第20話 カナメ

 振り返れば、これまで愛情というものを感じた事がなかったように思う。

 幼き頃のボクを、母は優しく抱きしめてくれた。

 それでも、そこから温もりとか愛情とか、そういった他者の感情を感じる事はできなかった。

 確かに人肌は温かい。

 しかしそれは、人体の中で絶え間なく作られるATPエネルギーが生み出す熱量に過ぎない。

 ボクにはそれ以上の意味を見出す事は出来なかった。

 原っぱに寝転がれば植物の声が届いた。

 人肌のような熱量はなくても、確かな生命の息吹と温かみを感じる事が出来た。

 だから、次第にボクは植物だけに心を開くようになった。

 人間は感情のない無機質なロボットのようにしか感じなかった。

 ただ、父親だけは別だった。

 人間とか植物とか、そうした分類に収まりきらない唯一の存在が父親だった。

 ボクが自身を人間として自覚して生きる事ができたのは、父の存在が全てだったと言っても良い。

 父がいなければ、ボクは精神異常者として社会的に死んでいたかもしれない、とさえ思う。

 発達段階における共感能力の獲得の遅延は、多くの場合は致命的な結果をもたらす。

 しかし、ボクは少なくとも父を真似て、共感能力があるように振る舞う事が出来た。

 ボクはそうやって、人間社会で生きる術を身につけた。

 母は、ボクのこうした異常性に気づいていたのだろう。

 成長するにつれて、次第に距離を取るようになった。

 ボクはそれを朧気に理解して、必要以上に母と接触を図ろうとはしなくなった。

 それでも、父はずっとボクと一緒にいてくれた。

 植物についての様々な話をボクに教えてくれたし、一般的な社会常識も根気よく教えてくれた。

 そんな父と母の折り合いがつかなくなったのは当然の成り行きだったのだろう。

 二人の仲がおかしくなったのは、ボクが原因だったに違いない。

 十歳の時に母の不貞によって両親の離婚が決定した。

 ボクは特別驚きもせず、淡々と両親の説明を聞いていた。

 そして、当然のように父に着いて行くことになった。

 母が親権を主張する事は一度もなかった。

 家と庭はボク達の手元にそのまま残った。

 恐らくは不貞による慰謝料と財産分与を相殺したのだろう。

 当時はそんな事情は理解できなかったけど、庭の植物たちが手元に残った事を単純に喜んでいた。

 父と二人だけになってからは、ますます植物と触れ合う時間が増えた。

 父から剪定のやり方も教わって、実際に身体を動かす事も増えた。

 ダーウィンが行った幾つかの簡単な実験を真似たりもした。

 この頃から、父のような植物学者か造園技師、あるいは樹木医のような職業に就きたいと明確に考えるようになった。

 ボクの生活は植物と共に在ったし、このままそうして生きていくのだろう、と思っていた。

 だからこそ、中学三年生の卒業式を間近に控えた父の訃報は、まさしく青天の霹靂だった。

 ボクは県外に住居を移していた母のもとへ移る事になり、新しい父親の世話になる事になった。

 全てが、崩れていった。

 植物に対する感応能力を、ボクは一時的に封じた。

 新しい生活に溶け込む為に、普通の高校生を演じた。

 苦痛の日々だった。

 人間社会の中で、ボクは紛れもない異物だった。

 父も植物もいない世界は、ひどく色褪せていた。

 栄養を失った植物のように、自分の精神が徐々に死んでいくのがわかった。

 由香から連絡があったのは、そんな時だった。

 元々繋がりのあった家族ぐるみでキャンプに行こうと提案してくれた。

 父が亡くなった今、ボクが気を許せる人間はもはや由香しか残されていなかった。

「カナメは少し背が伸びた」

 久しぶりに顔を合わせた彼女は、そう言って屈託のない笑みを見せた。

 ボクたちは二人で川沿いに出て、久しぶりに言葉を交わした。

「由香は、髪が伸びた」

「ああ、伸ばしているんだ。どうだい、新しい生活は?」

「最悪だよ。由香は?」

「変わらないよ。ちょっと電子工学に興味が出てきて、最近はCPUを作ってるんだ」

「CPU? 個人で作れるものの範疇を超えているような」

「集積性と効率を無視すれば、難しいものではない。個人での制作が敬遠されるのは、シリコン・テクノロジーに精密性が要求されるからだ。シリコン・テクノロジーに頼らなければ、CPUというものは実に単純な構造をしている。電気信号とシリコンの代わりに水とパイプ、弁さえあればコンピュータは役割を果たせる。構造を理解する為には、自分で作ってみるのが一番良い」

 彼女は相変わらず、知識欲の奴隷だった。

 その根底にあるものが破壊衝動なのだから手に負えない。

「ところで、カナメは今の家族に愛着を覚えているかい?」

「経済的な後ろ盾としては」

 それ以上は口にしなかった。

 必要のない事だったし、母も世間体の為に引き取ったに過ぎなかった。互いに割り切った関係だった。

「それなら、他にも選択肢は無数にある」

「そうかもしれないね」

 由香が立ち止まる。

 釣られるようにボクも足を止めて、由香を見つめた。

 瞳孔が広がった彼女の瞳が、川の反射光で揺らめいていた。

「少し、昔話をしよう。私の祖父は七十七歳の時、自宅で倒れているところを発見された。後頭部を強く打っていて、硬膜下血腫で搬送後に死亡した。高齢者によくある転倒事故と警察は判断した」

