第2話 エキゾチック物質抽出

「なあ、これなんだと思う?」

 同僚の山崎が指差す壁面ディスプレイには、先ほどインド基地から送られてきた映像が映っていた。それは未探査の溶岩洞窟に送り込んだ無人探査ロボットが撮影したもの。どこまでも続くごつごつした岩の壁。時折、火山性ガスが氷結した氷がロボットのヘッドライトを浴びて輝く。そんな映像が延々と続いていたとき、唐突にカメラの前を何か物体が横切った。ほんの数秒の事だ。

 スローで再生しても、映像がぶれてしまってどんな物体か確認できない。たが、辛うじて腕のようなものがあるのが分かった。

 残念な事に、そのロボットはそういう事態に対応するようなプログラムはされていなかった。だから、その未確認移動物体が撮影された映像はその数秒だけである。

「やっぱり……これって……月の先住民?」

 山崎のその一言が、高校時代の変わった友人の事を思い出すきっかけとなったのだ。

「馬鹿言え! どこかの国の隊が先に洞窟に入ったんだろう」

 僕はディスプレイを消して部屋の明かりをつけた。各種実験装置が所狭しと並んでいるだけの殺風景な第三化学研究室。月基地内で僕と山崎……というより成瀬研究室に割り当てられた部屋だ。

 それは日本基地の端っこに置かれていた。

 現在の国際月基地は、天然の溶岩洞窟に呼吸可能な空気を満たして使っている。その入り口はプリンセスホールという直径六十メートルの縦抗だ。西暦二〇〇九年に無人探査機かぐやが発見した穴なのでかぐや姫プリンセスカグヤの穴……プリンセスホールと命名されたらしい。

 現在プリンセスホールは金属の蓋で密閉され、人員用、車両用のエアロックが装備されていた。

 そのプリンセスホール直下の洞窟は共有スペースとして国連が管理していた。さらに共有スペースを中心に、クモの巣状に掘られたトンネルが近隣の洞窟につながっている。それぞれの洞窟は各国の基地として割り当てられていた。

 洞窟群の総延長は十五キロに及び、現在ここに十一カ国三百人の隊員が常駐している。

 ちょっとした町だ。これだけ人が多いと、どの国の隊員がどこで何をしているかなんて完全に把握することは無理がある。

 だから、インド基地の隊員もあの映像を見たとき、先にどこかの国の隊が入り込んだのではないかと思い、各国基地に問い合わせてきたのだ。

 今のところ、どの国からも該当地域で活動があったという報告はなかった。

 インド隊が捜索した洞窟は三日前に見つかったものだ。見つかったきっかけは、月基地全体で起きた急激な減圧。洞窟のどこかで空気漏れが起きたらしい。

 こういう事は決して珍しい事ではない。

 何十億年もの間、真空状態を保っていた洞窟にいきなり空気を注入したのだ。洞窟の壁に一気圧の負荷をかけ続ければ弱い部分に穴が開くこともあるだろう。また、岩の隙間には火山性ガスが氷ついていたりもしている。それに平均気温十八度Cの気体が触れれば少しずつ融解していき、ある日突然穴が開くという事もあるわけだ。

 今回もそんな事故の一つということだ。

 だが、いつもと一つ違うことがある。いつもなら、隔壁を閉じないと減圧は止まらない。

 空気は月面に逃げているからだ。だが、今回は隔壁を閉じる前に減圧が止まった。どうやら穴はすぐ隣の洞窟に開いたようだ。空気の流出が止まったのは、洞窟内を空気が満たしたからだろう。

 その後の会議の結果、その洞窟を調査して可能なら基地の一部にしてしまうことになった。インド隊がロボットを送り込んだのはそういう経緯があったからだ。

「とりあえず、俺達には関係ないな」

 山崎は席を立ち、仕事に戻っていく。

 さて、僕も仕事に戻るか。おや?

 左腕に装着した端末が光っている。

 メールのようだ。端末のディスプレイにメール表示させた。

「ゲ!」

 差出人の名前を見て僕は声を思わず上げる。

「どうした?」

 山崎が怪訝な視線を僕に向ける。

「いや、メールだよ。地球からの」

「女か?」

「野郎だ」

「なあんだ」

 一瞬だけ僕はマーフィの法則を信じそうになった。差出人の名前は小太刀だったのだ。

佐竹さたけ幸人ゆきと

 お久しぶりです。同窓会の時には酒に酔った事とは言え大変失礼をいたしました』

 意外と、まともな文面だな。もしや、月人などいないという事を納得したのか?

