第25話 完璧な恋人同士

 電車は容易にわたしを目的の駅まで運んだ。

 外はすっかり雨模様で、アスファルトに乾いたところは見えない。

 わたしは晴雨兼用の日傘をさして歩き始めた。

 どうしよう、こんなことしたことない。怒られるかもしれない。でも、ひと目顔が見たい。あんな話をしてきたあとでおかしいかもしれないけど、恋しい。

 だって、本当に大切なひとは彼ひとりだから。よくわかっている。自分の気持ちは偽れない。たとえ、体がそれに逆らったとしても心は変わらない。


 篤志が四年生になって、わたしも働き始めて、前のように一緒に構内を散歩することもなくなった。学食でご飯を食べて学校のあちこちを散歩しながら篤志が教えてくれた。あの棟が何学部で、それから向こうの建物が、といった具合に。散歩のおわり、篤志の学部の入り口で、あとでまた会う約束をして別れたことも多かった。

 なので、どこに篤志の学部があるのかはよく知っていた。

 靴の先から水が跳ねる。こんな日にバカみたいだ。でもいまじゃなくちゃ、たぶん意味がない。

 学部棟に着くと嘘のように静かだった。学生たちのがやがや言う声が聞こえない。雨が強くなってきたので、どの教室も窓を閉めてしまったのだろう。

 日傘をたたむと、そこから雨水が落ちて黒い川を作った。


「あれ? 三上の」

 顔を上げると知らない男の子がいた。向こうはわたしを知っているらしい。

「三上、手が離せるか見てきましょうか?」

「いえ、いいの」

 仕事の時を思い出して、精一杯、感じのいい笑顔を作る。

「ちょっと散歩してきただけなの。篤志には内緒にしてくださいね、こんなところまで来たってこと」

 閉じた日傘をまた開いて、男の子に首を傾けてお辞儀をする。歩いてきた方向に向かってまた歩き出す。

 まさか知ってる人に会うなんて思ってなかったからドキドキする。篤志にバッタリ会ってしまわなくてよかった。でもそれならどうしてここに来たんだろう?


 水音が後方から聞こえてきて、振り返る。

 白衣を着たまま、傘も持たずに篤志は走ってきた。

「珠里!」

 肩で息をしながら彼は、こんな時でもわたしの傘を取って、さしてくれる。小さい日傘にふたりも入るわけがなくて篤志はどんどん濡れてしまう。

「なにかあった?」

「なにも。散歩してたら雨が降ってきちゃって。でも日傘をたまたま持ってたから大丈夫だったの」

「いままでひとりで学校に来たりしなかったじゃん」

「だからたまたま気が向いて、いつもみたいにぶらぶらして」

 わたしたちの体は傘の中でぴったり合わさった。ああ、もう後悔でいっぱいになる。どうしてこのひとから離れようなんてバカなことを考えたんだろう。


 だって、こんなふうにやらなくちゃいけない大切なことを、わたしのために放り投げて走ってきてしまうから。それじゃ篤志の夢は叶わない。わたしの願いはひとつ。彼の邪魔をしないことなのに。

 どちらから示し合わせたわけでもなく、唇が重なる。周りに人影はない。唇は何度も重なってため息がもれる。

 小さな傘の中でわたしたちは、完璧な恋人同士だった。


「傘とタオル、持ってるの?」

「天気予報を見て、珠里が持たせてくれたでしょう? 忘れてたの?」

 うん、まぁ。確かに急な雨が降るかもと言っていたかもしれない。すっかり忘れて、自分は日傘だけ持って出かけたわけだ。

「ごめん。一緒に五目そば、食べたいところなんだけど俺、まだ途中のところを抜けてきたんだ。具合良くなったばっかりなんだし、少しは家でじっとしてなさい」

「先生みたい」

「生徒は言うことを聞いて」

 彼の肩に頭を預ける。

「ごめん。一分だけ」

 大きな手がわたしの頭をやさしく撫でる。どうしよう、離れたくなくなってしまう。

「もう大丈夫。帰るね」

 じゃあね、と手を振って歩き出したわたしを確認して篤志は帰って行った。じゃあね、と言える日があと何日あるのか。

 決めてしまったことだ。取り消すわけにはいかない。


 家に着いて寒気を感じてシャワーを浴びると、哲朗さんからラインが入っていた。


『雨が降ってきましたけど大丈夫でしたか? もしも気持ちが変わったら、遠慮なく言ってください』


 大丈夫です、と一言、返事を送る。こういう気づかいが大人なんだ。――そうか、これからはあのひとの腕の中で暮らすのか。

 あの、倒れそうになった日にしがみついた彼の腕は思っていたよりしっかりしていた。わたしをしっかり捕まえて離さないでほしい。気持ちが揺らがないように。


「ただいま、珠里、大人しくしてた?」

「うん、ずっと家にいたよ」

 さすがに土曜日は篤志の帰りが少し早い。帰り道にスーパーに寄って買い物をして、食事の支度をしていたところだった。

「わ、いなり寿司」

「すきでしょう?」

「なんか記念日だった?」

「そういうわけじゃなくて、作りたくなったの。ほら、キレイにできてるでしょう? おいなりさんは高級食材も使わないし、今までももっと作ればよかったね。雨に濡れたんだからとりあえずシャワー浴びてきて」

 わたしは篤志を追いやって、お吸い物を作る。記念日? そうだな、お別れの記念日。カウントダウンが始まったところ。

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