第4話 大叔母

 館へ戻った沙羅は水月を若葉に任せ、離れにある大叔母の部屋へ駆け込んだ。


 大叔母は、長いあいだ守り巫女を務め上げたひとかどの人物だ。彼女の兄の娘たち、つまり、現在の領主である沙羅の父の姉や妹に守り巫女となる素質を持った女子が生まれなかったために、彼女は霊力を持った沙羅が生まれ、守り巫女を受け継ぐ歳になるまで何十年も守り巫女の役目を果たしてきたのである。


 そんな彼女も二年前に腰を痛めてからというものの、部屋からあまり出てこなくなった。今では趣味の生け花や碁を指しながら気楽な隠居生活を送っている。だが、まだまだ頭の方はははっきりしており、もともと頭も良いので相談役としてはもってこいの人物である。特に、今回の件では。


「大叔母様」


 大叔母は又姪の沙羅が礼儀作法も何もなく自室に駆け込んできたにも関わらず、それほど驚いた様子は見せなかった。その代わり、聞くものを落ち着かせるような声音で「どうしたんだい」と沙羅に問うた。


 沙羅は大叔母の元へ歩み寄って、ぺたりと畳の上へ座る。

 今日は腰の痛みがマシなのか、大叔母は布団から起き上がって一人五目並べをしていたところのようだ。大叔母の前には黒い石と白い石の並んだ碁盤が置かれている。几帳面に並んだ盤上の目は、大叔母の真面目な性格をよく表してるようだった。


「大叔母様、これを」


 沙羅は、駆けてきたため上がってしまった息を整えながら、幾筋もの皺が刻まれた大叔母の手に鎮めの玉の御統を手渡した。大叔母は石を並べるのをやめ、怪訝な表情で又姪から受け取った懐かしい品に視線を落とす。やがて亀裂の入った勾玉に気がつき、それを人差し指と親指で掴んで持ち上げた。


「これは……。一体何があったんだい」


 常に落ち着いた物腰の大叔母も、さすがに驚いたようだった。蒼白な顔をする沙羅へ尋ねる。


 沙羅は痣のことまで話すべきか一瞬迷ったが、思い切って気がかりなことは全てを話すことにした。繰り返し見る夢と、今朝体に浮かんだ痣、そして魂鎮めの儀式が失敗したことと勾玉に亀裂が入ったことは、すべて繋がっているように思えてならなかったからだ。


 沙羅は夢のことから始めて、今日起こった出来事を一つずつ大叔母に話して聞かせた。途中、大叔母に痣も見せた。すべてを聞き終えた大叔母は、何も言わずに沙羅の手の中へ御統を返した。そしてゆっくりと口を開き、沙羅へいくつかの質問を投げかけた。


「夢の方は、小さな頃から繰り返し見ていたと言ったね」


「はい」


「具体的に言うと、それはいつ頃から見始めたんだね」


「……多分、六歳ごろ。母上が、亡くなった頃……」


 大叔母は沙羅の返事を聞き、難しそうな顔で何事かを考え込んだ。それから少し咎めるような口調で言った。


「なぜそれをもっと早くに相談しなかったのかね」


「それは……」


 沙羅は目を伏せた。


 今から十年前。沙羅は六歳の頃、大叔母から守り巫女の役目を引き継ぎ、鎮めの玉の御統をもらった。ちょうどその年の冬に、元から病気がちだった母が帰らぬ人となった。その頃からだ。あの悪夢に苛まれるようになったのは。だが、沙羅は当時誰にもそのことを相談しなかった。否、相談したにはした。宮一郎にこっそり打ち明けたことがある。だが、夢は夢。現実になることはないと彼に慰められ、そのまま気にしないことにしたのだ。それに当時は、母が亡くなり館や多津瀬領全体が悲しみに暮れていた。そんな折に子供の夢如きに皆を煩わせてこれ以上の心労をかけたくないという、幼子ながらの気遣いを抱き、結局大人には相談しなかったのだ。


 その旨をポツリポツリと大叔母に吐露すると、大叔母は哀れむような表情を束の間沙羅へ向けた。それからやれやれと深く息を吐いた。


「あんたは子供の頃から聡い子だったからね。それが裏目に出てしまった」


 腰が痛み出したのか、祖母は起こしていた上半身を敷いてあった布団の上へ置いた。


「あんたは付け込まれたんだよ。あやかしに。封印石に封じられている、九尾の妖狐に」


「え……」


 沙羅は驚いて、横になった大叔母を見遣った。唐突にそんなことを告げられ、とっさには理解が及ばない。


 祖母は眉間に深い皺を刻み、沙羅の目をまっすぐに見つめてきた。


「わからんかったのかね?あんたが繰り返し見るというその夢に出てくる、生き物のようなもの。それは九尾だ。九尾に付け込まれている証拠だよ」


「じゃあ、夢は九尾が見せているということ?」


「多分そうだろうね。九尾の妖狐を始め、狐のあやかしは人の心につけ込むのが上手い。そうして悪夢を見せる。繰り返し繰り返しね。そうやって人を弱らせるのが大好きなんだよ。奴らは。……あんたが見せた心の隙。九尾は、きっと母を亡くして打ちひしがれていた、幼いあんたの心の隙間に付け込んだんだろうね」


