第12話二人、うっかり。

「……んなさま、旦那様……」

「……ん、ふわぁ……っおぉぉ!?」


 聞き覚えのある声にホルンが目を開けると、目の前、鼻が擦れるのではないかというくらいの距離に上下逆さまのケテルの顔があった。

 叫ぶと同時に彼女は、バネ仕掛けの人形みたいに勢い良く顔を離す。

 甘い匂いの欠片も残さない、鮮やかな撤退である――いや、実際匂いとかあるのだろうか。何しろ、彼女は。


「お目覚めになられましたね、旦那様」

 謹み深い笑みを浮かべながら、ケテルは深々と頭を下げる。「昨日は、良くお休みになれましたか?」

「あ、あぁ……まぁね」

「それはよう御座いました」

 無表情ながら心底安堵したような声。「何しろ、まともなを何も出来ませんでしたから」


 荒れた城内の探索は予想以上に体力を削られ、結局二時間ほどで食堂を見付けた時点でホルンもミザロッソも力尽きた。

 幸い奥まった位置にあった食堂は他所と比べてまだ小綺麗で、隣の倉庫から見付け出した毛布に横たわるともう駄目だった。そのまま、二人とも泥のように眠りに就いたのである。


 実際のところ、堅い床で毛布にくるまって寝たせいで背中から腰にかけて、骨と関節が悲鳴を上げている。

 だがそれはそれとして、睡眠そのものはしっかり取れた。城内の様子を思い起こせば、それだけでも充分だろう。


 だが、貴族に仕えるメイドの考える『充分』には、まだまだ先があった。


。宜しければ」

「はいはい、湯ね……え、湯?」

「はい、突き当たりが風呂場となっておりますので」


 慇懃に促すケテルの様子には、冗談の気配は感じられない。湯があると彼女が言うからには、きっとあるのだろう。

 だが同時、にわかには信じられない自分理性がいる。

 疑惑の根拠は昨夜の実体験だ。

 三年間の不在がどれほど建物を弱らせるか、ホルンはその目と足で充分以上に理解できた――その後始末に、新たな主はまだ指さえ付けていない。そんな状態で、風呂だって?


 だが忠実なる従僕は、それが真実であると胸を張る。少なくともケテルだけは、自分の仕事が完璧であると保証している。


「……わかった、じゃあ、有り難く使わせてもらうよ」

「はい」


 半信半疑のまま、半ば思考停止した状態でホルンは食堂を後にする。

 だから、気付かなかった――









「……驚いたな」


 廊下を歩きながら、ホルンは短くそう表した。


 他に言葉が見付からなかったのだ。

 偉大すぎる仕事の成果は時として正しい評価を得られないものだが、それは感情が追い付けないからだとホルンは実感していた――『文句無し』というのは悪い意味での文句のことだとばかり思っていたが、どうやら誉め言葉も含めて、文も句も告げられない、という意味だったらしい。


 


 足元を埋める落ち葉も、腐った絨毯も、汚水の溜まりも何もかも。

 流石に腐った床板や割れた窓ガラスこそそのままだが、逆に言えば、それ以外に掃除の必要な部分は全く残っていなかった。


「……一晩中、掃除してたのか……?」


 単純といえばあまりにも単純な答えだが、そうとしか考えられない。

 そうとしか考えられないが、しかし、そうとは考えられない。だって、昨日だぞ? あれだけ叫んで走って騒いで飲んで食って呑まされて、ゴミの山を掻き分けて、その上で?

 人間の体力じゃあ不可能だ、真っ当な精神でも不可能だ。


「……人間じゃあ、ないんだっけか」


 【まぎあねっと】。

 聞いたことの無い単語がストンと、疑問の答えに収まった。

 痩せた四肢からは想像も出来ない腕力を、どうして発揮できるのか――人間じゃあないから。

 首を深く切り裂かれて、何故生きていられるのか――人間じゃあ、ないから。

 一晩中掃除に勤しみ一睡もせず、どうやったらあんな風に話せるのか――人間じゃあ、ないのだ、あれは。


「じゃあ何だって、話だけどな」


 解らない。

 いや、その答えが恐らくは【まぎあねっと】なのだろうが、聞きたいのはそういうことじゃあない。


 悩んでも、答えは出ない。当たり前だ、名前さえ知らない存在の詳細をなんて知ってるわけがない。考えれば解るという類いのことでも、ないのだろうし。


「どうすっかな……本人に聞いてみるか……っと、突き当たり。これか」


 考え事をしている内に、足は目的地に辿り着いていた。大きな滴の絵が飾られたドア、多分間違いないだろう。

 ドアは抵抗なく開いた。まさか、蝶番に油まで差したのだろうか?


