では匂いの発生に限られているが、瑚子が国内に潜む杜から他地域への誘導を終えるまでに草木を従わせる者が現れても不思議ではない。

 瑚子自身も短期間で先代グリーン・ムーンストーンを超える力を身に着けた。

 初めての女族長に対抗する元・最終候補はトビヒ族の中でも自尊心が強く、瑚子自身だけでなく未覚醒の同胞までも受け入れなかった。

 それでもトビヒ族が人を殺めることなく他地域の杜に避難できたのは、長に従う獣の本能が現代の同胞にも残っているからだった。

 不本意でも同胞を従わせる引率力、元・最終候補の攻撃を赤子のぐずりとして扱う力を九日で習得し、制服もどきが代償を引き受けた。

 秒刻みで瑚子が身に着けた力は国内地域に留まらなかった。

 利矢の報告によると、瑚子が新たなグリーン・ムーンストーンとなった日、地球上の杜全体に神跳草が生えた。

 トビヒ族特有の脚力や僅かでも本来の力がなければ、杜と人間界を行き来できなくなった。

 二十一世紀の現在、日本国外は他種の外観を受け入れる人数が保守的な人数を超えている。

 裸眼さえ隠せば、色彩の濁りは人間の個性の一種として認定される。トビヒ族やハナサキ族が人間を襲う機会は日本の百分の一に満たない。

 人間観での宗教の違いや貧困の差で起こる反乱には一切関与しない。そのため杜と空の穴の安全を確保すれば、国外の世界を傍観して一生を終える同胞は多い。

 瑚子が海の向こうでの事実を知るのは先のことだが、現在は国内のトビヒ族の監視以外は視野に入らない。

「ってか雪平利矢、ハナサキ族が一体やられたみたいだけどごたるけど、まさか復讐しに行っとらんよね? そもそもなしてニュースになったと?」

「一年間、体が一番小さいこまか同胞が交代制で収容所の外壁で監視しとった。報告によると、今十六歳の女は本来の姿の胎児を産んだことでショックを受け、一切口の利けんくなった。父親は人間やし、相手の素性も連絡先も知らんかった。通常ならDNA検査も考えただろうが、あの様子だと結果を知るのは怖かやろう。そんなわけで無知の女が自分の出生ば調べる機会はほぼ完全に断ち切られとる。だけどやけど俺らの懸念はそこじゃなかった。廃人状態では無断で身体調査されても、抵抗する気にもならん。医学や生物学でハナサキ族やトビヒ族の実態を暴かれるのは時間の問題。こちらが襲撃しても二族の存在を見せ占めるだけやし、本来ならば早々に身を引くべきやった。そうすれば犠牲がまったくいっちょん出らんかったとに」

「—―で、今何時?」

「もうすぐ午前十一時二分やけど、お前本当に俺の話ばぜんぜんいっちょん聞かんな」

教会もくとうの鐘、杜には届かんとね」


 一九四五年八月、長崎と広島において、原爆の被害を受けたのは人間だけではないはずだ。


 杜で生まれ育っていれば、瑚子は一度でも被爆の矛盾に気付くことはなかっただろう。



大畑おおはた課長、なして村雨主任ば庇うとですか? 全職員も市民も殺されても良かわけ無かでしょう。前から変なかへんなかコンタクトばしとるとおもぅとったし、この機会に応えんと市民に示しがつきませんよつかんですたい

 正晃の部下の一人・福浦ふくうらは両方の上腕が筋肉痛になっていた。

 市民が市役所に出入りする時間外、勤務日の七日に渡り一切休まず、大畑のデスク叩きと指でできた正晃への剣で脱臼寸前まで力んでいた。

 大学新卒での入庁以来、正晃と福浦は仕事への姿勢と方針が合わず、十年ほど同じ部署や班になることはなかった。

 ときが経つと不景気や就職氷河期が人事の配慮を許さなくなり、瑚子が聖マリアンヌ女学園高等部に入学する年、四十八歳にして遂に同部署内の同班になってしまった。

 都市計画課において、正晃は公営住宅への入居申し込み受付と同時に以前在籍していた市民生活課との連携を取り市民の生活保障も促している。

 また長崎市役所敷地内にハローワークの出張所は設けていないが、求人以外でのハローワーク利用方法まで簡単に案内している。

 都市計画課本来の仕事以外でも寄り添うので、市民は安心して正晃に相談する。

 一方で福浦は外見で市民の金銭的余裕を独断し、場合によっては屁理屈を駆使して入居申し込みをねる。

 二人を囲む職員間でも、確実に市政への信頼を勝ち取る派と量捌きで要所のみをこなす派で分かれていた。

 瑚子と近い年齢層が入庁するにつれ、同じく一般職員である福浦に従う者が増えた。

「福浦、信頼への点数稼ぎとしては要領が良かやろうけど、さきにすべき仕事があるやろう。課長だって忙しかし、何よりもうすぐ黙とうが始まるぞ」

 正晃は書類をラベルごとに仕分け、デスクで手の届く範囲には麦茶が入ったマグカップだけが置かれていた。

 午前十一時二分、市役所内の雑音はすべて、教会の鐘と空襲が蘇るサイレンが圧し潰した。

 十本の指を組む者、拳に五本の指を重ねる者、合掌する者。信じる神によって形式は異なるが、誰もが原爆の再来を拒んでいる。

 昼間の闇中ですら同調できない者が居るのもまた現実である。

「村雨主任も真面目過ぎませんか? 黙とうしたところで被爆者が戻ってくるわけでも無かし、ましてや世界中から核兵器がごっそり消えるわけでも無かでしょうに」

「そうだな、お前の屁理屈を否定する気は無か。強いて言うんやったら、核兵器だけが人間を殺める術では無かぞ。人間の心が他者を滅ぼすこともある。別に私の変なか目にこだわらんちゃ、五十年も生きていればお前だって分かるだろう」

