第4話

ゴクリと彼は生唾を飲んだ。

リースは長い黒髪を耳に掛けながら、テーブルにあったポットから2杯目のカモミールティーをカップに注いだ。優雅なその仕草に、彼は目を奪われていた。

「さ、冷めないうちにどうぞ」

「あ、あ、ありがとうございます」

彼女はカップを口元へと運んだ。赤いルージュが塗られたその唇に視線が釘付けになった。肉厚で形のよい唇。この唇を奪う男はどのような男だろうか?この唇でキスされたら、どんな感じなのだろう?

「鈴木さん?どうかしまして?」

カップも持たず、ただ黙り込んだまま、ぼうっと自分を見ている彼に声をかけた。彼女の口の端が微かに上がったように見えた。

彼は突然動き出したおもちゃのようにぎこちなく、カップを持つと飲み始めた。自分の抱いた感情を払拭するかのように、何事もないように振る舞おうとした。

彼がお茶を飲んで少し落ち着くまで、多少の時間は要したが、背筋を伸ばすと気を取り直して語り始めた。

「はっきり言えば、よく覚えていません。でも、記憶の断片はあります。夢の中で、僕は『俺』という1人称でいつも話している気がします。自分がいる場所はいつも違う場所のような気がします」

「違う場所?例えば?」

「暗い所っていう印象が強いです。単色のしかも黒とか紺とかダーク系の色の中にいます」

「何か見えましたか?」

「見えているんでしょうけど、そこがはっきりしないんです」

「視点を変えましょうか。匂いはしましたか?」

「匂い?ですか?」

「ええ」

「夢に嗅覚があるのかどうかわかりませんけど、森というか緑というか、森林浴するときに感じるあの匂いがします。土の匂いというか、緑の匂い…」

「他には?音は聞こえますか?」

「音…いえ、特には…」

彼は腕組みをして考えた。

「音じゃないんですけど、風を感じたというか、吹かれたというか、落ちたというか、なんかこう…」

「何か感覚があるんですね?」

「はい。なんて言ったらいいんだろう?平衡感覚?違う。うーん、落下する?飛ぶ?感覚。なんかこうふわふわするっていうか、急にこうバーンっというか」

組んでいた手を解いて、上から下へ動かして見せた。言葉で表現するのは難しそうだ。

「移動している感じではないんですね?」

「移動っていう感じじゃないですね。一箇所にいるけど一箇所にいない。そんな矛盾した感覚です。こんなんでわかりますか?」

「ええ、とてもよく。他には何か見えたり感じたりしたものはありますか?例えば物とか植物とか動物とか?」

「動物?…そういえば犬に吠えられたような気が」

「犬?」

「ええ。姿は見えなかったんですが、ものすごく吠えられた気がします。でも、自信ないや」

「ご自宅に犬を飼っていらっしゃいますか?」

「いえ。飼っていません。アレルギー持ちなものですから。動物は苦手なんです」

「そうですか。他には何か覚えていますか?」

「暗い中に光るもの?クルクルしてるもの?があった気がします」

「くるくるしてるとはどんなふうにですか?円を描くように丸く動いています?それとも別な感じですか?」

「下から上へこうですね」

彼は人差し指で螺旋を描いた。

「………」

リースは彼のことをじっと見た。彼の話す言葉のキーワードはあるカードの状況に合致する。それが本当なら一体何が彼に起こっているのだろうか。

「その夢に気がついたのはいつ頃です?」

「変だな?と思った時ですか?」

「ええ」

「そうですね。先々月の半ばくらいでしょうか。彼女の誕生日で、ちょうど僕の家に泊まりに来てくれたのでよく覚えています」

「その日を境に夢を見始めたということですか?」

「多分。でも、あまり自信はないです。…夜、目覚めることが多くなった気もします。彼女に夜中、起こされるんですよ。『どうしたの?』って。聞くと、なんか僕、騒いでるらしんですよ。よくわからない言葉で寝言いうとかどうとかで」

「寝言…」

「何日か続いて。でも、最近はそれも無くなって。で、10日に1回くらい体に傷が現れ始めたんです。最初は小さな引っ掻き傷とか青たんとかだったので、寝ていて自分で何かしたんだろうくらいにしか思っていなかったんです。でも、」

「この傷が手首に現れた…」

リースは静かに目を閉じた。

「はい。」

彼の答えを聞くと目を開けて、イヤーカフスに手を伸ばした。髪をすき、そのまま指が口元へ下がってきた。

突然、彼女は立ち上がると彼の顎に手を伸ばして上を向かせた。

「リ、リース…さんっ⁉︎何を」

彼女は彼の唇にキスをした。彼は金縛りにあったかのように指一本動かせず硬直したまま、彼女の濃厚なキスを受け入れざるを得なかった。熱い舌が口の中で執拗なまでに絡みついてくる。気でも狂ったのかと思うほど、恋人同士であるかのようなキスをしていた。

「ゔ…」

その舌が「何か」を彼に「飲ませた」。

甘い香りのする「何か」を。

「リース…さ…ん…、何を…?」

今まで何をするにも微笑んでいた彼女から笑みが消えていた。

吸いつくように激しいキスを繰り返していた唇が離れた。

「眠りなさい…今は、何もかも忘れて……」

その声を聞いたのを最後に彼は意識を失った。

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