「………………」


 そんな些細な疑問は、一瞬でホルンの脳内から消し飛んでいった。

 代わりに浮かんだのは、そう言えば、という見落としていた事実。


 


 そして、自分の主人ミザロッソより先にホルンに湯を勧める従者などいるわけない。


 だとすると、これは当然。


 

 開けたドアの向こう。

 ドレスを脱ぎ捨てたミザロッソが、ぶるぶると震えながらホルンを睨み付けていた。


「あー、その、信じないだろうけどこれには事情があるんだ。深い、深い理由が」

「とっとと出てけ馬鹿っ!!」


 文字通り、叩き出されながら。

 どうせなら下着も脱いでるタイミングが良かったなと、ホルンは静かに目を閉じた。









「……あら。如何されましたか、旦那様?」


 シャワーの音を聞きながらドアに寄り掛かるホルンに、ケテルは何やら大きな籠を持って近付いてきた。

 古いが、清潔そうな籠だ。何処かで見付けたものを手入れしたのだろう、何とも仕事の早いことである。


「風呂場がお気に召しませんでしたか? 使用に問題がない程度には清潔に出来たと思ったのですが……」

「いや、そういうわけではないよ」

 慌ててホルンは首を振った。「君の仕事振りには満足しているし、その、感心しているさ。ただ単純に、順番待ちをしているだけだ」

「順番待ち、ですか?」

 ケテルは首を傾げた。「婚約者なのですから……ご一緒に入られては?」

「あー、それはその……いや、やはり婚約者とはいえプライベートは大切だからね」

「それはそれは。ご立派な考え方です」


 皮肉か、と思ったがしかし、ケテルの声には熱心さがほんの僅かに滲んでいた。


「革新的とも言えるでしょう、パートナーを尊重する男性というのは貴重だと、このケテルにも理解できます」

「そう、かな……」


 当たり前ではないか。

 そう言うとと、短い返事が返ってきた。


「女性を、絵画のように所有するという考え方は一般的だと思います。特に、失礼ながら貴族の皆様はそうお考えになる方が多いかと」


 それはそうかもしれない。

 だが、「」とホルンは思わず言っていた。


「貴族は女性を絵画のようになんて考えてない。貴族は――

「…………」


 ホルンの溢した、それは本音だった。

 穏やかな表情と落ち着いた声で自然に発せられた言葉、だが、そこには確かに炎が燃えている。冷たく燃え盛る、憎しみの炎が。

 それを見透かすように眺めると、ケテルは静かに籠を置いた。


「……お着替えを、ご用意しました」

「……ありがとう」

「旦那様は」

「僕は違う、つもりだよ。線の向こう側にいる自覚はあるが」

「……いえ」

 やや自嘲めいた笑みを浮かべるホルンに、ケテルはしかし首を振った。「


 自分を人間のように扱うなと言う、ケテル。

 驚いて彼女を見るも、返ってくるのは感情の読めない無機質な視線。整った顔立ちは、まるで、


「では、失礼します旦那様。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さいませ」


 完璧な角度で一礼し、立ち去る彼女を呼び止める言葉を、ホルンは持ち合わせてはいなかった――。









「ミザリィ……着替え、置いとくぜ」

「……」


 シャワーの音は既に止んでいる。

 湯気の漏れるドアの隙間に声をかけると、細く開いたそこから伸びた手が勢い良く、清潔な衣服を引き込んでいった。

 まるで乙女のような恥じらいだ。唇を歪めながら、ホルンはドアにもたれ掛かる。


「見たとこ清潔みたいだぜ、廊下の惨状が嘘みたいだ」

「……思ったより下手くそね、あんたは」

「……聞いてたのか」

「聞きたいことがあるのなら、さっさと聞けば良かったじゃない。私にそうしたみたいに」

「あの時は悪かったよ――そう言えば、そっちは上手くやったな」


 嫌みっぽいミザロッソの声に苦笑する。

 根に持たれるのは良くない。とはいえ、あの場面での追及は必要だったとホルンは確信しているわけで、その点で不当な行為だったとは思っていない。

 だから軽い謝罪の末、話を変える。


「設定を練った甲斐があったな、お陰でお前は、多少の無礼も許されるってわけだ」

「私が礼儀知らずな真似するわけ無いけれどね。出来るなら、あんたの方に予防線を張りたかったところだわ」