 ボクは無言で先を促した。

「祖父は頭蓋骨が陥没するほど強く後頭部を打っていた。加えて祖父の腰は大きく曲がっていたにも関わらず、腰や肩に痣は一切見当たらなかった。後頭部だけに強い衝撃が加えられているのは明らかだった。祖父は田舎暮らしで、玄関の鍵は常に開いていた。数日前に、古い知り合いと金銭的なトラブルで揉めていた事も分かった。しかし、警察は現場の写真を撮った後、確証がない、として撤収していったよ。祖父の財布がどこにも見当たらなかったが、相手にされなかった。田舎の警察なんてそんなものなんだと痛感する出来事だった」

 由香が、ずい、と距離を詰めてボクの手をとる。

「カナメ、私が君を開放しても良い。上手くやる自信がある。その後の経済的な事情だって考えがある。こっちに戻って来ると良い」

 由香の言う"開放"が何を指しているのか分からない程、鈍くはない。

 瞳孔が広がった彼女の双眸を正面から受け止め、言う。

「ボクと母は互いに距離を取っているけれど、誰かが悪かった訳じゃない。新しい父とは互いに愛情も信頼もないけれど、生活は破綻するに至っていない」

「しかし、カナメは現状に強く抑圧されている。君はそれを良しとしていない。両親を足枷くらいにしか思っていないし、きっかけがあれば能動的に脱出したいと考えている」

「親殺しは、倫理的に大きく逸脱している。異常者の考える事だ」

「それは一般論であって、カナメの考えではない。カナメは別に親に情など持っていないし、何らかの事故に巻き込まれても一切悲しまないだろう」

 ボクの手を握った彼女の両手が、撫でるように動く。

「カナメはそもそも、人命そのものに尊厳を向けていない。凄惨な事件を新聞で見ても、心は動かない。カナメの思考は常に利害の関係で動いていて、周囲に溶け込む為にカナメという存在を演じているだけに過ぎない。カナメはそれすらも気づかない振りをしていて、自己の同一性を保っている」

 クス、と由香が笑う。

「ほら、今だってカナメは平静なままだ。表情筋に変化はないし、汗一つかいていない。血管の拡張もないから身じろぎもしないし、口数の増減もない。親殺しについて一切の感情の揺らめきがない」

 ボクの手を包む由香の両手を、やんわりを離す。

「現実味がないだけだよ」

「違う。カナメは冷静に損得について判断を下し、リスクが高いからこうして一般論を並べているだけに過ぎない。両親がいなくなった後の経済的な不透明さと、今後の保証人や保険を危惧している。しかし、これが引っくり返れば、カナメは必ず親殺しを承諾する。あるいは、場合によっては自ら積極的に動くだろう」

 ボクは肯定も否定もしなかった。

 しても無駄だと分かっていた。

「由香が何を言いたいのか分からない」

「こっちに戻って来て欲しい。その準備は、全て私がやる」

 それから、由香は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「そうだ。以前の答えをまだ聞いていない。つまり、私と男女の関係にならないか、という質問の事だ。だから、答えやすいように質問を変えよう。私の元に来て、それから一緒に生きて欲しい。どうかな?」

 つまり、その為に人が死ぬ。

 ただそれだけだと、由香は言いたいらしい。

 病的な偏執だ。

 社会的に許される訳がない。

 でも、心のどこかでそれも良いと思ってしまった。

 いや、始めから答えは決まっている。

 重要なのは具体的な方法だ、とさえ考えていた。

 ボクの共感性と価値基準は破綻している。

 それは認めなければならないし、由香はそれを望んでいる。

 由香はきっと、これを一つのステップとしか考えていないのだろう。

 彼女は歳を重ねるごとに、更なる邪悪な事を容易く成し遂げてしまうに違いない。

 由香という人格は自分の欲望に忠実で、自己を抑圧するものを全て破壊しようとしている。

 自己保存の範疇を超えたその苛烈な破壊衝動は、将来的に由香やボクを破滅に導くだろう。

 思考が、渦巻く。

 即決出来ない。

 それこそが答だった。

 多少の自由の為に殺人行為を否定できない。

 その時点でボクの価値観は致命的なまでに壊れていて、自己肯定の言い訳さえ見つけてしまえば、きっと後は息をするように簡単なはずだった。

 いや、言い訳もいらない。

 自己嫌悪なんて、きっとボクはしないのだから。

 自由になるか、ならないか。

 それだけの質問だ。

 他は全て些事でしかない。

 ならば答えは決まっている。

「ボクは――」

 何かが、瞬いた。

 突然、足場が崩れた。

 巨大な何かに呑み込まれるのが分かった。

 由香が動くのが見えた。

 彼女の手がボクを掴んだ。

 ボクも、彼女の手を強く握り返した。

 おもちゃ箱をひっくり返したように、世界が壊れていく。

 目の前で、由香が何かを叫ぶのが見えた。けれど、言葉は一つも聞こえなかった。

 かんかんかん。

 どこかで踏切の警報が鳴り響いていた。

 そしてボクは空の中へ堕ちていった。

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