第7話 2019年10月13日―空の行き先

 午前九時、JR長崎本線浦上駅。瑚子がかつて在籍していた聖マリアンヌ女学園の通学者によると、この時刻までは長崎市内各地の高校生とスーツ姿の男女で車内がかろうじて口が閉じる詰め放題の袋状態になる。

 瑚子を囲む光景は、平日とは異なる慌ただしい、人という濁流だ。

 私服姿の学生の目当ては、鈍足でも駅から十分以内で着く観覧車付きのショッピング・モール。階段の幅を占拠して登りながら、最新映画やフラッペ・メニューが雀の鳴き声と融合して耳に届く。

 終点長崎駅方面のホームに立つのは、七センチのチャンク・ヒールを引きずり重心を入れ替える女性がほとんど。

 瑚子が反対側のホームに並ぶと、聖マリアンヌ女学園の担任ですらつけなかったシンナー臭の香水が鼻腔をかきむしる。姿は確認できないが、片手で数えるほどのマダムが友里子より若い女性の群れに紛れ込んでいる。

 彼女たちの行先は長崎駅と連結するショッピングモールと、そこから路面電車で移動する百貨店に限られる。長崎市に生まれ育った瑚子は直感で確信する。

 そんな中、平日の緊張を纏う瑚子は濁流に呑まれず浮遊していた。現在籍を置いている奏真館が諫早市立ホールにてチャリティー・コンサートを開催する。会場設営の手伝いの証に、制服の着用は絶対だった。

 不満なくその役を引き受けたが、制服一つで異質に見られることがトイレを我慢することより不快だった。鳥肌と全身のほてりは特急列車の到着後、下肢が二分割する微痛に変化した。

 浦上駅は福岡市博多行の列車が通過する長崎市最北地であり、都市の空気を身近に求める人が集う。瑚子と同じ方向に体が向いていた人は皆、博多駅を目指し瑚子から離れた。

 五分後に到着する電車内で、ようやく腰をかけられた。乗客は三泊分の衣類が入るキャリー・ケースに両肘をかける男女のペアが五組。彼らの目当ては富裕層向けテーマパーク・ハウステンボス、瑚子が下りる諫早駅を通過して北上に位置する。滑走路の摩擦に勝る会話の中に、遠い記憶と重なる風景が混じっていた。小学校の修学旅行で行ったヨーロッパの風景は四、五年では簡単に変わらないことを知る。

 浦上駅から三駅進んだところで、瑚子はカバンの中に右手を差し込みかき分ける。

 本来好まない行動であるので、乗客に耳を傾けることに飽きるには十分な時間だった。

 カバンの中身はガラケー、合成皮革の長財布、五百ミリ・リットルの水筒、三百ミリ・リットルの魔法瓶、リップ・クリーム、チョコ菓子とグミが一袋ずつ。

 この日は教科書が不要なので、一時間の退屈を凌ぐために食品がカバンの中を周遊する。魔法瓶を取り出し蓋に右手を置いてみるが、隙間を開けずにカバンに戻す。

 友里子が用意してくれた生姜の葛湯は、座席が揺れる場所で飲むべきではないと判断した。

 制服に付着し乾燥した葛が清潔な印象を欠いてしまうことは英単語一つ覚えるよりも容易に予測できた。

 代わりに、転校の時期に合わせて百円ショップで購入したプラスチックの水筒に口を付ける。麦茶であれば、仮に白いシャツに付着しても、諫早駅のトイレにて水道水を浸せば色素が完全に落ちる。卸して二週間目の合服に落胆することはない。

 麦茶、浦上駅構内のコンビニで購入した菓子を交互にカバンに出し入れ、口にして十分経過。菓子の袋が二つとも不燃ごみに変わってもなお、薄らぐ羞恥心と鎮座のむずがゆさは体内への循環が止まらない。

 中間テストが終了したばかりなので、昨晩教科書をカバンからすべてだしてしまった。先日コンサート設営の後、諫早駅最寄りのジェラート・カフェにてチョウの助力のもと課題を済ませたことも、この日の退屈に繋がった。

 聖マリアンヌ女学園を去った今、帰宅部の同級生が口を揃えた言葉の意味がようやく理解できた。

「暇かぁ」

 正晃から陸上を奪われ、彼女たちと同じく将来を見定められなくなった。

 高校を卒業するまでは、受験勉強に追われることが分かるだけでも良い。問題は、進学先が長崎市の私大か福岡県の公立大学か。そもそも何をもって独立するのかすら自力で決められないので、学部すら調べようがない。

 仮に一瞬でも憧れが浮かんだとしても、正晃はそれすら許さない。

 が報道されたばかりに。


 聖マリアンヌ女学園の教室で、真奈美と頬を押し合ってスマホを見た。

 少女との画像はなかったが、未知の容姿が落雷より早く想像できるほど無駄を省いた文面だった。

『うぇ~、股から四つ足が出るとか、どがん感覚やろか?』

 真奈美は座面に両踵をつけ、スカートを履いた両足を肩幅まで広げた。

『まーちゃん、隠さんば』

 瑚子が制しても、真奈美は両ひざを降ろさなかった。女子校特有の光景で、一人がはしたない行動をすれば、一室の八割が真似をする。

 予鈴が鳴っても「四つ足」コールは止まず、教室に入った男性教師が教材すべてを床に落とした。

 五限目の数学では、教師の説教で前半の二十五分間が埋まった。

 瑚子は終始両足を閉じていたが、三十名のクラスで両耳が最も赤染せきせんしていた。


 実際は一時間にも満たないできごとが、絵の具が溶けた一滴の水と思うほど、瑚子の日常は急いて変わらざるを得なかった。

 車窓には雲一つない空と、コンタクト・レンズを装着した瞳が映る。


わたしうちは、人間やけん」


 逮捕された少女と違い、将来誰の子を産んでも四つ足の姿ではない。


 瑚子の妄信は路線の摩擦音に掻き消された。

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