第7話 朧月夜
「見ろよ宮一郎。今日は朧月夜だ」
宮一郎が領主の一家が住む館の夜の番に当たっていると、同じく当番の明彦が呑気な声をあげた。
その声に、宮一郎も頭上の月を見上げた。月は丸い満月で、空を覆う靄にくるまれて、夜闇を照らす銀色の光がぼんやりと霞んで見える。
「本当だ」
「何か月がぼんやりしてるから、こっちも頭がぼんやりしてきそうだ」
「それはお前だけだろう」
同年の明彦にしかめっ面を向け、宮一郎は空から視線を外す。
「月ばっかり眺めてないで、ちゃんと見張りをしろ」
「はいはい。……でも大丈夫でしょ。多津瀬はあやかしも出ないし、人攫いも出ないし、本当に平和なところでしょ。おかげで
と、明彦はふわとあくびを漏らした。
宮一郎は背後の櫓の骨組みに背を預け、真面目な顔をして言う。
「俺らが暇なのはいいことだ。それだけ平和ってことだからな。俺ら武士が忙しくなれば、それは戦が始まるってことなんだから。武士が暇な世の中くらいがちょうどいい」
それから宮一郎は、眠そうな顔をして月ばかりを見上げている明彦の腹を肘で小突いた。
「ちょ、なにすんだよ」
「だからってお前は平和ボケしすぎ。ちゃんと見張りしてろ。いつ何時不審者が現れても良いようにな」
「宮一郎は相変わらず真面目だ。もうちょっと不真面目でも良いのに」
文句を言いつつ、明彦は月を見上げるのをやめて周囲の景色に目を移した。それから、「うん?」と眉をひそめる。
別の方向を見ていた宮一郎が、「どうした」と明彦の方を見やった。
「いや、あれって……。姫様?」
「は?」
「ほらあそこ」
明彦が指差した方向に目を遣ると、一人の女性の姿があった。長い髪を下ろし、寝間着姿でしかも裸足のままフラフラと頼りなく館の庭を突っ切って行く。どう見ても怪しさ満点だが、焚いた篝火の前をその女性が通った時、明かりで映し出されたその顔を見て、彼女が宮一郎のよく知る人物であることに気がついた。
「確かに……姫様だ」
「こんな夜中に何やってるんだろ。便所?逢い引き?」
「いや、便所なら方向が逆だろ。あと姫様に逢い引きする相手なんていないぞ。たぶん」
明彦のしょうもない推理に後半自身なさげに反論しつつ、宮一郎はフラフラと歩く沙羅をじっと観察した。
篝火の前を通り過ぎたため、顔の表情まではっきりとは見えない。だが地面を一歩一歩踏む足は明らかにふらついていて、どうも尋常ではない。しかも裸足だなんて。
「寝ぼけてるのかな」
また明彦が言った。
「明彦、お前、一応御屋形さまにこのこと伝えてこい」
「え、宮一郎は?」
「俺は姫様の後を追う」
「あ、ちょっと」
明彦の慌てたような声を背後に、宮一郎は沙羅の後を追って櫓から離れた。
宮一郎は、沙羅に声をかけるべきか迷った。今の沙羅の様子は明らかにおかしいし、正気を保っているようにも思えない。そんな彼女に声をかけて大丈夫なものだろうか。
迷いながらも、宮一郎はそっと沙羅の背後をつけていった。
沙羅は頼りない足取りながらも、あてもなく彷徨っているわけではなさそうだった。というのも、館の敷地外につながる正門に向かってまっすぐに歩いていったからだ。
沙羅が門を出て、右側に向かって下って行く道へ曲がったのを待ち、宮一郎はしのび足で正門に向かう。そして、門からそっと顔を出して沙羅の姿を確認する。その時、沙羅の肩のあたりからにわかに青い炎の残り火のようなものが立ち上ったような気がして、宮一郎は目を見張った。だがそれは瞬きする間に消えていて、見間違いだったかと宮一郎は首をひねる。今夜は月のかすむ朧月夜。普段とは違う月の光に惑わされ、一時の幻でも見たのかもしれない。
沙羅は、村へ続く坂道を下ってゆく。やがて寝静まった民家の並ぶ通りを抜け、多津川の上流方向へ伸びる森の小道に差し掛かった。
