窓から人を投げ捨てると戦争になります

白里りこ

プラハ窓外投擲事件についての雑談


 近所の中村さんは犬の散歩仲間で、彼女が定年退職してからというもの、散歩の時間に会うことが多くなった。

 最初は互いの愛犬の話などを交わしていたが、何度か会ううちに、他の話題も持ち出すようになっていた。


 独り身で暇を持て余している中村さんは、勉強好きで、よくその内容を聞かせてくれる。


 この間は特殊相対性理論だった。その前はカンブリア紀の古生物。そのまた前はメソポタミアの占星術について。

 あれこれ構わず手当たり次第。気分の赴くままに突っ込んでゆくのが中村さんのスタイルらしい。

 大学受験を控えた私は、決められたことを勉強しなくてはならないのだが、中村さんの姿勢には見習うところが多いと思う。


 今日のテーマは世界史だった。

 聞くと、チェコ史について調べたらしい。


「また珍しいところに手を出しましたね」

 私は言って、トイプードルのココアのリードを手繰り寄せた。

「私も去年少しだけ習いました。世界史選択なので」

「あら、そうだったの。……私はね、大変なことに気が付いたんだ」

「何でしょうか」

「よく聞くんだよ。──

「はあ?」

「故に人を高いところから落とすのは、死亡フラグなの」

「それ、落とした時点で死んでますよね」

 私は切り返した。

「……はっはぁ。確かにねえ。相川さんは面白いねえ」

「はは……。すいません」


 私は恥じ入って俯いた。目線の先には小さくて黒いモフモフがいて、嬉しそうにぴょこぴょこ私の後をついてくる。

 普通、お年寄りの自慢話なんかは適当に聞き流して、相槌を打ちながら感心したふうを装っておけば、障りがない。それは分かっている。

 だが、私は性格上、相手の話はちゃんと聞くべきだと思っているし、思ったことはちゃんと口に出すべきだと思っている。


 そんな歯に絹着せない私のことを、中村さんはかえって気に入ってくれているようだった。お世辞を言われてあしらわれるよりよっぽど楽しいという。私もそんな中村さんの、意外とてらいのない所が、嫌いではない。

 中村さんは、誰かに自慢をして感心されたいのではなくて、当たり前に話せる相手が欲しいそうだ。


「それで、それはどういう意味なんですか」

「有名な話らしいよ。プラハ窓外投擲事件という」

「はあ、面白い名前ですね」

「プラハというのはチェコの首都だけど」

「知ってます」

「当時チェコは、ベーメンとかボヘミアとか呼ばれていたらしいねえ」

「神聖ローマ帝国の中の、ボヘミア王国ですね」

「そうそう。そこで宗教改革が起こったんだよ」

「……あ。フスですか」


 チェコの宗教改革家、ヤン=フス。ルターの宗教改革に先駆けてローマ=カトリック教会に逆らった、重要な人物。現地では多大な支持を得たという。

 しかし、1400年代だったかな? フスは、異端者として火刑に処された。これに怒ったフス派の新教徒たちが、フス戦争を起こしたのだ。

 私がそのことを話すと、中村さんは笑った。


「よく覚えてるね。相川さんは頭が良いなあ」

「えっ」

 私は焦った。別に知識をひけらかしたつもりではなかった。

「いや別に……高校で習っただけですし。中村さんの方が頭良いですから」

「あら、お世辞が聞けるとは珍しい」

「私がお世辞を言うように見えます?」


 その時、中村さんのチワワ、レオンくんがフンをしたので、私は立ち止まって中村さんがそれを拾うのを待った。


「……なんの話だったかな」

「フス戦争です」

「そうそう。フスの処刑の後、人々は怒ってねえ。しかもその後、ボヘミアの王様は、フス派の市議会を解散させて、ローマ教会派の人々で新しい議会を作ってしまったんだよ」

「あらら」

「これでフス派の人々はもっと怒った。それでなんやかんやあって、みんなで市庁舎に向けて行進をしていたんだ。そこへ、反フス派の人が石を投げつけたりしたものだから……」