「主任の屁理屈は相変わらず鋼並みにかたかですね。そがん男と血の分けた娘の、気色わるか心身が二人もるけん、嫁さんに逃げら――ひっ!」

 福浦は顔の皮膚に細かい亀裂が生じる痛みを感じた。実際は血すら流れていないが、自分の命が助かるためならば血の涙を流しても良いと思った。

 正晃の濁った色彩は、現代よりも木々が生い茂っていた白亜紀へ放り込む引力が生じた。

 福浦の背後席の職員は正晃の表情が見えないが、女性はデスクチェアから尻もちつき男性は福浦よりも耐性なく失禁しかねはいと確信した。

 この場で全身を巡る道を緩めさえしなければ福浦自身の信者が増えるチャンスであると無声で念じ、両足を小刻みに揺らし膝を直立に保った。

「娘を侮辱するな。お前に何が分かる」

 福浦の恐怖が全身の爆発を誘導しかけると、課長の大畑が正晃のデスク端に右手を置いた。

「はい、そこまで。とりあえず福浦君、君は私と昼食でもどうかな? 村雨主任と皆はその後交代制で休憩ば取ってもろうて良かかな?」

 正晃、正晃が率いる部下が一斉に承諾すると、大畑は見学の園児に合わせる視線で、派閥問わず十人の部下の顔を見渡したが、福浦の拭えない恐怖には目を瞑った。

 福浦の肩甲骨を支える左手は腕で弾力を抑えているのが分かった。

 正晃の職場が長崎市役所でなければ、吹き抜けのある通路で直属の上司が殺人犯になるところだった。

「主任は本当に冷静ですね。怒ったところなんて見たこと無かけん。絶対娘さんにも優しかでしょう?」

「そうでも無かぞ、家では叱ってばかりやけん最近娘の機嫌が悪くてな」

 新卒入社から三年目の女性部下が最初に声をかけた。

「そのマグカップ、娘さんからのプレゼントですよね? 俺の娘はまだ一歳やけど、将来こんな可愛かわいかともろうたら定年までも、その後も死ぬまで一つば使い続けますよ」

「そうか、お前ンところはもうそがんなるとか。父親に懐いてくれるのはほんの一瞬だぞ。そのうち男でも連れてくるかもしれん」

「それだけは無理! 主任、意地悪言わんでください」

 三十路になったばかりの部下は両手で耳を覆った。スマホの待ち受け画像は愛娘の写真を定期的に入れ替えている。

「やっぱり女の子は良かですよねー。うちは二人とも男の子やけん、修学旅行に行っても親にお土産なんてうてんとですよ。小学校に上がるまではお母さん、お母さんってべったりやったとに」

 正晃の最年長部下は、正晃の飲み物に穴をあけるほどのため息をついた。

 男同士であれば息子の成人後酒を酌み交わす楽しみがあるが、異性の親子にすれ違いが生じるのはどの家庭でも同じと見た。

「そいよりも、あがん低レベルないちゃもんなんか気にせんでくださいね。私たち主任がってくれるけん、この仕事ば頑張れるとですから」

「ありがとう。課長たちが戻って来たら、君たちが先に休憩を取ると良か」

「そんなら、嫁と娘への電話で休憩延長できるってことですね?」

「気持ちは分からんでもないが、休憩時間は皆平等だぞ」

 最年少の部下が拳を唇にかざし吹いた。

 奥に控えていた福浦派の職員五人は皆、頬杖をついて集団を横目で見ていた。

「こがん調子やけん、住宅の申請者が全然いっちょんんとたい」


 実際、正晃は信頼してくれる部下に受け答えしたが、心の耳では聞こえていない。

 他派の嫌味が表面上の耳に振動するはずがなかった。


 原爆被爆者へ捧げる黙とうの最中でも、最後に見た瑚子の姿が継承した戦史を塗り替えた。


 人間として生きていた先祖の一部も原爆で命を落とした。その点では完全に人間に非があり、トビヒ族としても許しがたい罪の一つである。

 先祖が生き返らないことも承知であり、命自体が他者の都合で消したり再生できるほど安いものではないこともトビヒ族と共通する。


 それでも娘の瑚子さえ無事であればと願い、共に過ごせるのであれば交際相手を紹介されても良いと思ってしまう。


 この日の発言に限っては、福浦は全面的に否定できるものではないのかもしれない。


 正晃は色素沈着した麦茶を飲み干した。

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