第2章 第1話 90年後

「マミー、杜ってどんなところ? どうしてパパが生きているときに教えてくれなかったの?」

 十二歳になったばかりの少女、Pansyパンジーは亡父譲りの赤毛のお下げを左手で払いながら尋ねた。右手は天然カールが汗で貼り付く額とこめかみを払うのに忙しい。

 栗の実色のポニー・テールを揺らし、三十五歳のSakuraサクラは娘の背中を押し、足取りを軽くなるよう促した。

「マミーも良く覚えていないの。Pansyの祖父母グランパとグランマはマミーが小さいころまで、杜とを行き来していたぐらいだし。第一教えたくても、パパと一緒にいると絶対に入り口が見つからなかったのよ」

「ふーん、地図で教えてあげたら良かったのに」

 Pansyは左手の人差し指で、自分で背負っている黄色のバック・パックを指した。杜の住人と親しくなるツールになるよう、最後まで手放さなかった一つだ。

「マミーもそうしようと何度も思ったわ。でもどこにも書いていなかったのよ。言っておくけど、マミーもパパもちゃんと地図読めるからね」

「当たり前じゃん! 私が学校で使っていた地図、大陸の名前が書いてあるだけだもん。アジアとー、アフリカとー、欧米とー、オセアニア?」

「あと欧州、グランパたちの祖先が出入りしていたエリアね。百年ぐらい前は欧州だけでも、何十もの国? があったそうよ。このエリアに絞っても、名前を覚えるだけでおばあちゃんになってしまいそうね」

「皺が増えるのは脳だけにしてほしいわ。あと贅沢を言うのなら、そばかすをゼロにしてほしい」

 Pansyはバック・パックのベルトからフェイス・タオルを抜き、鼻頭を擦った。

「そばかすがあったって良いじゃない! Pansyのお顔でいつでもパパを思い出せるんだもの。今夜は夢の中でパパに逢えそうだわ。早く杜に着きたいわね」

「止めてよ、マミー。寝相が悪いのもいびきをかくのも、パパに似たくなかったのに。優しいところだけパパからもらいたかったわ」

「……そうね」

 Sakuraは赤毛を左胸に引き寄せた。夫のAoiアオイは勤務中、テロに巻き込まれそうになった子供を庇い、命を落とした。

 Pansyと年齢が近そうな子供は、Aoiの尽力も虚しく時間差で殺害された。

 遺体を間近で見たこともないので、アジアの血が濃く出ている少年の的確な年齢を充てるのは無理なことだった。3Dスキャンに映った顔が何年も前に撮影したのかもしれないからだ。

 実のところ、SakuraはAoiの遺体を納得のいくまで視認していない。顔面の損傷が酷く、警察は自動車運転免許証と結婚指輪の内側に彫った文字だけで身元を確認させた。

 テロが起きて住民の精神衛生が安定するには、最低でも二十年はかかる。それまでにPansyは妙齢を過ぎ、子どもに恵まれる機会を逃しかねない。Pansyを守り育て上げるには、Aoiとの思い出の地を去る他になかった。

 近い将来、Pansyの卵子と第三者の精子を子宮バンクに混入することで、未婚の母になることも選択肢の一つである。

 それでもSakuraはPansyが幼いころから自然分娩の素晴らしさを伝えていた。

 Sakuraの両親は人工授精という概念のない杜で生まれ育ち、杜の境目を守る役目の中Sakuraが生まれた。幼少期から出入りしていた欧州という人間界でAoiと出会い、Pansyを腹の中で育てた。

 分娩時の痛みは西暦を逆算しても解消できない程すさまじいが、想い人の子を世に出す喜びをSakuraの代で終わらせたくなかった。

 Aoiの娘として人間と共存ことになっても、トビヒ族の住処である杜を守る役目を継ぐことになっても、Pansyには心身の苦痛を伴わない生き方を願っている。

 Pansyが一人前になるまでは、Sakura自身がPansyの守り人ガーディアンであると言い聞かせ、Aoiの埋葬時も涙を堪えた。

「そろそろ入り口が見えてきたわ。夢の中でパパに教えてあげられるように、これから杜のお花を覚えておきなさいな」

「映像に残せば効率良いわよ――スキャナーは置いてきちゃったから、ええと」

 Pansyは黄色のバック・パックを下ろそうとしたが、Sakuraは肩にかけ直させた。

「子供のころのマミーが使いかけていた、炭の芯のペンシルを入れておいたでしょう? 人間が合成したプラスチック芯はトビヒ族が嫌がるから。前の家にはパパとの思い出が詰まっているけど、ぜんぶハートにしまっておかないと体が重くて動けないわ」

「その、トビヒ族って何なの? パパが死んじゃうまで、マミーからその言葉を一回も聞いたことがないんだもの。グランパとグランマだって、顔も知らないのに」

 Pansyは肩を抱かれ、Sakuraの腰に手を回した。唾液が胃に向かって下落する音、血管が脈を介して頚椎から左腕、頸椎まで循環する響きがPansyの右頬に伝わる。

 Sakuraが杜とトビヒ族のことをはぐらかしていなかったことを証明していた。

「マミーは詳しく教えてあげられないわ。でも、Pansyがこれから見る世界が、答えのすべてよ!」

 熊に遭遇しかねない森林は、スライムにもならないゼリーのように輪郭があやふやになった。

 当時食べられなかったゼリーがPansyとSakuraを飲み込む。これがSakuraの言う杜の入り口であることを言われなくても分かった。

 杜に足を着けるまで、尿意を極限まで堪えたときを超えるむず痒さが全身を駆け巡った。

 Sakuraはスキャナーでアジアの昆虫を観たときと同じように歯を食いしばっていた。

 Pansyもスキャナーで観た程度だが、青虫が口内に侵入する不快感はなかった。

 最後にAoiと作った液状でもゲル状でもないゼリーを思い出したからだ。

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