「俺の方には必要ないだろ、ケテル嬢はあんたにだ。あんたが白と言えば、灰色くらいまでなら白になるんじゃないか?」

「ケテル『嬢』ね……」

 ドアの向こう、衣擦れの音を艶かしく奏でながら、ミザロッソはため息を吐いた。「彼女の見た目は、あまり当てにならないわよ?」

「【まぎあねっと】、とやらの話か」

 上手な会話運びとは思えなかったが、一先ずホルンは乗ることにした。「詳しいのかい、お嬢さん?」

「聞きたいんでしょ?」

「話して欲しいね」

「……この目で見るまでは、半信半疑だったけど」


 ゆっくりと、暗闇の中タンスからシャツを探すように手探りで、言葉を選びながらミザロッソは話し始める。


「クロック家の領地を見たとき、おかしいと思ったのが最初よ」

「領地?」

「国境付近を任される伯爵よ? 湖を陸と数えたとしても、狭すぎると思わない?」


 大陸から海峡を隔てているこの島国において、港はそのまま国境だ。

 そこと首都との間に横たわるクロック伯爵の領土は、なるほど最前線と言えるだろう。そして常識的に、国境付近を固めるのは力か信用のいずれかを最低でも所持している貴族である。


「実際、かの百年百合戦争において、伯爵直轄の騎士団には真っ先に、国王からの参戦願が出されているわ。戦場も王が直々に指図して、劣勢の戦線を転々としている。

 そんな有力で、しかも国王に信頼された伯爵家よ? 凋落する原因もないし、この程度の領地に封じられるとは思えない。とすると――」

「――、か」

「帳面上には出てこないような何か、例えば希少な資源が眠ってるとか、そういうのを想像するのが普通でしょう?」


 だから調べたの、とミザロッソは事も無げに言う。

 正直貴族の内情なんて探る術、ホルン程度には想像さえ出来ないが、彼女が『調べた』と言うのだからきっとそうなのだろう。彼女が知ろうとして知れないことなど、精々心の裡くらいに違いない。


「けれども、調べても調べても、そういう話は全く出てこなかったわ――伯爵家は代々善良且つ生真面目で、帳簿外の収入なんか一切無い。そう結論付けるしかなかった」

、だろ?」

 ホルンは軽口を挟む。「秘密の無い貴族なんて居ないさ」

「少しは黙って聞けないの? ……まあ実際、、何だけれど。

 ……帳簿を見るとね、奇妙な項目に気が付いたのよ。『騎士団維持費』、これが必ず、どんな年にも計上されていた」

「でも、伯爵家には直轄の騎士団がいたんだろ? その維持費なら別におかしくは無いんじゃないのか?」

「問題なのは、額よ。維持費は昔から、今の今まで、全くの同額だったの」


 それは、確かにおかしい。

 騎士団は戦時の備えであり、平和な時にもその練度や装備を維持するのは当然だ。そのために、平時でも費用が掛かるのは仕方がない。

 そして戦時なら、兵糧や武装の修繕、近年では弾薬の購入費など必要な金銭は跳ね上がる。予算として計上するのを戦況が一段落してからにするとしても、金額には上がり下がりがあって然るべきだ。

 伯爵の領地が平和で、戦争とは無縁だったという可能性もない――国王からの参戦願が残っているし、そもそも位置的に防衛と無縁ではいられまい。


「考えられるのは二つ。単純に戦時は特殊な会計を行っていたのか、或いは、よ」

「そしてお前は、前者だと思ったわけだ」


 国王から依頼される程だ、何処か、下手をすれば国庫から内密に軍費を下賜されていてもおかしくはない。

 或いは、毎年の維持費を貯めておき、いざというときにはその中から支払うか。


「常識的にはそうでしょ? でも一応、騎士団について調べたのよ。もし国が絡んでるなら、そんな爆弾にわざわざ踏み込みたくないじゃない?

 そしたら、出てきたの。『かの騎士団は常に前進していた。勇猛さも果敢さも、その氷のような表情からは感じられない。恐れはなく、勇気もない。ただススメの声に応じて進み、タオセ

 と言われて敵を葬るのみ。伯爵は自らの、幽鬼のごとく冷徹な部下たちを、親しみを込めてこう呼んでいた』……」


 歌うように詞を読んだミザロッソは、躊躇うような間を開けて、それから、自棄になったように淡々とその名前を告げた。


「……『【マギアネット】、と』」

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