第7話_本に触れた六番街
アシュリーが目を覚ました理由がイルムガルドと同じであったかどうかは分からない。ぼんやり青白い光が隣のイルムガルドを照らし、四番街の大きな画面越しに見た笑みのない彼女の表情を浮かび上がらせる。そこには、アシュリーの知らないイルムガルドが居た。眉間に深く皺を刻み、難しい顔をしている彼女に少しの不安を抱いたアシュリーは、
「起こしちゃった、ごめん」
「……帰るの?」
「ううん、違うよ、ボスからの連絡を見てただけ、寝てていいよ。黙って帰ったりしないから」
額に落とされた唇も優しく、イルムガルドの声は何処までも穏やかで、アシュリーは心地良さそうに一度目蓋を落とす。その様子を見たイルムガルドはそのままアシュリーが眠ると思ったのか、身体を起こして再び視線を画面へと戻すと、先程までの表情に戻っていた。
「イル」
「ん?」
アシュリーが呼べば、返る声はやはり柔らかく、少しも冷たさを感じさせない。なのに表情だけはいつもの彼女ではなく、アシュリーは不安げに眉を下げる。
「そんなに難しい顔をして、どうしたの? 何か、あった?」
イルムガルドを『イル』として繋ぎ止めようとするかのように、アシュリーは声を掛ける。政府からのメッセージを読んでいる彼女の邪魔をすることは暴かれてしまえば罪かもしれなかったが、こんな関係を結んでいる以上、罪の中の一つとなるだけだ。
アシュリーを見やったイルムガルドは口元には笑みを浮かべたものの、眉は顰めたままで、困った様子で首を捻る。
「いや、あー、ちょっと読めない、だけ」
「読めない?」
「ボスのメッセージに、知らない単語が入ってて、意味を考えてた」
その言葉に、アシュリーは不思議そうに首を傾ける。
「聞いてしまえばいいのに」
「うーん……」
唸るばかりでイルムガルドはメッセージを返そうという様子が無い。それを眺め、『ボス』という人が聞きにくい相手、または怖い人なのではないかと予想したアシュリーは疑問を深めることなく、提案を変えた。
「私も賢くはないから……書いてくれたら一緒に考えるわよ、調べたりとか」
政府からのメッセージを勝手に見ることには問題があると考えたのか、覗き込むようなことはせず、アシュリーはベッドボードの棚に置かれたメモ帳とペンをイルムガルドに手渡した。ほんの少し戸惑った様子で受け取ったイルムガルドは、首を傾け、そしてその単語を書いた。返されたメモ帳を見つめ、アシュリーが三度、目を瞬く。
「……把握?」
「はあく?」
音を聞いても首を傾けているイルムガルドを意外そうにしながらも、アシュリーは少し考える様子で視線をシーツに落とす。
「そうね、何て言えばいいかしら……『お客様の人数を把握する』って言うと、何名様か分かる、ってことになるから、『分かる』に近いかも」
イルムガルドはその説明を聞いて再びメッセージを見つめ、そして、少し不満そうに眉を顰める。
「本当だ、意味が通じる。……分かるって書いてくれたらいいのに」
口を尖らせている様子は眉を顰めているよりも珍しいが、それを見たアシュリーは不安ではなく喜びを滲ませる。普段はイルムガルドの『少女』らしくない部分ばかりを見ているアシュリーだったが、こんな表情はイルムガルドを正しく十六歳に見せたせいかもしれない。
「一応、辞書も引いてみる?」
「じしょ」
「辞書、しらない?」
アシュリーが首を傾けながら問うと、イルムガルドはアシュリーから目を逸らして俯き、少しの間沈黙した。そして、小さな声で「ごめん」とシーツに向かって呟く。
「どうして謝るの? 辞書はね、言葉の意味が載っている本なの。少し待っていてね」
ベッドから降りたアシュリーは近くに掛けていたカーディガンだけを羽織り、クローゼット近くの戸棚へと歩いて行く。いくつかの扉を開けては閉じて、目的の物を見付けるまで彼女は少しの時間を要した。ようやく見つけて、それを片手に戻る時、何処か気恥ずかしそうな顔を見せる。
「しばらく使っていなかったから、何処に置いたか分からなかったわ。お待たせ、これが辞書」
手渡されたそれを恐る恐る受け取ったイルムガルドは、弄ぶように裏を見たり背を見たりと物珍しそうにするばかりで、本としてあるべき形で中々開こうとしない。見兼ねて、隣に座り直したアシュリーが再び辞書をイルムガルドの手からやんわりと奪うと、彼女の膝の上で開いてやった。
「ほら、言葉の意味が書いてあるでしょう?」
「へえ、すごい」
「音の順に並んでいるから、読み方が分からないといけないけれど。……『把握』はもう少し後ろね」
ぱらぱらとアシュリーがページを捲って行く間、今調べようとしているものと全く関係の無いページもイルムガルドは真剣に見つめている。アシュリーは単語を探してやりながら、その横顔を一瞬だけ確認した。
