第7話 バケモノの正体

 聞き覚えのある声だった。だからこそイザナギは困惑した。なぜ、化け物の声に聞き覚えがあるんだ。それに、今の声はまるで……


 いや、違う。そんなはずがない。いくら声が似ているからといって、こんなみにくい化け物の正体が……


 戸惑うイザナギを前にして、化け物が青紫色の唇を動かした。


「お兄ちゃん、どうしてここにいるの? 扉のところで待ってて言ったよね……」


 化け物の声はさっきより少し低くなっていた。だが、やはりこの声は――


 イザナギは化け物に恐るおそる訊いた。


「……お前、イザナミなのか?」


 すると、化け物は声をさらに低くして言った。


「いや、質問してるのは私なんだけど。どうしてここにいるのよ」


 イザナギの問いは一蹴されたが、間違いなくイザナミの声だった。しかし、いつもの甘い声とは違う。低くて太くて刺々しい。


「もしかして、怒っているのか?」

「それ訊く? ていうか、いちいち訊かないとわかんないわけ? 約束を思いっきり破ったんだから、怒り心頭に決まってんじゃん」


 黄泉比良坂よもつひらさかにある岩の御殿。その扉の前でイザナミが帰ってくるまで待つ。その約束を守らなかったがために不満をつのらせているらしい。だが――


「俺はお前のことが心配でだな、だからつい……」

「はい、出た、自分を正当化する言いわけ。やめてくれないかな。クソな言いわけなんて、聞きたくないし」


 イザナミに取り憑いている邪神が、いかづちをバチバチと爆ぜさせている。イザナミが怒りを覚えると、邪神がああなるのだろうか。


 邪神たちの状態はともかくとして、イザナミの口調はかつてないほど乱暴だ。激昂している証拠だ。そんなに怒らなくてもよくね? と思いつつもイザナギは詫びた。


「すまない……兄ちゃんが、悪かった」 


 イザナミの身を本気で案じたからこそ、約束を破って黄泉国に足を踏みいれた。だが、イザナギが思っている以上に、あの約束は大事なものだったのだろう。もちろん、約束を軽んじていたわけではないが、約束を反故にしたのが事実である以上、下手な言いわけをせずに謝っておくべきだ。


「本当に悪かった。許してくれ」


 しかし、二度の謝罪でも、イザナミの怒りを鎮火するには至らなかった。それどころか、火に油を注いでしまったようだ。


「謝れば済むと思ってんの? 絶対に黄泉国に入ってこないでって言ったよね。何回も絶対って言ったよね。なのに、なんでここにいるのよ。もしかしてあれなの、あんたって日本語がつうじない人だったの?」


 とうとうあんた呼ばわりされてるし……。イザナギはそう思いながらも、三度目の謝罪を口にした。


「そう怒るなって。俺が悪かったからさ……」

「なによ、その言い方。半分投げやりじゃん。全然反省してない証拠だよね」


 こりゃダメだ。今のイザナミはなにを言っても過熱する。生前のイザナミはそう簡単に怒ったりしなかったが、黄泉国にきてから性格が変わったのだろうか。いずれにせよ、嵐が過ぎ去ってくれるまで、じっと耐えるしかないようだ。


 諦めに似た覚悟を決めたとき、また文句の嵐が吹きつけてきた。


「今の私ってほとんどゾンビじゃん? 死んでしばらくしたら誰でもこうなるんだけどさ、こんな姿誰にも見られたくないのよ。だから、絶対に黄泉国に入ってこないでって、念押しまでしてお願いしたんだよね。なのにさ、思い切り入ってきてんじゃん。こんな醜態を見られて、超恥ずいんだけど。女としてのプライドがもうズタズタ。まじズタズタ。どうしてくれるわけ」


 風力を増しながら、さらに嵐は吹き続けた。


「だいたいあんたってデリカシーがないのよね。さっきもガッチャンコって大声を張りあげてたし。そのデリカシーのなさのせいで、私はこんな醜態を晒すはめになったのよ。ほんと最悪。ていうか、なんで私が戻るまで待てなかったのよ。犬だって『待て』くらいできるよね。もしかして、あんたって犬より劣ってんの?」


 嵐は風雨を強めつつまだまだ吹き荒れた。イザナギはそれに口答えせず、黙って耐え続けた。イザナミの身を案じたという理由があったにせよ、約束を破ってしまった自分が悪いのだから。


 しかし、だんだんイザナギは胸がもやついてきた。確かに悪いのは自分だが、言いすぎではないだろうか。約束うんぬんの文句は甘んじて受け入れようと思う。しかし、イザナミがさっきから発しているの単なる悪口だ。いや、ひどい人格否定だ。


「あんたってほんとクズ。いや、クズじゃ足りないね。クズの最上級ってなんて言うんだろう。クズエスト?」


 やはり、これは約束を破ったことに対する抗議ではない。ただの人格否定だ。イザナギの我慢は限界に達した。

 

「うるせえ!」


 一度怒号を発すると、今まで我慢していたぶん、歯止めが効かなくなった。


「そもそもお前が死んだのが悪いんだろ。火の神が言っていたとおり、自業自得だろうが。おチョンチョンを焼かれておっぬなんてクソだせえ。ダサエストだよ!」


 するとイザナミは蔑む目をした。


「逆ギレしてるし……ほんと最悪……」

「最悪なのはお前の臭いだよ! 鼻がひん曲がっちまうわ。なんだよこの悪臭は。マジくせえ!」

「な……」イザナミの目に動揺が浮かんだ。「臭くなんかないわよ!」

「くせえよ。死ぬほどくせえ! この悪臭に気づかないなんて致命的だな。クサエストだ!」

「臭くないってば! 女の子にそんなこと言うなんて本物のクズじゃん。ていうか、エストを連発しないでよ。最初に言ったのは私なんだからね!」

「いくらでも言ってやる! ダサエスト、クサエスト、クズエスト!」

「クズエストはあんたのことでしょう! キング・オブ・クズエストのくせに!」


 イザナギはイザナミをビシっと指差した。


「もうお前とはお別れだ! ガッチャンコも二度としねえ。こんなところまできちまったが、とんだ無駄足だったぜ。ボケ!」

「ボケって言うほうがボケなのよ! ていうか、ガッチャンコなんか二度とするわけないじゃん。こっちから願いさげよ。だいたいあんたのガッチャンコって、がっつくだけで下手くそなのよ。おまけに早漏だから長持ちしないしね! あっ、どこいくのよ!」


 イザナミの話が終わるのを待たずに、イザナギは踵を返して走りだした。


「ちょ、ちょっと待ちなさいってば!」


 イザナミの怒号が背後に響いたが、もちろんそんな声は完全に無視だ。イザナギはぴくりとも振り返らずに、黄泉比良坂よもつひらさかに向かって突っ走った。


 〈了〉


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