極・異界残侠伝、ひときり包丁。

亀の歩

一章 刃の伝承

一節 因果の鎖

 軽自動車の運転席から降りて、頭を振った男の目に曇天が映った。

 それは空を薄く覆い隠すていどの厚みだが、しかし、頬を撫でるなまぬるい風は重い湿り気を帯びて、先の降雨を知らせている。

 世界の誰が耳にしても不機嫌に聞こえる声だった。

「クソが、明るいうちは降ってくれるなよ――」

 曇天を睨んで唸ると、その男は歩きだした。

 場所は、日本の東海地方、その某所ぼうしょである。

 季節は五月の末。時刻は午前五時二十分。

 不機嫌な男は側面に『ナユタ運輸』と刺繍されたワーク・キャップを目深にかぶり、同じような色合いの作業服を着ていた。駐車場から不機嫌な男と同じ格好の何人か――ナユタ運輸の従業員が同じ方向へ歩いてくる。向かう先はナユタ運輸の東海営業所だ。従業員の年齢は様々であるが、それぞれ同じような仏頂面で、ここから週末まで続く労働の始まりへ不満を主張していた。


 三十路みそじを超えてからだ。

 昨日の酒が体に残るようになった。

 年齢としは取りたくねェものだよな。

 ああ、いやだ、いやだ。

 この世界は目にするもの、どれもこれもが、クソみたいにくだらねェ――。


 仏頂面の群れのなかでも、一等に不機嫌な顔だ。

 不機嫌な男の視線は、アスファルトで塗り固められた駐車場の地面を辿っていた。乾いて、硬い、味気のない色合いだ。視線を下に向けたまま、不貞腐れた気分で歩いているうちに、男は営業所に辿り着く。従業員用出入口は小さな虫の死骸がついたガラス戸だ。そのガラス越しに同僚の背中が見えた。丸まったその背中は勤務前から疲労困憊している。溜息を呑み込んだ男は、ガラス扉の取っ手を引いた。

 男の左の手から布袋が下がっている。何の飾り気もない、ベージュ色のものである。不機嫌な男が下げている布袋の中身は毎日変わらない。出勤の途中にコンビニエンス・ストアで調達した昼食――二個入りでワンパックになった握り飯が二パック。麦茶を入りのの水筒。タオルが何枚か。会社から渡されている乳白色の携帯電話スマート・フォン。着替えと軍手の束。雨合羽。メモ帳とボールペン。財布だけは布袋に入れずに作業着のズボンのポケットへ突っ込んである。これは二ツ折りの革製である。色は濃い茶色。男が持つ財布はここ数年、変化がない。古びた財布と同様にである。ナユタ運輸株式会社の東海営業所に運送ドライバーとして勤務しているその男は、三年間、何ら変化のない日常にいる。

 そして、今日のこの日も、いつもと変わらぬ日常、いつもと変わらぬ出勤の筈だった。しかし、この日に限り、昨晩の酒が身体に残っていたその男は、いつもより少し遅い出社になった。

 この日、この男がした普段と違う行動はこのていど。

 いつもより少しだけ遅い行動。

 本人も自覚をしないような些末。

 この些末が先にあった必然に揺らぎを与え、そのさざ波のような偶然が複合的な要因と奇跡的な確率を経由して、やがて大きな波となる。

 この不機嫌な中年男――九条尽くじょうつくしの運命は、因果の鎖に捕まった。


 §


 九条尽――ツクシは異変に気づいて顔を上げた。

 ツクシの瞳に映ったのは、愛車の運転席から降りたときに見たのと同じ、曇天どんてんだった。

「営業所の天井はどこへ消えた?」

 ツクシの鼻先がひくひく動く。

 悪臭が嗅覚を侵食していた。

「便所の廃水口から汚水が逆流しているのか?」

 ツクシは振り返った。後ろにあった筈の従業員出入り口が消えている。その代わり、ツクシがこれまで目に映してきた光景とは、まるで違う世界が広がっていた。ツクシが佇んでいる場所はどこかの街の路地裏のようだ。地面は舗装されておらず、黒ずんだ土だった。その狭い小道の左右に掘っ立て小屋がずらりと並んでいる。