「でも、九尾の妖狐は封印されているはず。なぜそんなことが……」


「簡単ことさ」


 祖母は沙羅を見上げる形で言った。その声が妙に静かで、沙羅は恐れのようなものを感じた。やけにはっきりと、館の周りを飛び交う小鳥たちの名もなき囀りが耳朶を打つ。


「言わなかったかね。お前に守り巫女の役目を引き継がせるときに。守り巫女は、強靭な精神を持たなければならない。魂鎮めの際、決して弱みを見せないように。魂鎮めは、封印石内の九尾の魂と身一つで向き合うということだ。それは向こうも同じなんだよ。向こうだってこちらの、巫女の魂を見透かそうとしている。だから弱みを見せれば、九尾に魅入られる、と」


「……」


「九尾に魅入られた。つまり、心の弱みに付け込まれたということだ。封印されているため時間はかかるが、九尾はお前に悪夢を見せることによってじわじわとお前の心と体を侵食していった。それを繰り返すことおよそ十年。とうとう悪夢は現実にも作用を及ぼすようになった。痣という形で」


 大叔母は沙羅の手元へ視線を落とした。無意識に、沙羅は痣の浮かぶ右手首を掴んだ。先ほどから体の震えが止まらない。それでも沙羅は、大叔母に尋ねた。薄々答えはわかっていたが。


「何のために、九尾の妖狐はそんなことを?」


 祖母は目を細めた。祖母の目は衰えてもなお、力強い光を湛えている。そして彼女は重々しく唇を割った。


「すべては封印を解き、外へ出るためにだよ」


 予想通りの答えだった。


 大叔母は言葉を重ねる。


「おそらくは魂鎮めが失敗したのも、鎮めの玉に亀裂が入ったのも、その痣のせいだ。その痣に侵され、お前の体はもはや不浄の身。そうやって守り巫女が本来の役目が果たせなくなれば、九尾はいつか自ら封印を破って石の中から出てくるだろう」


「……」


  沙羅は端から見ただけではわからぬような体の震えを、必死で抑え殺した。

  封印石の中にいるあやかし——九尾の妖狐。数百年前、この百世の国で猛威を振るったという伝説のあやかし。『九尾来たれば禍起こる』そんな言葉が残っているほどに、当時の人々は不吉の象徴として九尾を恐れた。そんなあやかしが封印から目覚めれば、沙羅の大好きな多津瀬は、百世の国はどうなるのだろう。 


 沙羅の脳裏に不吉な光景がよぎった。荒れ果てた民家や田畑、血を流して倒れる大勢の人々。生命力に満ち満ちた緑青の山の色は褪せ、青いはずの空は不吉な血の色で染まっている。それをあざ笑うかのように見下ろす、大きな、九つの尾を持ったおぞましい化け物。


「大叔母様……。九尾の妖狐の復活を止めるには、私はどうすれば良いのですか」


 沙羅は縋る思いで祖母を見つめた。祖母の目は険しい。


「その痣が浮き出る前ならば、まだ対処の仕様はあったやもしれぬ。だが、もうそうなってしまっては……。老いた私ではもうお前の代わりを果たすことはできない。新たな守り巫女の登場を待つしかあるまい」


 祖母の言葉に、沙羅は身を粉々に砕かれた思いがした。新たな守り巫女の登場を待つしかない。そんなの何年先になるというのだ。弓月彦はまだ十歳になったばかり。嫁を貰い受けるのは何年も先だ。沙羅が結婚して子を儲けるという手段もあるが、それでも数年はかかるだろう。霊力を持った女子が生まれたとしても、魂鎮めを行えるようになるにはもう少し待たねばならない。その間に九尾がおとなしく封印石の中で待ってくれる保証はどこにもないというのに。これは言外に、対処する方法はないと祖母から言われているようなものだった。祖母はまた何か言おうと口を開きかけたが、沙羅はそれより早く御統を首にかけると、立ち上がった。今は、一人でいたい。


「沙羅?」


 大叔母がどうしたと目を見開いたが、沙羅は何も言わすに部屋から駈け去った。

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