「ああ、それはまずい」

「そう。怒った人々は大勢でプラハ市庁舎を襲撃して……新しい議員たちを、窓から投げ落としてしまった!」


 中村さんの言い方がおかしかったので、私はつい笑ってしまった。笑い事じゃないけど。


「……すごい発想ですね。投げ落とすって」

「しかも、下には槍で武装した集団が待ち構えていてね。その上に落とされた七人の議員はみんな死んでしまったの」

「ありゃあ、グロテスクな」

「このことがフス戦争のきっかけになったんだよ」

「……そこまでは知りませんでした。フスが処刑されたから反乱を起こしたものだとばかり」

「ふーむ。それは間違いとは言えないけどね。厳密には少し違うのかなぁ」

「ですねえ」


 受験のための詰め込み勉強なんてそんなものだ、という気がした。

 本当の勉強というのは、こうして興味のあることを自分の力で調べ上げ、何が本当に正しい事なのかを、見極めることなのではないか。


 今度はココアが草むらを嗅ぎまわってグルグル回り出したので、私たちは再び立ち止まった。私はココアの小便を水で流して処理してから、「行くよ」と言ってリードを引っ張った。


「ところでプラハ窓外投擲事件は他にもあってね」

「は?」

「最初のは1419年、二度目は1618年に起きたんだ」

「に、二度」


 今度は一体何があった。何があってそんな突拍子もないことを、二回も。


 ……人を窓から放り出すと、戦争になる。


「あ」

 ふと思い当たる節があって、私は言ってみた。

「それ、三十年戦争あたりですね?」

「さすが。正解」

「確か三十年戦争は、ボヘミアでの反乱がきっかけだったはず……じゃあ、まさかしてそれが……」

「そう、それが第二次プラハ窓外投擲事件を発端にして起きたんだよ」

「第二次」


 何だそりゃ。一度ならず二度までも!

 二百年の時を経て、人を窓から放り出すという行動が、発想が、受け継がれてきたのか。それがプラハの人々にとって誇りだったのだろうか?

 お……可笑しい。何かが可笑しい。


「その第二次の事件の前にだね、まず、ハプスブルク家の反プロテスタントの人が、ボヘミアの王様になったんだ。それでフス派の人々を迫害しようとしたんだね」

「あ、そうか。フス派もプロテスタントか」


 周知の事実だが、ローマ=カトリック教会の影響力が及んだ範囲のキリスト教において、カトリックに対抗する宗派は、みんなまとめてプロテスタントと呼ばれる。フスは宗教改革の先駆者だから、当然、フス派もまたプロテスタントだ。

 それにしても、フス戦争でボロ負けしたのに、フス派の信仰の根強いこと。余程みんなに気に入られていたんだな。戦争で人は殺せても、人の心は変えられないという証左か。


「プロテスタントの人々はその新しい王を、王とは認めなかった。そして、彼がフス派を弾圧することは、信教の自由に反すると言い立てたんだ」


 信教の自由? 当時そんな概念が認められていたっけ?

 ああ、そうだ、16世紀のルターの宗教改革の結果だ。講和として、ええと……、アウブスブルク宗教和議が開かれた。そこで諸侯と自由都市は、カトリックかプロテスタントか、どちらかを自由に選んでいいことになったんだ。

 もちろんプラハという都市は、プロテスタントを選択したに違いない。だから王様によるプロテスタント弾圧は自由の侵害だ、と。

 うん、いいぞ。今日の散歩はいい復習になっている。


「そういうことで騒ぎが大きくなったので、王様の使者がプラハ城に来た。ところが大勢の人々が激怒して待ち構えていてね。使者――国王顧問官二人と書記官一人が、また窓から放り出された」

「あちゃ~」

「だけど今回、下に待ち構えていたのは、槍の穂先じゃなくて干し草だった。だから三人は助かったんだ」

「あ、死ななかったんですね」


 落ちても死なないことがあると。ふむ。

 さっき変なツッコミ入れちゃったよ。


「それでごちゃごちゃあって、三十年戦争が始まったんだ」

「プラハで人が窓から投げ出されると、戦争になる……ははは……」

「まあ、直接的な戦争にならなかった事例もあるんだけどね」


 ハァイ!?