「いや、これは掘っ立て小屋にも満たねェな――」

 ツクシは考え直した。周辺にある掘っ立て小屋のほとんどは、地面へつき立てた支柱にツギハギだらけの天幕を張った粗末なものだ。その粗末な天幕のなかで蠢くひとの気配がツクシに伝わってくる。天幕の中にいる彼らもしくは彼女らの生活する音が聞こえた。赤ん坊が泣く声だとか、天幕の中で何らかの作業をしている物音だとか、ささやくような会話だとか、いがみ合う声だとか、男の怒鳴る声だとか、女の喚く声だった。

 笑い声はひとつもない。

「まだ俺は寝床でうなされながら、いつもの悪い夢でも見ているのか――」

 ツクシは呻いた。ツクシは昨晩の酒が過ぎている。先週の半ばに給料日があった。それで奮発したツクシは日曜日、酒の量販店でウィスキーを購入した。その夜のうちにである。発泡酒の缶三つと購入したウィスキーのボトル半分空けて、ツクシは万年床へ潜り込んだ。

 ともあれ、昨日の夜は酒が過ぎた。

 だから、俺は布団の中で、またいつもの悪夢を見ているんだろうな。

 いつもと違って、少し妙な感じだけどな。

 そんなことを考えながら、ツクシが突っ立っていると、近くにあった天幕の垂れ幕を分けて、女の顔が出現した。ツクシは出現した女の顔へ目を向けた。茶ばんだスカーフで頭をくくった中年女の疲れた黒い顔だ。継ぎをあてた赤茶色のワンピースを着ている。全体的に垢の染みた風貌のなかで目だけが不健康な光を放っていた。中年女は口の広い壷のようなものを手に持っている。ツクシに気づいた中年女は、怪訝そうな顔を見せて、ブツブツと何かいったが、すぐ自分の作業へ戻った。周辺にムッと刺激臭が立ち込めて、ツクシは元より不機嫌な顔をさらに歪ませた。中年女は壷の中身――溜まっていた糞尿を側溝ドブへぶちまけたのである。中年女は作業を終えると、ツクシへ視線をちらちらと送りながら、天幕のなかへ消えた。

「ひでェ臭いの原因はこれかよ――」

 ツクシは視線を落とした。地面にはキャベツの芯やら、リンゴの皮やら、割れた瓶の欠片やらで不潔な色合いがついている。ここに住んでいるものはゴミを路地へぶちまけているらしい。ツクシの足元を、大きなドブネズミが二匹、走っていった。そうしていると、好奇心と悪意が入り混じった視線が、自分の身体に集中していることに、ツクシは気づいた。

 ひそひそとした声が、天幕のなかから漏れてくる。

 やがて、それらの低い囁き声に、笑い声が混じる。

 長居するのは危険――。

 天幕のなかで膨らむ大勢の意思に押し出され、ツクシは足を踏みだした。

 悪臭に澱む天幕街の狭い路地は、まるで迷宮だった。少し歩くと、道はすぐT字路になって、右に進むと行き止まり。戻って進めば、またT字路に突き当たる。直線で続く道がほとんどない。その道中、ツクシが目にするひとはすべて、粗末で汚れた洋服を身に着けていた。たいていの男は粗末なチェニック――貫頭衣のような丈の長い上衣を着て、下はズボン、それに不恰好な革のブーツを履いている。女は汚れたスカーフを頭にかぶって、裾が地面につくような小汚いワンピース姿だ。子供は服とは呼べないようなボロを着て駆け回っている。その彼らを観察しながら歩くツクシは、高校の修学旅行で訪れたテーマパークを思い出していた。外国の街並みを再現した娯楽施設である。

「あそこにいたアルバイトのスタッフは、こここいらの連中と似たような格好をしていたが――」

 ツクシは呟いた。もっとも、テーマパークのスタッフは、天幕街にいる垢じみたひとびとよりも、ずっと色合いが派手で、綺麗な衣装を着ていたし、ツクシへ胡乱な視線を送ってくるようなこともなかった。

「ジロジロと見られるのは気分が悪いが、俺のナリじゃあ、それも無理はねェか――」

 ツクシは口角を歪めた。この風景のなか、作業服姿のツクシは、明らかな異邦人だった。ツクシは歩みを止めない。しかし、歩いても歩いても、似たような光景と悪臭が続く。路地には縄が張られ、そこに洗濯ものが揺れている。付近で座り込んでいた中年男の投げた石が当たった野良犬が「キャイン!」と鳴いた。子供をひっぱたきながら怒鳴っている中年の女がいた。叩かれた子供は大声で泣いている。それを遠巻きに、別の子供たちが笑っていた。