「……『しっかり理解すること』」
「それが一番、意味が近そう?」
「うん」
もう確認を終えたはずのページを、いつまでもイルムガルドが見つめている。アシュリーはそれに対して疑問を向けることも無く、辞書を奪うことも無く、イルムガルドの気が済むまで黙って待っていた。それが不自然に長い時間であったことに気付いたのは、イルムガルドの方だった。はっとした表情を垣間見せてから、誤魔化すようにいつもの笑みをアシュリーに向ける。優し過ぎるほど丁寧に辞書を閉じると、それをアシュリーへと返した。
「ありがとう。わざわざごめん」
「さっきも言ったけれど、イル、どうして謝るの? 私は大したことをしていないわ」
受け取った辞書を元の戸棚へは戻すことなくベッドボードの上に置いて、アシュリーは少しだけイルムガルドへと身体を寄せる。イルムガルドは、曖昧に笑って首を傾けるだけで、返事をしなかった。
「イルは、学校には行った?」
それを問うアシュリーはもう、答えを半ば分かっていたのだろう。声は囁くように静かで優しく、イルムガルドが身構えてしまわないようにと気遣う色があった。それでもイルムガルドは微かに眉を下げて黙り込み、声を出さずに緩く首を振っただけ。アシュリーはそれを見つめ、微笑みながら彼女の頬をそっと撫でる。
「そう。……なら、分からない言葉が沢山あっても仕方がないわね。むしろ学校を行かずに普通に読み書きができる方がすごいかも」
「……そうかな」
「そうよ」
いつもより幾らか弱く返ったイルムガルドの声に、いつもより少しはっきりとした声でアシュリーは肯定する。アシュリーは貧困街の住民だが、最低限の教育はこの街の学校で受けていた。八番街までに住む者で、学校にも行けないほど貧しい者はほとんどない。別の問題で学校に行けなかった、または行かなかった者などは、居るにしても。
イルムガルドに読み書きが出来るのは、孤児である彼女に優しく親代わりをした者が居た、――等という話ではないのだ。読み書きを教えてくれた大人に、イルムガルドが感謝しているとしても、そんな自分を恵まれている方だと思っていたとしても、傍から見て同じくそう見えていたとしても、大人達がそうしたのは彼女に仕事を手伝わせる為であり、無償の愛では決してなかった。そんなことはイルムガルドも理解していた。だから彼女は、他人に質問が出来ない。孤児であるというイルムガルドの身の上を思い出したアシュリーは、そんな性質も含めて、どうしてそうなってしまったのかを察し、今まで気付かなかったことに申し訳ない思いも込めて、イルムガルドを抱き締めた。
「イル、分からないことは、聞いたらいいわ。次からは聞いてね、そして私も分からなかったら、また辞書で一緒に調べましょう」
アシュリーの肩に額を押し付けながら、イルムガルドが「うん」と応えた声は少し掠れていた。イルムガルドは孤児だった。親が居なかった。家族が無かった。だから、分からないことや理解できないことに対して『何故』と不必要に問うことは許されなかった。それが仕事に支障が無いことなら、答える義理は他人には無い。彼女の将来に責任を持つべき人間はこの世には一人も居なかった。イルムガルドは、母でも姉でもない他人が、例えどれだけ優しくしてくれていたとしても己の為に割いてくれる時間が無いことを、小さな頃からよく分かっていた。仕事をする為に必要なことだけを問い掛け、最低限を教えてもらって、貧しい街の端で一人、生きる為だけに生きてきた。
「そうだわ、あなたの端末なら、政府支給のものだから辞書機能くらい付いてるかもしれないわね」
「へえ?」
再びベッドに並んで寝そべりながら、枕元に戻された端末を見てアシュリーが呟く。アシュリーが持つ端末はそんなに高価なものではないこともあり、多くの機能は付いていない。通話、メッセージの送受信、政府から市民へと通知される知らせを受け取る機能、この三つはどの端末も出来るけれど、それ以上の機能となると、多機能になるほどに端末は高価になっていく。しかしこんな通信端末を持つこと自体が初めてであったイルムガルドに、そんなことが分かるわけもない。端末も、初日に最低限の使い方を聞いたきりで終わっている。
「あなたの端末を私が触ってしまうと問題があるでしょうから、もし聞ける人が居たら、それくらいなら聞いてもいいんじゃないかしら」
「……ん、そうする」
そう答えたイルムガルドの声は、先程のような戸惑いと憂いが薄れていた。その様子に微笑み、今度はアシュリーが彼女の額に優しくキスを落とす。そして二人は身を寄せ合い、シーツに体温を馴染ませながら、もう一度眠りに付いた。
