第17話

また、砂漠の上に彼女は立っていた。頭上の夜空は変わらない。

天空には満天の星。

足元の砂は黄金の穂先のように光り輝いていた。

くぐり抜けたはずの大理石の扉はもうなかった。

砂の上にもそんな重たい扉が存在した痕跡はなかった。

ただ、静かに音もなく風が吹き、彼女の、目の前には駱駝とおぼしき足跡が地平に向かって続くのが見えた。

リースは意識をなくしてしまったようにぼんやりしていた。

見てきた世界と2人の天使が語った情報量の多さに困惑していた。

もともと妖精の彼女ですら混乱するほどの量だ。

脳にというよりは、心に直接蓄積される。

記憶が200%になって細部まで何がどのようであったかを思い出すことができた。

鮮明に思い出せるほど、机の木目や椅子の継ぎ目、壁のシミに至るまで、ここにあるように思い出された。

リースは脱力してその場に座り込んだ。

シャラン…と一度だけグングルーが鳴り、砂に埋もれて音を出さなくなった。

彼女は被っていたヴェールを取り、視界がクリアになるように首に巻き付けた。

(ここは一体どこなのかしら?

私の術は正しく発動している。

ここは、鈴木さんの心の中の世界ではないのか?

彼に通じる手がかりが見えてこない…。

あの天使たちは一体何のことを私に話していたのだろう?

NEMOって何のことだろう?

それを知ると何が起こるのだろう?

私にNEMOが何かを理解しろというの?

わからない…一体、何のこと?

まるで…)

『疑問は虚しいものである』

突然、天使の声が頭の中に響いた。

『答えは虚しいものである』

『疑問は疑問しか生まぬ』

『疑問は答えを必要とせず』

『汝、NEMOでなければ嘘を信じさせられるであろう』

「私はNEMOじゃないわ!私はリャナン・シーよ!」

思わず叫んでしまった。

頭の中を天使の声が幾重にも幾重にもこだまし始めた。

『汝がNEMOと呼ばれるようになれば、解けなかったすべての謎に対する答えは探さなくても汝自身の心に浮かぶであろう』

「NEMOって何?何のこと?」

『汝は、言葉によって自らを理解へと導くであろう』

(あなたたちが何を言っているのか私には理解できない。

私は鈴木さんの現象の答えを探しにきただけ。

世界の理の探究にきたのではないわ)

【いいえ、…違うわ。あなたはそうではないけれど、わたしはそう…】

「誰!?」

天使とは違う声がして、リースは驚いて声を上げた。

顔を上げるとそこにはが立っていた。

自分と同じ姿をした者が同じ格好で立っていた。

実体があるというよりは透けて見えるので、幽霊といったところか。

その姿を見るやリースはアンベルノッテで言われた師匠の言葉を思い出した。

「どちらが強いかは時間が経てばわかってこよう。世界の理を其方のわがままで曲げてはならぬ。こちらの世界とそちらの世界の者は交わってはならぬ決まり。わかっておろう?」

その言葉を繰り返しながら何が起きているのかリースは理解した。

「そう…。やはり宿主のあなたの方が私より強いってことね。深層から表層意識まで上がってこられるとは大したものね。上がってこれないように強い薬草と呪文で眠らせていたのに」

不服そうに自分と同じ顔をした彼女を紅い目で睨んだ。

もう1人の彼女は真剣な顔で彼女を見ていた。

【私の体を返して…ここは、私が探求するべき世界で、あなたが見るべき世界ではないわ…。このアエティールの神秘は、あなたのものではない】

「アエティール?」

聞き覚えのない言葉に聞き返してしまった。

【私が誰か忘れているでしょう?】

「そういえば、魔術師…だったわね…C.C.V.さん」

【さっき、あなたが見ていたのは13番目のアエティールZIM。

ZIMの天使と話をしていたのよ。

NEMOの神秘も庭園の意味もあなたにはわからない。

見たり聞いたりするものが何を象徴しているのかわからなければ、何の意味もない。

この世界は鈴木さんの深層意識とつながっていても、私というフィルターを通して見る限り、私の解釈が加わってしまうから、あなたが欲しい情報が手に入るかどうかはわからないわ。

だから、私の体を返して。】

「それはできない相談ね。私は必要があってこの世界にいる。

必要があってあなたの体を借りている。

私には目的があってそれを達成するまではこのままでいるわ。

だって、あなたほど私と相性がいい人はいないもの。

それに深層意識で繋がっているのなら、鈴木さんの手がかりがあるはずよ…

そして、その手がかりは私の『目的』に直結している。

だから、ことが済むまでは返すわけにはいかない。

あなたの体は私が借りてくことにするわ」

【あなたにそんな力が残っているのかしら…?私の意識がここまで戻っているのに、そんなこと言える?】

「確かに、でも、私に力がないのはこちらの世界に来てから「食事」をしていないせいよ。「食事」ができれば、あなたの意識なんかまた下層の下層まで押し沈めてあげるわ」

【リース、…あなたの目的は何?なぜ、こちらの世界に来たの?】

「さあ?…あなたに関係ない」

【リース…】

その言葉を最後に風に巻き上げられた砂に紛れて彼女c.c.v.の姿は消えた。

「解釈ができないわけじゃない。

私だって、あなたと意識を共有しているんだから、何がどんな象徴なのかくらいわかるわよ」

そう言うと静かに目を閉じた。

鈴木の手首の傷を思い返した。

自分が以前見た傷と同じ傷を持つ鈴木。

棘によって傷つけられたあの傷。

あの傷がなければリースはここに来る決断はしなかった。

彼女がZIMのアエティールといった場所で見たイチイの木とサンザシの木を思い出した。

あの長い棘が気になっていた。

透明な滴が棘の先端にはついていたが、本来ならあれは血がついているものではないのか。

『見える理由と見えない理由が』

『見える理由のみに惑わされるなかれ』

『見えない理由にこそ着目し理解せよ』

『それぞれに固有の』

『それぞれに異なった』

『それぞれに特有の』

『それぞれに必要な特性を理解せよ』

『さもなければ庭の手入れなぞできぬ』

再び天使の言葉が彼女に語りかけてきた。

(見える理由と見えない理由…

あの傷。ゲシュから生じる傷だと思ったけれど、もしかしたら違うのかしら?

棘が関係するものは普通は呪詛関係で穢れを表す…いわゆる呪い…

でも、

天使が言うようにが別にあるのだとしたら…それは……それは?)

十字架にかけられてイエスの画像が突然よぎった。

彼が被らされていたものはいばらの王冠だった。

反逆者の印。

受難を表す象徴。

しかし、聖書も解釈は別な解釈も存在する。

「もしかしたら、全く真逆の…?」

『神は人を誘惑す』

『悪魔は人を誘惑す』

天使の声が左右同時に雄叫びのように聞こえた。

あまりの声の大きさに驚き、リースは目を見開いた。

すると砂漠についた足跡が光を放ち始めた。

「先に進め、と言うのね?」

リースは確信を持って立ち上がった。

そして、地平線の彼方に見える建造物群に向かって歩き始めた。

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