 ツクシは焦っている。

 歩いている最中、聞こえてくる言葉が理解できない。英語のような、フランス語のような、ドイツ語のような、イタリア語のような、ギリシャ語のような、中国語のような――それらのすべてが入り混じったような未知の言語で、この界隈の住民は会話している。ツクシは外国語に堪能なわけではなかったが、聞けば大体どの国の言葉か見当がつくていどの知識はある。しかし、この場所で使われている言語は明らかに、ツクシが知っている言語のどれとも違う。ツクシは天幕の街にたむろする未知の言葉を喋るひとびとを、怪訝な顔で眺めながら歩き続けた。そうして、余所見をして歩いていると、ツクシの足が――靴底が鉄板のような硬さの、黒いアーミー・ブーツを履いた爪先が、柔らかいものを蹴飛ばした。

「イェット、ストゥルテ! クイアッド、クイエド、ファルテ!」

 ツクシの足元で怒声が上がった。眉根を寄せたツクシが足を止めると、真っ黒に汚れた老人がその足元に横たわっている。その老人は、布切れなのか、泥そのものなのか、判断がつきかねる汚れた衣服だった。地面からツクシを睨む片方の目が、どろりと白く濁っている。

 何らかの眼病か――。

「――ああ、俺が不注意した」

 ツクシが面倒そうにいった。

 泥老人は怪訝な顔で口を開いた。

 口内に歯が一本もない。

「イスタァニィテイス、シーべ。ストゥルテ!」

 泥老人が怒鳴ると、つばきが飛んで、ツクシの顔にかかった。

 ツクシの眉間が険しくなった。ツクシという男は異様に鋭い三白眼の持ち主で、筆舌に尽くしがたいほど眼つき顔つきが悪い。そのツクシが押し黙ってひとを見つめると、その眼光でひとを射殺しかねない迫力がある。

 泥老人は光がまだ残っているほうの目を丸々と見開いた。

「いや、すまなかった、爺さん。すまないついでなんだが、俺に教えてもらえないか。ここは、一体、どこな――」

 そこで言葉に詰まって、ツクシは途方に暮れた。泥老人の喋る言葉はツクシに理解ができない。おそらくはである。ツクシの言葉――日本語も泥老人に通じていない。それよりも、ツクシを呆然とさせる事実がある。自分が布団のなかで見ている筈の悪夢が長すぎる。目の覚める気配がない。この悪夢は、温度も、音も、色彩も、臭いも――泥老人の口臭も感じ取れる。

 これは、現実だ。

「アノォウン、エスト、コハク。オウタダデプト、オシャス、ストゥルテ。ストゥルテ!」

 泥老人は自分の首元を指差しながら喚き散らした。ツクシは無言で鼻先を動かした。老人の口臭に酒の匂いが混じっている。泥老人は諦めたような表情を見せると、また地面へ寝転がって黒い地面と一体化した。ツクシは泥老人に何かいおうとしたが、警戒の色を残している老人の目――光が残った左の目を見て諦めた。

 二日酔いの上に蹴っ飛ばされて、自分を蹴っ飛ばした奴にまったく言葉が通じないとくると、これは頭に血が上っても仕方ねェ。

 気持ちはわかるぜ爺さん。

 ま、俺が悪かったよ――。

 泥老人に言葉なき別れを告げたツクシは、天幕の迷宮をまた彷徨さまよいだした。




※異界語の翻訳※


原文「イェット、ストゥルテ! クイアッド、クイエド、ファルテ!」

訳文「この、愚かものめ! 何をぼんやりしていたのだ!」


原文「イスタァニィテイス、シーべ。ストゥルテ!」

訳文「どこを見て歩いていたのだ。愚かものめ!」


原文「アノォウン、エスト、コハク。オウタダデプト、オシャス。ストゥルテ。ストゥルテ!」

訳文「虎魂のペンダントを持っていないのか。おお、この馬鹿は、まったく信じらん。愚かもの。愚かものめ!」

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