いつもよりのんびりとアシュリーの部屋で過ごしたイルムガルドは、昼の少し前にタワーへと戻る。
先程まで過ごしていた六番街と比べて明る過ぎるタワー内の照明に目を瞬いている様子は、この時間に目覚めたばかりの他の住民達と同じ顔をしているようにも見えるし、朝帰りらしい顔であるようにも見える。ただ、歩く者もまだ
「あ」
「お? ああ、おはよう、イル」
部屋に戻るまでの廊下で、イルムガルドは一人の女性と遭遇する。彼女はイルムガルドを『イル』と愛称で親しげに呼ぶと、浮かべた笑顔も親しげな色をしていた。しかしイルムガルドは無表情のまま変わらない。彼女は笑みを浮かべたままで微かに眉を下げたが、それを責める様子は無かった。
「おはよう、あー、レベッカ」
「ん?」
「……端末のことでちょっと聞きたいんだけど、いい?」
ポケットから通信端末を出しながら、イルムガルドは彼女にそう言った。レベッカと呼ばれた女性は、嬉しそうに笑みを深めて頷く。
「勿論いいよ、あっち座ろっか?」
彼女達が立っていた廊下を少し進むと、角にはいくつかのテーブルと椅子が置かれ、飲料の自動販売機も設置されている。今はまだ早い時間なので無人だったが、夕方になると大体は誰かがそこで休憩をしている。
「イルが話し掛けてくれるなんて初めてだね、嬉しいな」
前を歩くレベッカの長いポニーテールが背中の真ん中でふわふわと揺れているのを、イルムガルドは意味も無く目で追っていた。彼女の言葉には、そうだっただろうかとでも言うように首を傾けたが、口を開かなかったのでレベッカには伝わらない。けれど返らない言葉を、レベッカが気にした様子も無かった。
「さて、何か困ったことあった?」
「困ったことじゃ、ないけど、この端末に辞書機能って付いてる?」
「ああ、うん、あるよ」
テーブルを挟んで一度座ったものの、イルムガルドの質問を受けてレベッカは彼女の隣へと椅子を移動させた。そしてイルムガルドが持つ端末の画面を覗き込む。
「最初の画面がこれでしょ、これを押して――」
イルムガルドの手の中にある端末を目の前で操作してやって、レベッカは辞書機能の呼び出し方を教える。そこへ適当な文字を打ち込んでやれば、アシュリーの部屋で開いた紙の辞書同様、言葉の意味が丁寧に説明されている画面が表示されるのを見て、イルムガルドは素直に感心した。
「便利」
「だよねー、アタシも良く使ってるよ、読めない単語がある時もコピーして貼り付けちゃえば調べられるし、あ、コピー分かる?」
「うーん、これ?」
文字のコピー機能についてはメッセージを打ち込む最中に偶然発見していたが、イルムガルドには何をするべきものなのかが分かっていなかった。「コピー」という表示がされている画面をレベッカに向ければ、彼女はにこにこと笑顔を浮かべたままで軽く頷く。
「そうそう、それ、その状態でね、こうして、ほい」
「便利」
先程と同じ言葉でもって感心を示したイルムガルドが可笑しかったのか、レベッカはくすくすと笑った。
「ホント、これって便利だよねぇ。でも慣れるまではアタシも時間掛かったからさ、また分かんなかったら聞いてくれたらいいよ」
「ありがとう。……レベッカも、ここ来て初めてこれ使ったの?」
「そうだよ。こういう通信端末、首都だと貧困層でもほとんどの人が持ってるけど、首都以外の街だと無い方が多いからね、うちの街も無かった」
「ふうん」
イルムガルドは故郷の街が首都と比べて大きく違うことは目で見て分かっていても、首都以外の街がどのようであるのかはほとんど知らない。故郷は辺境にあった為、近くに他の街も無く、酷く閉鎖的な場所だったからだ。そのままレベッカが少しだけ彼女の故郷の話を始めたところで、近くを通った職員が彼女らを振り返る。
「No.18――っと、失礼。レベッカ、そんなとこに居ていいのか? さっき、司令が探してたぞ?」
会話を止めて、レベッカが職員を振り返る。
「え、ホント? ……あ、メッセージ来てた、アハハ、やばいな、怒られるかな~」
彼女は自分のポケットから取り出した端末を確認すると、大袈裟に肩を竦める。そして声を掛けてくれた職員へと丁寧に礼を言って、立ち上がった。
「じゃあまたね、イル」
イルムガルドが軽く頷くのを見て、改めて微笑んでから、彼女は急ぎ足で歩いて行く。その背を見送ったイルムガルドは、『辞書機能あった。教えてもらえた』とだけ書いた短いメッセージをアシュリーへ送る。その横顔は、無表情ながらも何処か、機嫌が良さそうだった。
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