『思えば、公務員である君には守秘義務というものがあるのを失念していました。君が月人と会っている事はわかっていたが、それを認めてしまうと命が危ないというのに、無理難題を言ってしまい申し訳ない』

 納得はしてなかったようだ。それとも一つ誤解が。僕は公務員でもない。

『それはともかく、今回メールをしたのは他でもない。実は妹のめぐみが月基地へ赴任する事になった。迷惑をかけるかもしれないが、僕にとってはかけがえのない妹だ。どうか面倒をみてやってほしい』

 あいつ妹いたのか? それにしても、拍子抜けだな。てっきり、また月人の事を聞いてくるか思ったが……

 月に来るということは、誰かとの交代要員という事か? 確か山崎は三日後に地球に帰ることになっていたな。まさか小太刀の妹が交代要員? 成瀬研究室にそんな娘いたかな?

 僕は山崎の方に目を向ける。 

 山崎は分離装置セパレーターを操作していた。

 今、この実験装置の中では高温のプラズマが回転している。と言っても、外からでは何も見えないが。

 装置の中でプラズマ化している物質は、月の低重力地帯で回収してきた岩石から取り出したアルミニウム。これをプラズマ化した状態で高い遠心力をかけ、ある物資を抽出しているのだ。マイナスの質量を持っているエキゾチック物質を。

 月の重力異常の原因は地下に存在する物質の密度が異なるためと言われてきた。だが実際に月で大規模な調査が行われてみると重力異常が起きるほどの密度の違いは確認できなかったのだ。重力異常は何か他に原因があるのではと言われだしたとき、鳴瀬のオヤジ……いや、Т大学の成瀬教授がある仮説を唱えた。

 マイナスの質量をもったエキゾチック物質が原因ではないかと。

 エキゾチック物質は重力相互作用が引力ではなく斥力になっている物質だ。理論上は存在していたし、粒子加速器を使った実験で発生したという報告もある。しかし、自然界にエキゾチック物質の塊が存在するなどありえない。あったとしても、天体の重力に反発して宇宙へ飛び出してしまう。

 というのが今までの常識だ。

 しかし、重力は四つの基本相互作用の中でもっとも弱い。もし負の質量をもった水素原子と正の質量を持った水素原子が一つずつあったとしよう。いくら負の質量だと言っても、重力相互作用より電磁相互作用の方が強い。二つの原子は電磁力で結びつき容易に水素分子を構成できる。

 これを原子核のレベルまで考えてみよう。負の質量を持った中性子や陽子などの重核子が、正の質量を持った重核子と核力で結びつき原子核を構成することは可能なわけだ。

 例えば炭素原子なら原子核は陽子六個と中性子六個で構成されている。その中の中性子二個が斥力を持っていたとしても、他の四個の中性子と、六個の陽子の持つ引力の方が大きいのでその炭素原子は天体上に留まれるわけだ。

 そういう物質が低重力地帯に多量にあるのではないかと言うのが成瀬教授の説だった。

 僕達はその説を証明するため、低重力地帯から収集した試料から異常に軽い原子を分離する装置を開発した。通常のアルミニウムなら原子量は27。同位体としてアルミニウム26と28がある。

 この装置の中では、プラズマ化したアルミニウムに遠心力と、それと反対方向に働く磁力をかけている。最初に試料を入れた時は、アルミニウム27の原子核の重さで丁度遠心力と磁力が釣り合うように装置を調整してあった。もし27より軽い原子があれば、中心の磁石に集められる。

 最初集まったものはアルミニウム26と不純物。その試料をまた装置に入れ、さらに高い遠心力をかける。

 その作業を三年間続けた結果、通常よりも軽いアルミニウム原子が抽出された。三年がかりで集めた原子はたったの十モル。

 通常のアルミニウムなら二百七十グラムの質量があるはずだが、それは僅か八十グラムしかなかった。これはもう負の質量をもった粒子が含まれている証拠だ。

 そして今、その試料をさらに分離装置セパレーターにかけ、より軽い原子を集めている。明日にはその成果が分かるはずだ。

 その成果を確認した後、山崎はこの研究資料を持って地球に帰ることになっていた。

「なあ、山崎。成瀬のオヤジはおまえと交代で今度は誰を送ってくるんだ?」

「まだ、聞いてなかったのか?」

「ああ。つい忙しくてな」

「喜べ。今回は女だ」

「それは、こんな娘か?」

 僕は腕の端末のディスプレイにメールに添付されていた写真を表示した。長い髪をリボンで束ね、ポニーテイルにしている細身の女の子。袴姿という事は卒業式の写真だろう。

「そんな娘だったが、どうしてお前が写真をもってる?」

「友達の妹だ。面倒見てくれとメールで頼まれた」

「そうなのか。じゃあ、顔見知りか?」

「いや、会った事はない」

「そうか。どうでもいいが、この部屋で二人っ切りになったからといって悪さするなよ」

「おまえと一緒にするな」

 第一、小太刀の妹じゃ迂闊に手なんか出せん。あまり関わりたくないというのもあるが、小太刀なら地球にいながらでも月にいる僕に黒魔術でも仕掛けてきそうだ。

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