第10話 叫び

 あまりに咄嗟のことに、宮一郎は自分がどこをどう動いたのかが全くわからなかった。気がつくと馬から飛び降り、宗右衛門を庇う形で地面に転がっていた。顔を上げて周囲を見渡すと、森の木々や植物たちの上を舐めるようにしてチロチロと青い火の手が上がっている。さっきまで大勢いた兵士たちはその数を減らし、数を減らした兵たちは怯えた顔で地面にうずくまっている。その中に明彦の顔も見つけ、宮一郎は束の間安堵する。だが、地面に倒れ伏し動かぬ何人もの兵の姿と、黒い残骸のようなものも同時に視界にとらえ、宮一郎は息を飲んだ。焼けた肉の匂いに思わず顔をしかめ、えづきそうになる。遠くからは馬の嘶く音も聞こえた。炎に怯えて逃げ出したのだろう。いつの間にか自分の愛馬の姿もない。


「なんだ、思ったほど威力が出なかったな。まあでも、半分ちょいは削れたろう」


 ゾッとするようなことを言って、九尾が再び右手を上げるのが見えた。


「皆逃げよっ」


 宮一郎に庇われた形で地面に膝をついていた宗右衛門が一喝した。

 だが、皆がわっと逃げ出した方向に、幕が引かれるようにして青い炎が燃え上がった。それはさながら炎の壁のようで、逃げることもままならなくなった兵達はたたらを踏む。


 そんな兵達を見て、九尾は嘲りを含んだ笑い声を放った。


 宮一郎は九尾の取り憑いた沙羅の姿を見て、中身が違えば人はこうも印象を変えるのかと恐怖を感じた。いつも優しく穏やかで、時折年頃の少女らしい表情を見せる彼女の顔は、今や獣めいた異形の目を光らせ、悪鬼さながらにいびつに歪んでいる。華奢な少女の体の周りには青白い炎が人魂のようにいくつも浮かび、悪夢のように夜の森を照らす。


 逃げ場をなくした兵達は、今や完全に闘志を失っていた。姫の体に取り憑いた化け物を恐れ、声高に命乞いをする者が現れる。仲間の遺体を見つけ、死にたくないと叫び出す者が現れる。残っていた馬たちはひどく怯え、興奮して後ろ足立ちになり暴れ馬と化す。


 ハナから九尾の妖狐を足止めして民を逃すなど無理なことだったのだ。ただの人間が九尾の妖狐に叶うはずがない。九尾の妖狐に取り憑かれた一人の少女を救うことも叶わない。宮一郎は己と自分たち人間の無力さに歯噛みしながら、為す術なく九尾の妖狐を見上げた。そのすぐそばで、兵たちを率いてきた宗右衛門も悔しげな顔で九尾の妖狐を睨みつけている。


 九尾の妖狐は再び手を前に掲げた。またさっきのように炎を放つ気でいるのだろう。それを見た兵たちが悲鳴をあげる。


「消えろ」


 手から真っ青な炎が迸った。炎は龍が天を駆け抜けるように宮一郎たちのはるか頭上を飛び越え、多津瀬領を見下ろす山に激突する。激突と同時に山の斜面に密生していた木々についた炎が爆発を起こし、大地を揺らすような轟音が空気を震わす。


 それを呆気にとられて見ていた兵たちの後ろで、突然九尾の妖狐が膝をついた。息遣いが随分と荒くなっており、様子が明らかにおかしい。


「これは一体……」


 宗右衛門は九尾の妖狐の様子を見て眉をひそめる。


「照準が狂ったのか……」


 そう呟く宗右衛門の視線の先で、九尾の妖狐が突然顔を上げて絶叫した。沙羅の声帯を借りたその声は天を突くばかりに甲高く、思わず宮一郎たちが耳を塞いだほどに空気をビリビリと震わせる。さっき炎の攻撃が山に当たった時に聞こえてきた轟音の比ではない。


 狂ったように叫び続ける九尾の妖狐の周囲で、先ほどから浮かんでいた人魂のような青白い炎が突然激しく燃え上り出した。これこそが地獄の業火ではないかという勢いで燃え出したそれらは、九尾の絶叫に合わせてどんどん大きく激しくなってゆく。


 炎の中心で叫び続ける九尾に、明確な意識があるのかどうかさえわからない。ただただ狂ったように叫び続ける。天を仰ぐその目からは赤い血の涙が流れ落ちる。囲っていた炎は融合して一つの大きな火柱となり、次第にその範囲を広げてゆく。


「これは……まずい」


 九尾の絶叫とともに猛威を振るいその範囲を広げ始めた炎を見て、宮一郎はうめき声をあげる。このままでは宮一郎たち含めた兵団もろとも森が焼け野原と化してしまう。同じことをその場にいた誰もが思っていたが、鼓膜が裂けそうなほどの絶叫を前にしてできることなどない。


 だが爆発寸前かに見えた炎は、突然水でもかけられたように急激に萎んだ。気がつけば九尾の叫び声はプツリと糸が切れたように途切れ、その体は、頭から突っ伏して地面に沈んでいた。


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