 他にも事例が!?


「まだ落とされるんですか!?」

「第三次プラハ窓外投擲事件だ」

「大惨事じゃないですか」

「はっはっは」

「何ですか、その、プラハの人たちは、人を投げ捨てるのが趣味なんですか?」

「もはや伝統行事だね」

「怖っ……ふふっ……」


 今度はちょっと笑いをこらえるのが難しかった。ココアが不思議そうにこちらを見上げながら、フンをした。

 私はゴミ袋を広げて屈み込んだ。


「して、その第三次とは……また市民が何か?」

「これは前とはちょっと違ってね。1948年に起きた暗殺事件だよ」

「暗殺」


 それは、剣呑な。

 1948年なら戦後か。

 ……戦後なら。


「今度は宗教じゃなくて、冷戦が何か?」

「おやあ、鋭いねえ、相川さん」

「……どうも」

「そう、チェコスロヴァキアの政権内で、共産系と非共産系の対立が深まっていた時期だよ」

「それはまた……これまでとは随分と違う感じですね」


 ちょっとヒヤリとするものを感じる。

 時代が近いからだろうか、それとも、背景が全く異なるせいだろうか。


「そこでまたなんやかんやあって、非共産系の閣僚たちが、内閣から去ることになったんだ。で、ただ一人だけ閣内に残っていた非共産系の人間が、ある日、外務省の中庭にて、転落死体で発見された」


 うわあ……。

 邪魔者を、殺して排除した、と。


「怖っ」

「そんな感じで閣内に非共産系がいなくなってしまってね。結局、チェコスロヴァキアに、共産党独裁政権ができたんだよ」

「それで、東側についたんですね」


 プラハで人が落ちると戦争になる。

 今度の場合は、チェコスロヴァキアが、冷戦の東側陣営に入ることが明確になった訳だ。

 これは、戦争になった……のか? うん? まあいいか。


「はあー」


 私は歩きながら天を仰いだ。

 中村さんの話は面白い。……今日のはちょっとばかし物騒だったけど、でも、興味深い。


 私もこういうふうに、好きなことを勉強をしてみたいな。

 大学に受かったら、自分だけのテーマをみつけて、一直線に調べたり、考えたり、できるようになるのかな。

 きっと難しい。

 今日話した歴史だって、本当は単なる暗記科目じゃないもんね。ちゃんと科学的な証拠を示して、解釈して……。大学にはそういう、教科書にはない勉強の仕方がいっぱい溢れているはず。

 楽しみだけど、本当にやっていけるかな。


「中村さんは、よくそんなに勉強できますね。私にもできるでしょうか」

「はっはっは。簡単だよ。いやあ、ウィキペディアというのは便利だねえ」

「Wikipedia!!!」


 私は驚愕のあまり、ココアのリードを取り落とすところだった。

 急に信憑性が薄れたんだけど!?


「中村さん、それ、Wikipediaの情報なんですか!」

「いやまあ、他のサイトも見てみたよ」

「そこもネット情報なんですね!?」

「そんなにびっくりすることかな?」

「いや、あの、何か」


 私は頭を抱えた。

 勉強って……勉強って……。


「こう、図書館とかで本を積み上げて勉強してらっしゃるわけではなく?」

「んー、必用な時はそうするけどね。でも、もともと私は、インターネットをフラフラするのが好きなだけだから」


 中村さんは笑って、レオンくんをちょちょいと引っ張った。


「ではこの辺で、さようなら」

「あっ。さよなら」


 私は慌ててぺこりとお辞儀をした。

 中村さんのイメージが、ガラガラと崩れていく音がする。

 私は腹の中で叫んでいた。


 今までの全部ネットサーフィンかよ!?




 終


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