夜闇に沈んだ森におぼろげな月の光が差し込み、不思議な影があちこちに出来ていた。それをどことなく不気味に思いながらも、宮一郎は草藪をかき分けて森の奥へ進んでいく沙羅を追う。
いくら満月の夜と言っても、人の目では夜の森を迷いなく歩くなど慣れている者でなければできない。だが、沙羅は明かりも持たずにさっさと森の中を抜けて行く。その背後を見ながら、宮一郎の頭の中には沙羅が何かに取り憑かれているのではないかという疑問が首をもたげていた。もしそうであるならば、やはり下手に声をかけるのは危険だ。邪なあやかしや悪霊に取り憑かれでもしていたら、こちらが襲われる危険性がある。ここは黙って後を尾けて行くのが安全だろう。
やがて、沙羅は森の奥の岩肌に空いた洞窟の前まで来た。洞窟の手前には石造りの鳥居が立ち、この洞窟が俗世とは切り離された場所であることを示している。
沙羅が松明でほのかに照らされた洞窟へ入り、姿が見えなくなったところで宮一郎は動いた。ここは本来、守り巫女やそれに仕える侍女または多津瀬を収める領主の一族しか立ち入りを許可していないのだが、今は緊急事態だ。沙羅と一定の距離を保った状態で、自分も洞窟へ入る。そのまま奥へ進んでいくと、祭壇が見えてきた。祭壇の背後には巨大な水晶のような形をした封印石が聳えている。宮一郎は、幼い頃より話だけ聞かされていた封印石の姿を、生まれて初めてその視界に収めることとなった。
封印石は白く透き通っていて、淡い光をほんわりと放っているようにさえ見える。見た瞬間、内心美しいと宮一郎は思ったものの、封印石には大昔にこの国で暴れ回ったという九尾の妖狐が封じられていることを思い出し、恐れを持った気持ちで封印石を見つめ直す。
一方、沙羅は祭壇の前でようやく立ち止まっていた。
宮一郎の視点からでは沙羅は背を向けていて、祭壇の前で彼女が何をしようとしているのかはいまいちわからない。
封印石から目を離し、宮一郎が沙羅を注意深く見ていると、沙羅は首元に下げていた何かを外した。両壁に灯された松明の明かりを受け、沙羅の手の中でそれはキラリと赤く煌めく。
——鎮めの玉の
五つの勾玉の連なる首飾り。宮一郎もそれには見覚えがあった。沙羅が魂鎮めの儀式の際に必ず持っていくものだ。ではこれから魂鎮めの儀式でも行おうというのか。だがなぜこんな夜中に?
その時、宮一郎の眼の前で沙羅が信じられない行動をとった。御統を首から外したと思うと、乱雑に地面へ投げ落としたのだ。あの御統は、数百年もの長きにわたり沙羅の一族に伝わってきた神器の一種。あのように取り扱っていいものではない。
思わず止めに入りかけた宮一郎の前で、沙羅が無造作に祭壇に供えられていた重そうな銅器を手に取った。それを、地面に落ちている御統へ向かって、あろうことか手を離して落とした。銅器は粉々に砕け散り、その上をさらに足で踏みつける。
明らかに御統の壊れる音が洞窟内に反響して、宮一郎は動きを止めた。驚きを込めた目で、銅器の破片と共にひしゃげた御統を見つめる。
一方、沙羅は壊れた御統を無視して祭壇へ近づいてゆく。そうして祭壇に足をかけて登り、聳え立つ封印石に向かって両手を伸ばし、触れた。
その途端、沙羅の体から黒い霧のようなものが立ち上った。その霧は意思を持った生き物のように不気味に蠢きながら、封印石に向かって流れ込んでゆく。黒い霧に犯された封印石は、じわじわ蝕まれるようにして黒く変色していく。やがて、あれほど美しく白い輝きを放っていた封印石はもはや見る影もなく、後には獣の牙のように屹立するどす黒い闇に閉ざされた石だけが残った。
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